遠くて近い場所

 第1話
どうして、ここに彼が……。
まず、頭の中に浮かんだのは、そんな言葉だった。

「どうぞ、お入り下さい。」
ドアを開けて彼女を中に入れると、頼久はあかねに手を差し伸べた。脱いだ上着を受け取るつもりだったのだろう。
オレンジ色のフリースジャケットと、彼女の手に抱えられていたバッグを受け取る。そして、それらを玄関のクローゼットにしまいこんだ。
「まだ食事の用意の最中なもので、もうしばらくお待ち頂けますか?」
「え、あ…だ、大丈夫です!そんなに、まだお腹すいていないんで…」
頼久に案内されながら、あかねはリビングに続く廊下を歩いていた。

『頼久さんが来てるって知ってたら、こんな普段着で来なかったのに…!』

鷹通にちょっと勉強を教わるだけのつもりで、家でくつろいだままの格好で来てしまった。近所だから、そんなことまで気にすることはないと思ったのだが。
パーカーを脱いだ、その下はTシャツとデニムのミニスカートのみ。
せめて、もう少しデザインのあるカットソーなら、見映えしたかもしれないのに。
…などと、あれこれ悔やみながら、通されたリビングは暖かい色の照明で包まれていた。

「すみません、お招きしておきながら、まだ料理の最中でして。」
リビングに続くダイニングキッチンのカウンター越しに、鷹通が挨拶がてらに顔を出した。
「もうしばらくお待ち下さいね。ああ、それまでコーヒーでも入れて差し上げましょうか。」
そう言って鷹通は、コーヒーメーカーに手を伸ばそうとしたが、横からそれを頼久が引き受けた。
彼は手慣れた手つきで、フィルターをセットして挽いた豆を入れる。そして食器棚の中から、来客用のカップを取り出した。
「あ、あの…良いです、コーヒーは良いです!それより、夕飯の支度、私も手伝います!」
あかねは立ち上がり、二人のいるキッチンに向かった。

男二人がいても、まだスペースの有り余る広いキッチンは、暖かみのある木目と大理石で作られている。
その中央にあるダイニングテーブルの上には、まるでパーティーでも始めるかのような食器が、3人分揃えられていた。
「これ、鷹通さんたちが作ったんですか!?」
驚いたあかねの声に、鷹通は笑い声を上げた。
「まさか。そんなこと、私にはとても出来ませんよ。これは殆ど、うちのお手伝いさんが作っておいて下さったものを、暖めただけのものですよ。」
家族が留守になるときには、大概そのような作り置きの料理を冷凍保存しておいてくれるのだ、と鷹通は言った。
だが、そういう生活自体がやはり、一般庶民とは少し違うのだなとあかねは思う。

「改めて作ったのは、このスープくらいなものですかね。」
皿に盛りつけた優しい色のミルクスープには、人参のオレンジ色やブロッコリーのグリーン、コーンのイエローなど、色もカラフルで綺麗だ。
「えー、すごい!こういうの作っちゃうんですか、鷹通さん。」
「少しくらい、男性も料理できるのが今の常識ですからね。」
そう言って彼は、曇った眼鏡を拭きながら笑った。

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「うわ、鷹通さん…このスープすっごく美味しいですよ!」
男の料理と言ったら、もっと豪快にチャーハンとか焼肉とか、そういうものが多いと思っていた。
実際、あかねの父もそんなものを自分で作ったりしているし、友達の天真も物足りないときは自分で作ると言う。
でも、こんなに本格的な繊細な味なんて、とても男性が作ったとは思えない。
「小さい頃に母やお手伝いさんの手伝いをしながら、教えてもらったものなんです。何度も作っているので、それで味も安定したのかもしれませんね。」
野菜の味が染み出して、それでいてほんのりミルクの味が甘くて、隠し味に生クリームとかも入っているかも。身体に優しい味。
なんとなく、鷹通さんらしい味だなあ…とあかねは思った。

「ですが、頼久さんも結構料理がお上手なんですよ。」
隣でバゲットをつまんでいた頼久は、突然自分に話題が飛んで来たことに、一瞬驚いた様子で顔を上げた。
「先程お手伝いをして頂いたのですが、包丁の使い方や野菜の切り方が、本当にお上手で。」
この野菜は、すべて彼に切ってもらったのだ、と鷹通は言った。
スプーンですくってみた野菜は、きちんと面取りもされている。少し大きめに切っているせいで、じっくりと煮込んでも崩れていない。
「私は…ひとり暮らしの自炊生活なので、必然的に慣れてしまっただけです。」
「でも、ちゃんと作っているから、慣れたんじゃないですか。インスタントとかで適当にやっちゃうことだって出来るのに。」
向かいに座るあかねが、鷹通に同意を求めながら言う。
「そうですね。面倒だからと簡単なもので済ませる方も多いのですから、それだけでもご立派だと思いますよ。」
「いや…私は生まれつき、そういう暮らしをしていたもので…」

そこまで話をして、頼久は後に続けようとした言葉を飲み込んだ。
この先のことを言ってしまったら……もしかしたら、これ以上は言わない方が良いのではないだろうか。
まだ、完全な確信があるわけではない。
おおよそは見えて来ているが、それでも…。

「っていうことは、小さい頃からお母さんのお手伝いとか、ちゃんとしていたんですね、頼久さんて。」
あかねの声が聞こえて、頼久は顔を向けると、彼女は素直そうな瞳を輝かせて彼を見ていた。
子どもみたいな、澄み切った湧き水のような瞳。それは、彼にとって懐かしい何かを思い起こさせる。
「私なんか、お母さんの手伝いしようと思っても、『かえって邪魔になるわよ』とか言われて、あまりさせて貰えないんですよ。」
それでも最近は、ちょっとした料理くらいなら手伝わせてもらえるようになって、時々夕飯の支度とかもしたりする。
女の子らしく、お菓子なども少しは作れるようになったのだ、とあかねは楽しそうに答えた。

「でも、油物だけは絶対に手伝わせてもらえないんですよね。」
「ああ…揚げ物は色々危険が有りますからね。引火したりしたら危ないですし。」
あまりフライなどは作る機会はないけれど、ドーナツとかなら作ってみたいなあ、とあかねは言った。
「油がはねて、火傷などしては大変でしょうし。だからお母様も止められるのかもしれませんね。」
「そうですねー…パチっとして、熱いですもんね。」
二杯目のオレンジジュースを、冷えたデカンタから注いでもらいながら、あかねは鷹通とそんな会話を交わしている。
その声を聞きながら、頼久は気にかけていた一つの事を思いめぐらせていた。

それは、単なる普段の会話だった。
しかし、彼にとってはキーワードのような意味を持ち、繋がらなかった道筋にうっすらと足場を作り上げて行く。
もしもそれが、過去の記憶に通じる沿線上での事ならば…。
それが確かならば、彼女は間違いなく----------自分の一番古い記憶の中にいる、あの少女に間違いはない。
薄暗くて重苦しいだけの、幼い記憶の中で唯一、春の野原にいるような輝きを残しているひとつの記憶。
そこにいるのは、おそらく彼女だ。

だが、それと同時に頼久の中には、決して打ち明けてはならないという、開きかけた扉を遮るもう一人の自分がいる。
彼女の幸せを願うのであるならば、自分の存在を彼女に知られてはいけないのではないかと。


「あの……」
黙りこくっていた頼久に、声を掛けたのはあかねだ。
さっきまで澄み切っていた瞳が、ほんの少し揺らいで彼を見る。
「もしかして、そのー……二人とも、図書館とかのお仕事の話とかありました?」
「いいえ?特にありませんけれど」
突然そんなことを言い出したあかねを、鷹通は不思議そうに見ながらそう答えると、彼女はちらっと頼久の方を伺うように視線を動かした。
「もしかして、大切な打ち合わせとかあるのかなあって…。だったら、私お邪魔だったかなあって…」
後ろめたそうな彼女の目が、頼久の中に刻み込まれる。

…まずかった。ついぼんやりしていて、自分のことに気を取られていた。
おかげで、彼女に要らぬ気を使わせてしまったようだ。
そんなつもりではなかったのに。これじゃ、逆効果だ。

「申し訳有りません…気を利かすことも出来ずに失礼致しました…。」
急に頭を下げた頼久に、あかねたちはびっくりした。
「え?別に…そ、そんな…頼久さんが謝るようなことじゃ…」
「いえ、私が不躾な態度を取ってしまったことで、気分を害されてしまわれたのでは、と」
「そ、そんなことないですよ!そんな…大事なことじゃないです!かえって私の方が、頼久さんたちのお話の邪魔をしちゃったんじゃないかって…!」
あまりに真摯に頭を下げる頼久に、あかねはどうして良いのか慌てふためいた。
そんな二人を、鷹通は隣で眺めている。
何と言うか、どこか似た者同士という感じの二人だ。
真面目なところが、かえって微笑ましい。


「お二人とも、もうその辺りで"なし"にしたら良いのではありませんか?気を使い過ぎては、食事も美味しく頂けませんよ?」
あかねたちの目の前に、きらきらと輝くデザートグラスが一つずつ置かれた。
いつのまにか席から立って、キッチンから鷹通が食後のデザートを持って来た。
中には、バニラアイスクリームが盛りつけてある。
ブルーベリーソースのおまけ付き。
「溶けてしまわないうちに、どうぞ。甘いもので口直しでもして、もう少しゆっくり過ごしましょう。」
そう言って鷹通は、小さな金色のスプーンを彼らに手渡した。



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Megumi,Ka

suga