あの頃の素描

 第3話
「どうかしましたか?」
鷹通の指先が、開かれている問題集の回答欄をコンコンと叩く。

「あ、何でもないです……」
「良いお天気過ぎて、少しぼんやりしてしまいましたか?」
彼の指先が差したページに目をやると、一瞬でその解答の間違いに気づいた。
それくらい、初歩的な間違いをしたということだ。
もう完璧にこの化学式は覚えたと思っていたのに、基礎をミスしては行先に暗雲が立ちこめてしまう。

「間違いもまた、しっかりと暗記するための良い機会でもありますから。次は間違えないように、ここでちゃんと覚えておけば大丈夫ですよ。」
そう言って鷹通は、あかねの背中を軽く叩いた。

自分が教えたことを相手が間違えてしまっても、決して鷹通はそれととがめるようなことはしない。二度と間違いをおかさないようにと、逆に励ましてくれるから学校の勉強よりやる気が出てくる。
「では、もう一度やり直してみてくださいね。」
年下の女子高生の勉強に、根気よく付き合ってくれる彼のためにも、もう少ししっかりしなくてはとあかねは思った。


この大学に通うことが出来るか、その未来はまだはっきりと見えないけれど。
そう思いながら、再び席について参考書を開いてみても、やはり一度気に掛けたことはそう簡単に消えることはない。
頼久が知ろうとしている、母の故郷の町。彼が帰省した理由。
いつも座っている彼の椅子が空になっていることが、余計に意識させてしまうのだろう。

彼が帰ってきたら、尋ねてみよう。それくらい聞いても失礼ではないだろうし。
ガチャ、と深いきしみの音が響く。古い建物のドアは、開くときにそんな鈍い音を立てた。
「ああ藤原、すまんな。さっき言い忘れたんだが………」
再び戻ってきたのは、頼久に頼まれたという本を届けにやってきた、あの男性である。

「おまえ、来週の水曜くらいまで予定空いてるか?」
鷹通は、カウンターの上に置かれている卓上カレンダーを見た。連休が明けて、いつも通りに講義の毎日が始まる。
「実を言うとな、源さんから連絡があってな」
それまでさほど気にしていなかったのに、頼久の名前が声となって出てきた瞬間に、あかねのアンテナがピンとそちらに動く。
素直すぎる自分の反応に、我に返ってあかねは少し気恥ずかしくなった。

「実はな、水曜くらいまで休みをもらいたいって言うんだが」
えっ!?---声にならない驚きの声が上がる。それとは反対に、鷹通の方は冷静だ。
「……講義の後でしたら、私は構いませんが。でも珍しいですね、何かご実家の方でトラブルでも遭われたのでしょうか?」
「うーむ…そういうわけではないみたいだがな。まあ、随分と帰省していなかったことだから、色々と野暮用でもあるんだろうよ。何せ、彼もそういう年齢だろうし。」
男性の言う言葉に、鷹通は苦笑しながらも微笑んで会話を続けた。
あかねの表情が少しこわばっていることなんて、多分気づかない。

+++++

「ご両親は、もうお帰りになっているでしょうかね?」
帰りのバスの中で、鷹通が尋ねた。車内にあるデジタル時計の文字は、午後6時を少し過ぎたくらいだ。
「多分…。朝早く出かけたし、そんなに遠くじゃないって言ってたんで。」
両親が揃って家を留守にするということは、過去あまりなかったと思う。
大概はあかねも一緒に出かけるのが当たり前だったのだが、今日は古くからの知人の家に行くとかで、そうなると同行するわけにも行かず、あかね一人だけの留守番となってしまったのだ。

どこに出かけるとは言っていなかったけれど、朝早く出かけていったから、少し遠い場所なのかもしれない。
だが、さすがにもう帰宅していることだろう。

「明日はどうします?また、図書館にいらっしゃますか?」
あかねは、答えに困った。
確かに図書館に行けば勉強ははかどるだろうけれど、それと同時に色々なことを考えてしまうこともある。
その人の名前を耳にすれば、意識はそちらに向いてしまうし、そこにいない人の面影を探して、ぼんやりしてしまうこともしばしば。
静かな場所なのに、人も多くないのに、あきらかに注意力が散漫になる。そんな状態で、果たして図書館まで行く必要があるだろうか。

「水曜日以降の方が、良いでしょうかね?」
「えっ?」
鷹通が立ち上がった。何人かが立ち上がって、出口へと歩いていく。
下車する停留所にいつのまにか到着していた。
バスから降りると、昼間の初夏のような気温が嘘のように、少し肌寒い夕風が吹いていた。
「頼久さんがお帰りになられてからの方が、集中出来るかも知れませんねえ?」
あかねの少し前を歩きながら、鷹通がそんなことを言った。
「た、鷹通さんっ!」
「いや…逆に集中できなくなるでしょうか?」
「鷹通さんってばっ!」
振り返った彼の瞳が捕らえたのは、頬を赤く染めた少女の姿だった。



マンションの前で、5階を見上げると部屋が明るかった。住人が在宅という意味である。
「お帰りになっているようですね。では、今日はこれで失礼しますね」
あかねを自宅まで送り届けてから、鷹通は少し坂を上ったところにある自宅に向かって歩いていった。


……鷹通さんたら、変なこと言ってー!
エレベーターを上がりながら、少し熱のある両頬を軽く手のひらで包んであかねは目を閉じた。

確かに、異常なくらいに気にしてる。会った時から、いつも頼久のことを少なからず考えている。
意識しすぎているって、自分でも十分自覚できるくらいだから、第三者の鷹通から見れば一目瞭然なんだろうと思う。
会えなければ何となく寂しくて、会えれば胸が熱くなって。そして……どことなく嬉しくなる。

「やだなあ。まるで恋してるみたいだよ…」

----------------自分の独り言に、心臓がどきっと大きな振動を起こした。

何、そんなにどきどきしてるの?動悸、また止まらなくなってきてる。
胸が熱くて、燃えるように熱くて仕方がないのに、そんな時に限ってあの人の顔が浮かんできてしまう。
あの時、抱きしめてくれた胸の暖かさ。包み込む笑顔の優しさと、静かな声。透き通ったクリスタルガラスの輝きのように、綺麗な瞳からこぼれる光。

浮かんでくる姿を確かめれば、更に胸の熱さが深まっていくばかり。
そして、どきどきが止まない。


「おかえりなさい。……あなた、どうかしたの?」
家のドアを開けたとたんに、キッチンから顔を出した母があかねを見て言った。
「え?な、何かおかしい?」
「おかしいっていうか、顔が赤い気がするんだけど。熱でもあるんじゃない?」
そう言って額に当ててくれた母の手は、水仕事のせいもあってひんやりと冷たかった。

「な、何でもないよ。それより……おみやげ何かある?」
慌ててリビングに歩いていくと、既に風呂を上がった父が晩酌のビールを味わっているところだった。
テーブルには夕食の用意が出来ていて、あかねの帰宅を待って食事を始めるつもりだったのだろう。
「ごめんなさいね。今日はちょっと時間かかっちゃって…おみやげ買ってくる暇なかったのよ」
あかねが不満そうにするよりも先に、すぐ父が口を挟んだ。

「そのかわり、明日父さんが買い物に連れて行ってやるよ。駅ビルにあるおまえの好きな店で、セールやってただろう?何か買ってやるから、それで良いだろ?」
「うそぉ?ホントに?」
父がうなづくと、すっとあかねの表情がやんわりと緩んだ。

「さあ、夕飯にするから手を洗ってきて。」
母に言われて、あかねは洗面所に向かって足早に消えていった。



出来るなら、気付かせることはしたくなかった。忘れているなら、それで良いと思った。
それがきっと、彼女にとっては幸せなことに違いないのだ。

楽しい思い出だけを受け止めて、辛かったことはすべて埋め尽くしてしまえば良い。
もう二度と、掘り起こせないほど深いところへ。
自分たちには、そう願うしか出来ない。


もしかしたらたった一人、その記憶のすべてから彼女を守ることの出来る人がいるのかもしれないが。



---THE END---



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Megumi,Ka

suga