あの頃の素描

 第2話
連休のまっただ中。あかねは鷹通に連れられて大学の図書館にやって来ていた。
頼久が休暇を取っているため、代わりに彼が仕事を担当しなくてはならなくなったせいだ。
そこにあかねが着いてきているのは、これまた一人で家にいても仕方がないからだ。

今日は朝から両親が外出しているので、何もすることがない。ぼおっとしているなら図書館で勉強でもしている方が気楽だということで、鷹通に着いてきてしまった。
まあ、何か分からないことがあれば、すぐに聞ける人がそこにいてくれるし、自宅で勉強しているよりはずっとはかどる。

ただ一つ、頼久がいないのが少し物足りない気がするけれど。


世間は5連休というスケジュールが一般的な中で、わざわざ図書館に来る者はそんなに多くはない。
入荷した新刊のチェック作業もすんなりとはかどる。
黙々と仕事をする鷹通の近くで、窓際を陣取った席に腰掛けたあかねは参考書を片手に、問題集を解いている。
たまに本の返却にやって来る生徒がいるくらいで、人気はあまりない。いつもよりずっと閑散としている。


「そろそろお昼ですね。昼食はどうしますか?」
アンティーク調の腕時計で時間を確認すると、鷹通がカウンターからあかねに声をかけた。
「鷹通さんは?」
「私はここを留守にすることは出来ないので、家から持ってきたんです。カフェテリアならテイクアウト出来るものも売っていますよ?」
「じゃ、買いに行って来ようかなあノ」
開いていた参考書とノートをぱたんと閉じて、椅子から立ち上がった。
大きな窓の硝子は冬の氷のように澄んでいて、太陽の光をそのまま通してしまいそうだ。

古い本を動かすたびに、軽く埃が立つことも目に見えて分かるほど日当たりが良い図書館の一角。
外に出ると緑の間から木漏れ日がきらきら輝いていた。

+++++

連休中だが、それでもカフェテリアは常時数人ほどは客が待機していた。
あかねはテイクアウトコーナーにあるサンドイッチとサラダを適当に選び、自分用のミルクティーと鷹通用のアイスレモンティーをオーダーした。
ドリンクが用意されるまでの間、デザートコーナーのショコラプリンに気を取られていたが、オープンテラスの方から聞こえてくる女子生徒の声が耳に入ってきた。

「そう!何かね、しばらくお休みなんですって、彼」
「残念〜。せっかくの連休に学校まで来たのも、彼に会うためだったのにー」
栗色のセミロングの二人。アイスコーヒーのグラスに差したストローと、同じ色をしたマニキュアが印象的だ。
「滅多にお休みなんかしないから、油断してたわね。」
「いきなりこんな時期に帰省なんてノノ何かあったのかしらね」

コトン、と目の前に二つのカップが差し出された。
「ドリンクお待たせ致しました」
あかねは精算を済ませて店を出ると、丁度、その二人の前を横切ることになった。


「もしかして、実家に連れて行く人でもいたのかも?」
「ちょっとー!そんなこと言わないでよー!源さんにそんな噂、聞いたことないわよ?!」
後ろから肩を引っ張られたような気がした。
その、たった一つの名前を聞いただけで。
「でも分からないわよ?今まで全然反応なかったのは、最初から決まった人がいたからかもしれないじゃない」
「そんな、期待をぶちこわすようなこと、言わないでよう!」
きゃんきゃんした黄色い声が耳を通り抜けていく。その場で立ちつくすわけにもいかず、あかねは駆け足でカフェテリアを後にした。


中庭を歩いている間、ずっと動悸が止まらなかった。
どきどき、どきどきと心臓が異常なまでに反応している。

ノノノ頼久さんが帰省したのってノ帰省した理由ってノノノ。

もう一度、さっきの女子大生の声がリフレインされる。
"実家に連れて行く人でもいたのかも?"
"最初から決まった人がいたのかも?"

頼久くらいの年齢なら、そんな相手がいたって不思議でもなんでもない。
彼みたいに真面目で見栄えの良い男性なら、どんな人にだって受け入れてもらえるに違いない。
そんなこと承知しているつもりなのに、動悸は全然治まってくれない。

彼の瞳が捕らえる女性、彼が心の中に受け入れることを許す唯一の女性、そんな女性の存在があるのかもしれない。
そう思ったらノノノノ更にどきどきしてきて、それでいて胸が締め付けられる。
どうしたんだろう。どうすれば良いんだろう。
一体、どうすればこの胸の反乱は沈静化してくれるんだろう?

+++++

スタッフルームで鷹通とランチを広げている間も、心が冷静を取り戻してくれなかった。
いるはずのない頼久の席を見ては、いろいろな感情が駆けめぐってきて、そうしてまた心臓がどきどきしてくる。
「頼久さんノって、何で帰省したんでしょうね?」
突然あかねが聞いていた言葉に、鷹通は一瞬首をかしげた。
「それはノさあ、そこまでは私は分かりませんが。ただ、しばらく帰省していなかったので、今回の連休はまとまった日にちがあるから、丁度良かったんじゃないでしょうか?」

頼久のこれまでの生い立ちについては、先日ふとした話の流れて聞くことが出来たが、あまり他人に広めるようなことではないだろうと思い、彼女には言わないでおいた。
「藤原、いるか?」
カウンターの外から鷹通を呼ぶ声がした。
慌てて彼が立ち上がりスタッフルームから顔を出すと、そこには教授らしき風貌の男性が一冊の本を持って立っていた。
「すまないな、昼飯だったか」
「いえ、大丈夫ですよ。何かご用ですか?」
スッと差し出された上製本。その背表紙には金文字で〈持出禁止〉と書かれていた。

「この本、源さんに頼まれていたんだ。東京のキャンパスにある図書館にあったもので、本当はこの通りの〈持出禁止〉の本なんだがなノノ」
紺色の布張りされた本は、古いながらもさほど痛みがなくしっかりとしている。
「良いのですか?お借りしても構わないのでしょうか?」
「ああ。特別に何とか許可してもらったよ。源さんには随分と頑張ってもらっているからな。ただ、丁寧に扱ってくれるように伝えてくれ。」
そう告げたあと、男性は図書館を出ていった。

鷹通は一冊の本を手に、再びスタッフルームに戻ってきた。
「源さんが教授に本探しをお願いしていたとは知りませんでしたねえノ」
その本を丁寧に扱いながら、奥にある本棚にしまい込んだ。
「頼久さんが、探していた本が見つかったんですか?」
「そうみたいですね。私は範囲外のジャンルなのでよく分からないのですがノ民俗学の重要な書籍らしいですね」
民俗学ノやはり彼が読んでいるのは、いつも民俗学についての本のようだ。そんなにしてまで、彼が調べたいこととは何なんだろう?

「鷹通さん、それノ何で言う本なんですか?」
あかねが聞くと、鷹通は今本棚にしまったばかりの本の背表紙を見た。
「ええとノノ『○○町における民間伝承と住民性・ある一族の記録史』というものですね。」
○○町、という名前を聞いてあかねは確信した。

「やっぱりそうです!鷹通さん、その町って私のお母さんの実家のある町ですよ!」
そういえば、こないだあかねが同じようなことを言っていたのを思い出した。
「もしかして頼久さんの実家もここなのかもノ。だから、こんなに色々調べてるのかもノ」

町の名前までは聞いたことがなかったから、鷹通には何とも答えようがなかった。
しかし、あかねの言っていることがすべて正しいのであれば、そう考えて不思議ではないところには来ていると思われる。
「帰ってきてから、ご本人にお尋ねした方が良さそうですね。」
そう鷹通は言った。

が、あかねは一瞬息を飲み込んだ。
もしも母の実家と同じ町に彼が生まれ育ったとしたならば、それを偶然というきっかけにして、更に親しくなれるかもしれない。
だが、そうだとしてもノノさっきのような事情が彼にあったとしたならば、親しくなるほどに切なくなる。
彼の故郷の名前を確認することよりも、もっとあかねにとって重要なことはノノノ頼久自身のことだ。

他の女性に目が行かないほど、心に抱いた女性がいるのだろうか。
知りたいのは、それだ。それが不明なままでは、この動悸はきっと止まらない。


「さあ、午後の仕事を始めましょうか。問題集、どこまで出来上がりました?」
鷹通に肩を叩かれても、振り子のように揺れだした心は未だに落ち着いてくれなかった。



***********

Megumi,Ka

suga