あの頃の素描

 第1話
どこかから、子どもの泣き声が聞こえる。
辺りはすでに真っ暗になっていて、こんな田舎道では街灯の明かりくらいで視界を広げることは難しい。

「誰かいるのか?」

声をかけてみるけれど、返事は返ってこない。ただ、その泣き声は止まることなく響いている。
暗闇の中でおぼつかない足を踏みしめながら、耳に入ってくるその声を頼りに歩いていく。

泣き声は近くなったり、また少し遠ざかってみたり。自分の歩く先が間違っているのか、それとも相手が動いているのか。
「動かないで、そこに止まって」
相変わらずの無反応と、泣きじゃくる声。いっこうに広がらない闇。

--------誰だ?!


パッと目が覚めた。視線の先には、高い天井が広がっている。
無に近い夜の静寂。障子戸の隙間からこぼれてくる月明かりが、畳をわずかに照らしていた。
頼久は上半身を起こし、一つため息をついたあと寝起きの目をこすった。
着崩れした浴衣の襟元が汗ばんでいたのは、ここ数日の暖かさのせいだけじゃない。
「…おかしな夢だ…」
ぽつり、と頼久はつぶやいた。

夢の中で聞いた泣き声を思い出すと、不思議な感覚が蘇る。懐かしいような思いと、そして不安と。
それは、幼い頃の自分の泣き声のようにも思えたからだろうか。


障子を開けると、広い中庭を昼間のように照らす満月が見えた。
柔らかな黄色を帯びたそれらは、太陽ほど激しくない明かりで闇を少しだけ消し去っている。
こうして眺める月は、幼い頃に見たものと殆ど変わっていない。頼久が現在住んでいる街では見える空が狭くて、月に気付くことなんてあまりなかった。
月の明るささえ、ネオンにかき消されてしまっていたくらいだ。

そういえば、一人で眠るのが怖くて布団にくるまって泣いたことがあったが…あれはいくつくらいの事だったろう。この寺に引き取られて間もない頃だったかと思う。
その頃はまだ住職の他に何人か若い僧侶がいて、こんな田舎の寺でもそれなりに賑やかだった。彼らは幼い頼久を弟のように扱ってくれて、そして住職は父のように時には厳しい教えを刻んでくれた。

時は流れていつしか彼らは、個々の理由でこの場所から立ち退いていった。
別の寺院に移っていった者、修行を終えて自宅の寺院を継いだ者…一人一人が姿を消して行き、頼久がここを出ていくときに見送ってくれた5人の僧侶も、もういなかった。
古びた田舎の寺には年老いた住職と、如勲・綜徳と言う二人の僧侶の三人。寂しげなようにも見えるが、過疎化の進んだ小さな町ではこれくらいが充分なのかもしれない。

いつになってもここだけは、昔と変わることはないだろうと思っていたが、こんな田舎町も時間の流れの中でゆっくり変貌してきている。
風景も、そして人々の存在も。
頼久の中に深く沈んだ、幼い日の記憶とは裏腹に。


■■■


「頼久、わしは今日、隣町まで所用があるんだが、おまえはどうする?綜徳は連れて行くが着いてくるか?」
今朝のつとめが終わったあと、住職が慌ただしく法衣の用意をしながら頼久に言った。
「いや…私はここで留守番しています。如勲一人では手が回らないこともあるかもしれませんし。」
何度か住職の所用に着いていったことはあるが、今となっては仏門とは無関係の大の大人が顔を出すのも妙だ。こういった場合は、待機しているのが正解と言えるだろう。
「そうか。じゃあ二人で留守を任せる。帰りは夜になると思うが、よろしく頼むぞ」
そう言って住職は、朝早くから寺を後にした。

+++++

昼近くまで本堂の掃除を手伝ったあと、頼久たちは薪割りをした。この寺では文明の利器なんてものとは無縁だ。今でも風呂や厨房は薪を焚いて使っている。

「頼久さんのおかげで、随分と蓄えの薪が出来ましたよ。さすがに私と綜徳では2〜3日分くらいしか出来ませんし。やはりお若いから力も違いますねぇ」
疲労のたまった腰を叩きながら、如勲がほうっと息を吐きつつ言った。
そう言う如勲は、確か頼久より5つくらい上だったと思う。綜徳が7つくらい。そう年老いた年令ではないのだが、毎日こんな仕事をしていると身体も疲れが蓄積してしまうのだろう。
「少し早いですが、お茶にでもしましょうか。たまにはゆっくり午後を過ごすのも良いでしょう」
濃いめに入れた熱い緑茶は、汗をかいた体に自然と馴染んで溶けていった。


車のエンジン音や喧噪のかわりに、小鳥の声が聞こえている。どこかで子犬の鳴く声がする。時々、さわさわと風に草が揺れる音がする。
ここで聞こえる音は、そんな自然のものばかりだ。
高く澄み切った青空に浮かぶ雲が、太陽に照らされて輝いていた。
「午後から、何か他に手伝うことがありますか?」
縁側でぼんやりと茶を飲みながら頼久は尋ねると、彼はしばらく考えてから、何か思い付いたように山の向こうを指さした。
「裏山のふもとに大きな桜の木があるでしょう。あそこの近くにある墓地の掃除をしてきてもらえませんか?」
「桜の木……?ああ、そういえば」

生まれ育った場所だから、この辺りの土地勘は大体記憶に残っている。墓地の清掃を手伝うことは日課でもあったから、この町の墓地は大概覚えている。
山のふもとは、桜の木が一面を覆うように植えられていて、春になると山は桜色一色に染まるほどだ。
その中で一番古く、大きな木がある。その回りに、この世の生を終えて静かに眠る人たちの場所がある。
「構いませんよ。随分とこの辺りを歩くのも久しぶりですから、散歩も兼ねて行って来ます」
「いや、助かります。夕飯の支度までに帰ってきて貰えれば良いですから、宜しく御願いします」


頼久が寺を出たのは、丁度頭上に太陽が上がった頃だった。
晴天に近い晴れの日の日差しは強かったが、自然の光りは逆に彼にとっては心地良く感じられた。

+++++

世の中は連休だというのに、墓参りにやってくるという人は殆どいないらしい。彼岸の頃に備えられたような花は枯れ果て、散った桜はその辺りに花びらを散らしている。
わずかだが数本の山桜が、遅れを取ってほんのりと若草の間から花を咲かせている。控えめな色合いがなかなかに美しいと思う。
参拝客のいない寂れた小さな墓地だが、この桜のせいで少しは華やかに見えるのが春という季節の良いところだ。

枯れた花を片づけ、散らばったごみを竹箒で掃きながら、この山をかけ歩いた頃のことを思い巡らせる。
春夏秋冬の四つの季節の中で、それぞれに変わる花や木の風景を眺め、魚を捕まえてリスを追いかけていた幼い日々の中に刻まれている、子どもの頃の自分と…そして一緒にいたもう一つの影。
ずっと一緒にいようと、離れたりしないと。言葉で誓った訳ではないけれど、そう信じていた。
離れてしまってからもずっと、どこかでその時のことを忘れられないままに時が流れて……。


ふと、墓地の奥にある目新しい墓石に気付いた。
まだ石の艶も刻まれた文字も鮮明で、白木の卒塔婆に記された筆文字が目に眩しい。亡くなってから、それほど時間の経っていない墓だ。

頼久は近付いて、その名前を見た。
そこに刻まれていた名前は、忘れようとしても忘れることの出来ない、この土地で頼久が刻んだ記憶の中で暗く重苦しいものを生み出した元凶だった。
嫌な思い出ほど、忘れたい思い出ほど強くそれらは心に残る。思い出しては再び刻み込まれ、消えることがない。
あの時の涙も泣き声も、ここから始まったものだと知っているから--------頼久は立ち止まったまま、素直にその墓石に手を合わせることが出来なかった。


「すみません、あの……」
背後から声がして、頼久は振り返った。そこに立っていたのは、生成色の落ち着いたスーツとオーガンジーのスカーフを結んだ、40代後半か50代前半という感じの女性だった。
頼久は、彼女が花束を抱えていたことに気付き、慌ててその場から避けた。
「申し訳有りません。お参りの邪魔をしてしまいまして…」
申し訳なさそうに言うと、彼女は『いいえ』と一言返して静かに微笑んでから、その墓前に花を生け始めた。
真っ白な雪が集まったような、かすみ草の束。オレンジ色のガーベラ。淡いピンクの金魚草。

……親類縁者か。この墓に、花を供えにくる人がいるとは思わなかったな。
不謹慎な感情かもしれないが、その女性の背中を眺めながら頼久は、そう思ってしまった。


「こちらのお墓の管理をして頂いている方ですか?」
彼女がそう尋ねた。
「いや…私は近くの寺の縁の者で。住職が留守にしているものですから、代わりにここへ」
頼久が答えると、彼女は何か気づいたような表情をしてから、しばらく頼久の顔を確かめるようにじっと見た。
「こちらの出身の方?」
「あ、はい。今は違いますが、生まれ育ったのはここです。」
「そう………」
嫌な感じはしないが、何故だか必要以上に自分を凝視しているようで気に掛かる。
昔、会ったことがあっただろうか。頼久自身は記憶がないが……よく見るとどこかで会ったことがあるような、そんな限りなく薄い記憶が残っている気がしないこともない。

「あの………」
声を掛けようとした時、あぜ道の向こうから彼女の夫と思われる男性が足早にやって来た。
「そろそろ行くぞ。あまりここらに待機していては不味いだろう。」
男は、疑問が残るような発言をした。が、彼女はその言葉にすんなりとうなずいて納得しているようだった。

長く滞在してはならないとは、どういう意味なのだろう?この墓の縁者ならば、この土地は故郷と言って良いものだろうし、まだ誰か血筋の者は住んでいるはずなのだから、逃げるように去らなくても良いのではないか。
他人のことを詮索するのは、あまり良い傾向ではないなと我に返って頼久が思っていると、女性はこちらを振り向いた。

「では、これで。ご住職によろしくお伝え下さい」
深々と頭を下げた彼女の後ろで、軽く男性も一緒に頭を下げた。

彼女には尋ねたいことがいくつかあったが、近くに停めてあった車へと早足で去っていく二人を呼び止めることは出来なかった。


一体、彼女は誰だったのだろう。何故、頼久をあんなに興味深げに見ていたのか。
奇妙な謎を残したまま、二人は去っていった。



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Megumi,Ka

suga