雲間の向こう

 第3話
「随分と帰ってこないかと思ったら、ずっとぼんやりとしておって…どうかしたのか?」
遠くに見える緑の山を眺めていると、背後にやってきていた住職が問いかけた。
「いえ、しばらく見ないでいると、この景色も懐かしく思えるものだなと思いまして。」
頼久がそう答えると、住職は彼の隣にゆっくりと腰を下ろして同じ方向を眺めた。春の野山は、深くて鮮やかな緑色に包まれる。桜の時期は終わってしまったが、こんな風景も素朴でなかなか良いものだ。

大学のある隣県から電車を乗り継いで2時間半。揺れる車窓の外に流れていく山並みを見ていると、ここで過ごした幼い記憶がゆっくりと湧き上がってくるような気がした。
良いことなんて、殆どなかったと言って良い。それくらい、この町に固執することなど皆無に近かった。未来なんて夢見る余裕さえなくて、諦めることを悟った少年の頃。
頼久は、確かにこの町にいた。
それを忘れきれなかったのは、すべて彼女のせいだった。

忘れたことなど一度もない。
自分にとって…身よりのない自分にとって、あの日心の支えだったのは彼女の存在だった。彼女を護ろうとする想いが、孤独だった少年をいつしか大人に変えていた。
幼いままではいけないと思った。諦めているばかりでは、護れないと思った。
記憶が甦るにつれて、あの山に咲く山桜の香りが思い浮かぶ。無邪気に笑う姿が、自分にとって何よりも大切だった頃。
あの日がずっと続くと、ずっと彼女を護り続けるのは自分だと思っていた。
突然、彼女がいなくなった……寒い冬の日まで、ずっとそう信じていた。

そして、心に空いた風穴を埋められないまま………頼久は本当の大人になっていた。


「何かあって、戻ってきたのだろう?」
言葉も交わさず、その場で時間の流れる空気を味わっていた住職が、頼久に向かって口を開いた。
「滅多に手紙もよこさないおまえが、ここに帰ってきたということは…何か気に掛かることがあったからではないのか?」

頼久から手紙が来たのは、ほんの一週間ほど前だった。それだけでも驚くべきことだったのだが、中を開けば『連休には帰ります』との文字。成人してから、殆ど寄りつくことの無かったこの故郷の寺に、いきなり彼が帰ってきたということは、何かしら問題を抱えていたからだろう。
「昔の事を思い出したので、ここの空気をもう一度吸いたくなったのです」
そう答えて、軽くすっと深呼吸をしてみた。

吸い込まれてゆくのは緑の空気。野の香り。日だまりの暖かな木漏れ日。あの頃とは、何一つ変わらない世界だ。
変わったのは、親代わりに育ててくれたこの寺の住職が、一層老け込んだなと気付いたこと。そして、柱に刻んだ背丈の傷が、今はもう自分の腰までしかないこと。
残された記憶と同じように、ここはあの時のままで変わらない。

「随分とこの町も寂れて来ましたね」
「おまえのように若い奴らが、さっさと町を見捨てて出ていってしまうから、潤うものも潤わずに枯れてしまうんだ」
憎まれ口を叩きながらも、住職は決して頼久の成長を咎めたりはしなかった。むしろ、立派な体躯を携えた真っ直ぐな瞳の青年に成長した彼を、嬉しくもあり誇らしくもあった。
この寺に引き取られたときは、まだ母親を慕って泣くことさえあった彼が、今はそんな面影さえもない。それもまた、あの出逢いがあったからこそなのだろう、と思った。
二人があの時出会わなかったら………お互いに闇の世界しか知らずに生きていたかもしれない。
運命ならば、それに今は感謝しなくてはならないだろう。

子供はいつか巣立っていくもの。もちろん頼久もそうだ。
特に彼は、こんな町にいるよりも…どこか一人で生きていける場所を見つけた方が良いだろうと住職は思っていた。
彼にとって、ここは良い思い出のない場所だ。親と引き離され、身内の者もいない自分の寺に引き渡されて、たった一人で過ごしていた記憶は、決して良いものではないはずだからだ。
今となっては、もう些細なことかもしれないが。


「で、いつまでいるんだ?」
頼久は、少し考えた。
「迷惑でなければ、来週の水曜ぐらいまで…と思っているのですが。」
今は木曜。となると、ほぼ一週間ということか。カレンダー通りでは連休は日曜日まで。そう休みを簡単に取れるような仕事ではないと思うのだが。
「…おまえの仕事に差し障りがなければ、構わんがな。」
彼が大人になってから、こう長い間一緒に過ごせる機会は滅多にない。我が子同然のように扱ってきた住職にとっては、願ってもないことに違いなかった。
「だからと言って甘やかしはせんぞ。朝のつとめも掃除も、昔通りにやってもらうからな」
そんな厳しい声が、頼久には何故か嬉しく感じた。

彼はゆっくりと庭に降り立ち、全身を思い切り伸ばしてみる。自分を深く知らない者ばかりの都会は、その分気を遣わずに済むので気楽だと感じてはいたが、やはりこの野山の景色は心が安まる。
……あの頃だったら、そんなこと少しも思わなかっただろうに。時の流れは不思議なものだと思った。
そして、彼女に出会った偶然という運命の悪戯までも。



ふと、逞しい頼久の広い背中を眺めていた住職が、今しがた思い出したように口を開いた。
「そういや、おまえにとっては…一つ、大きく変わったことがあったな。」
頼久は黙って、そのあとに続く言葉を待った。


「……樫の木沿いにある屋敷の大奥方が、去年亡くなられた。」


住職が、ぽつりと言った。
しばらくの間、沈黙が流れた。ただ、風だけがゆるく流れ漂った。

庭先で、小鳥のさえずりが聞こえたころ、
「…………そうですか。」
と、頼久は無機質に答えた。





-----THE END-----


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Megumi,Ka

suga