雲間の向こう

 第2話
「車を呼んで差し上げますので、それに乗ってお帰り下さい。もう遅いですから、外を歩くのは危険ですし。」
そう言って頼久はタクシーを呼んでくれた。加えて自分の引き出しから厚手のジャケットを取り出し、あかねに貸してくれた。
「色々と迷惑かけてすいませんでした……」
深々と頭を下げるあかねに、頼久は黙って首を横に振った。何も言わないが、当然のことをしたまでのことだと…彼の表情はそんな風に言っているかのように思えた。
流れていく夜の風は、少しだけ肌寒い。だからこそ頼久の貸してくれたジャケットが、尚更暖かく感じられる。
タクシーのヘッドライトがアパートの前で止まると、運転席のドアを開けた頼久がドライバーに何か話していた。
「お住まいはどちらですか?」
後部座席に乗り込んだあかねに、頼久が振り向いて言う。
「あ…えっと…?○町の公園の裏手…あたりです」
あかねが言うと、頼久はそこまで彼女を届けて下ろしてくれ、とドライバーに頼んだ。その際、いくらか代金を支払ってくれたようだったが、後ろからでは確認出来なかった。
「お気を付けてお帰り下さい。お疲れでしょうから、ゆっくりお休みになって…今日のことはお忘れになられた方がいいですよ。」
頼久の声のあと、ばたんとドアが閉まった。ガラスを挟んで外に見える彼の姿が、こちらをずっと見つめてくれていた。
何度もありがとうと声に出したかったけれど、窓を開けない限りは聞こえないだろう。
エンジンでシートが震え、ライトが再び点滅し始めて、ゆっくり車が走り出していく。彼の姿が遠くなっていくのを、振り返って確認しながらジャケットの裾を握りしめた。

暖かい包み込むような厚手の生地。それは彼の手のひらのぬくもりを思い出させた。




車が見えなくなってから、頼久は部屋に戻って彼女が飲んだカップを片付けはじめた。そして、さっきまでそこにあったあかねの存在を思い出す。
触れた手は、大きさ以外はあの日のまま。腕の中で震えていた姿も、あの日のまま。
だから覚えていたのだ。忘れられなかったのだ。
思い出すのは、笑顔と涙。それだけを心に刻んだまま、頼久はこれまで生きてきた。
いつか彼女に再会するときがきたら、あの日のように手を差し伸べてやれるように…と心に描いて。

遠い記憶が、少しずつ引き上げられるように思い出されてくる。
小さなぬくもりを閉じこめた日々。


■■■


数日後、あかねは学校の帰り道にあるクリーニング店にいた。頼んでいたものが仕上がるとのことで、引き取りにやってきたのだ。
「元宮さん…えーと、ジャケット一着のご注文でしたね」
クリーニングに出したのは、勿論先日頼久が貸してくれたジャケットだ。たいして汚れていたわけではないが、借りた手前、やはりクリーニングくらいはして返すのが礼儀だろうとのことで頼んだのだが…。
何せ男物のジャケットなどが、年頃の娘の部屋にあるのを見つけられたら両親には気まずい。というわけで、家の近くは避けて、他の店に頼んだのだ。
小綺麗なビニールに包装されたジャケットを、大きめの紙袋に入れて店を出たあかねは、それを持って鷹通の家に行くことにした。
今日は鷹通に勉強を教えてもらう日。頼久と共に図書館勤務をしている彼に頼めば、きっと手渡してくれるだろうとの考えだった。
本当なら自分が行けばいいのだが、高校生がそんなに頻繁に国立大学に行き来するのも妙だし。それに、決して近いという距離でもないので。
頼久に会いたい気持ちはあるのだが………。




「次の連休は、図書館の方に新しい本が届くことになっていましてね。休日だというのに、結局大学に通うことになってしまいそうなんですよ」
数学の参考書を開きながら、あかねが真剣に取り組んでいる答案用紙を見つつ鷹通が行った。
「そうなんですかー?鷹通さんとかだったら、優雅に南の島でリゾートとかあったりしてもおかしくないのにー」
「まさか。たかだか普通の大学生に、そんな余裕なんてありませんよ。」
謙遜なのか本気でそう言っているのかわからないが、普通の高校生のあかねには鷹通のようなブルジョア家庭の生活を、かなり肥大してゴージャスに推測してしまう。
「連休の間は頼久さんもいらっしゃいませんし…私が出ないと人手が足りないものですからね」
ぱたんと本を閉じて、眼鏡を外した目をこすりながら鷹通が言った。その言葉に、あかねが顔を上げる。
「頼久さん、いないんですか?」
「ええ。しばらく実家の方に戻っていないとのことで、顔を見せなくてはおっしゃっていたもので。とにかく、あまりお休みを取られない方なので、この機会に少しお休みになられると良いのですがね。」

それを聞いて、どことなく力が抜けてしまった。
やっと休みがきた。休みになったら、図書館に行く時間も取れるだろうと思っていたのに……頼久がいないのでは話にならない。
せっかく逢えると思ったのに。期待していただけに、しぼんだ気分は結構心に痛手になってしまった。
「頼久さんの実家って、どこですか?」
何気なしに、あかねは鷹通に尋ねる。
「確か、隣の県の小さな町だとのことですよ。山と森に囲まれた、のどかな町だとお聞きしましたよ。」
鷹通は答えた。
頼久と過ごす時間が比較的多い鷹通でも、彼の素性など詳細は知らない。真面目な男で好感の持てる男なのだが、自ら口を開くことも多くない頼久である。そういうことを話す機会もさほどないせいもある。おそらく、彼を雇っている人事に関わる者以外は、そんな詳しいことを知る者はこの構内を探してもいないのではないだろうか。……鷹通は、そう思った。

顔を上げると、ノートにペンを走らせていたあかねの手が止まっていた。
「ほら、早く数式を解いてしまわなくては。タイムリミットまで、もうそんなに長くありませんよ?」
鷹通は急かすように言ったが、あかねの耳には入ってこなかった。
それよりも、ずっと重要なこと。
「鷹通さん…今、頼久さんの実家って、隣の県の…小さな町って言いましたよね?」
「?ええ、詳しい町の名前は聞いてはいませんが、確かそう聞きました。それがどうか?」
別に気に留めるようなことを言ったつもりではなかったのだが、あかねの様子を見ると何でもないとは言い難い。
何かまずいことでも言っただろうか……と、さっきの自分の発言をもう一度考え直してみようと思ったとき、あかねが身を乗り出して鷹通の顔を覗き込んだ。

「あ、あたしのお母さんの実家も…隣の県の町なんです!」

そう、小さい頃に育ったのは、確かにあの小さな町。鷹通が言ったように、山と森に囲まれた…民話の絵本に出てくるような町だった。
四季折々の花が咲き乱れ、流れる川には魚が泳ぐ。小さな動物が走り回ることが、何一つ違和感のなかった日々。

「でも、同じ町とは限らないでしょう?」
鷹通はそう言った。
だけど……あかねにはもう一つ記憶がある。図書館で覗いた、頼久の読んでいた本に映っていた写真の町。

あれは…確かに、あの町だった。あかねの、もう一つのふるさとの小さな町に間違いなかった。


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Megumi,Ka

suga