雲間の向こう

 第1話
その暖かさは、どこか懐かしさがあった。
幼い頃にこんな風に、似たようなぬくもりを感じたことがあるような…そんな気がして。
大きな腕に包み込まれていると、目の前に襲いかかってきていた恐怖感など消え失せてしまった。涙は自然と流れることを止め、ただそこにある暖かさに身を寄せていた。

「す、すみません…!」
我に返った頼久は、あかねを抱きしめていた手の力を緩めた。とたんに吹いてきた夜風が、あかねの肌をひんやりと貫く。
そうだ。さっき……見知らぬ男達に絡まれていた時、彼が偶然現れてくれた。そして、自分を護ってくれたのだ。
「…どこか怪我でもしていませんか…?」
頼久が尋ねた。
「…大丈夫…です。別にどこも…平気です。」
そうあかねが答えると、彼はホッとしたように表情を緩めた。
「それなら良かったです。悲鳴のような声が聞こえたものですから…何かあったのかと。」
何もなかった。怪我などしていない。無傷だ……だけど……あの突然過ぎった恐怖感は何だったんだろう。
彼らに手を捕まれた瞬間、大津波に飲み込まれるような圧力に似た恐怖。何故、そんな感情が浮かび上がってきたんだろう?。
分からない。何一つ思い当たることなんてないはずなのに。どこかで感じたような恐怖。その正体は何なのか。

ふわり、と背中が暖かくなった。肩に手を触れると、あかねの背中を包むようにコーデュロイの厚手のシャツがかけられている。
華奢な彼女の上半身を、すっぽりと隠してしまうような大きさ。顔を上げると、頼久があかねを見下ろしていた。
「震えていたもので、寒いのかと…。私のものでよろしければ、どうぞお持ちになって下さい。」
「い、いいですよ!…頼久さんだって、そんな格好じゃ風邪ひいちゃうじゃないですか!」
「私は家が近いので平気です。走って帰れば5分ほどですから。」
夜の気温は決して暖かいとは言えない。男と言えど、薄手のTシャツ姿では肌寒いと感じるのが普通だろう。
それに、あかねが震えていたのは…寒いからではない。まだ、どこかであの恐怖感が抜けきれないでいたのだ。暖かな頼久の上着を羽織っていても、それらは完全に抜けてくれない。

早く消えて。こんな恐怖いらない。思い出したくない。忘れたいのに。
………忘れたい?何を?思い出したくない?何を?
あかねの中に、疑問が浮かぶ。
この恐怖感は……一体何?

自分の中に、理解出来ないものがある。見えないものが、確かに存在している。それが何なのか…思い出せない。
それらはこの恐怖に繋がるのだろうか?どんな経路で繋がっているんだろう。
自分自身が分からなくなる。
私は…………………。


「少し、休まれていきますか?」
混乱を抑えようと黙っていたあかねに、頼久が尋ねた。
「居心地はあまりよくありませんが…せめて落ち着くまで暖まって行かれませんか?」
そう言って、頼久が手を差し伸べた。
あかねは黙ったまま、その手をしっかりと握りしめて立ち上がった。
大きい彼の手は、とても温かかった。そして……何故か優しいぬくもりを感じた。

■■■

居心地はあまりよくない。そう頼久が言った言葉は謙遜以外の何物でもなかった。
案内された彼の部屋は、確かに広々としている間取りではない。洋室が増えている最近の賃貸住宅事情とは裏腹に、彼の部屋は畳敷きの和室が二つ。6畳と4畳半の2DKと言ったところか。
南と東の窓からは一日中太陽が差し込み、そのせいで夜になってもほのかな暖かさが保たれている。
「和室の方が落ち着くもので…」
窓のカーテンを引きながら頼久はそう苦笑したが、どことなく和やかな雰囲気の彼には似合う空間だとあかねは思ったし、小綺麗に整理された部屋は居心地が良さそうだった。

室内はこざっぱりとしていた。
天真の部屋には何度も遊びに出掛けたことはあるが、ゲームソフトや雑誌、ストレッチ用品や折り畳み自転車など…殺風景というには程遠い賑やかさだったのを覚えている。
鷹通の部屋は……いかにもという感じで、本棚にぎっしりの書物とパソコンと…。家具もそれなりの調度品で揃えられていたが、頼久の部屋は…テーブルにクッション。座るタイプの文机に、小さな本棚には難しそうな本が並べられている。
カタカタと鳴り出したのは、コンロにかけていた薬缶から上がる蒸気。頼久は火を止めて、ティーパックの紅茶を入れたカップをあかねの前に差し出した。
「甘いものでもあれば良いのですが、あいにくそういうものがなくて…」
彼は少し申し訳なさそうに言ったが、口の中を潤した熱い紅茶はどことなくほのかに甘くて、充分身体の中心まで暖かさを染みこませてくれた。
ふと、あかねは羽織っている頼久の上着に気付いて、慌ててそれを脱いだ。
「あ…ごめんなさい。これ、もう大丈夫ですからお返しします。」
簡単に畳んで頼久に手渡すと、彼は何も言わずに静かに微笑んで上着を受け取った。

「あの……さっきはホントに、ありがとうございました……」
改めてお礼を言っていなかったと気付いたあかねは、やっと落ち着いてその言葉を言えた。
偶然とは言え、あの時彼が来てくれなかったら…と思うと、今でも恐ろしくなる。
「いえ。たまたま偶然にあの道を通りかかりまして…。そうしたら、何となく妙な胸騒ぎのようなものが走ったもので、路地の方へ向かったら…」
あかねが男たちに絡まれていた場面と出くわした、ということだ。
「自分でも不思議だったんですが、何故か…あなたのいた場所の方から…嫌な雰囲気が漂って来ていて…」
突き抜けるような胸騒ぎ。誰かが助けて欲しいと叫んでいるような、悲鳴に近いものが感情の光となって背中を過ぎって、じっとしていられなかった。
「頼久さんは…カンとか鋭い方なんですか?」
言葉の意味を頼久は自分に当てはめて考えてみたが、特別視されるほどのことはないと思う。いわゆる霊感とかいうものもないと思うし、いたって普通の人間と変わらないと思っている。
だからこそ、あの時の衝撃に似た胸騒ぎが異質なのだ。一体、何だったんだろう。

しかし、あれがあってこそ彼女を助けることが出来たのだ。そう思えばさほど悪いことでもない。
「あまり夜遅くなってからは、お一人であの辺りを歩くのは危険です。出来れば表通りの方を選んだ方が、何かと安全だと思いますよ。」
頼久は穏やかな口調で、あかねに忠告するように言った。
「本当にありがとうございます…」
丁寧に頭を下げると、肩にそっと大きな手が触れた。
「ご無事で何よりです。あなたに何事もなければ、それで充分です。」
見下ろしてくれる、彼の笑顔と漆黒の瞳。それは吸い込まれそうなほどに澄んでいて、どこまでも深い湖の底のようだった。冷たさではなく、こんこんとわき出るのは暖かな水のようで。

凛とした整った顔立ち。女性がときめくのもうなづける。
だけど……それとは違うもの。見つめられて、何故か心はときめきよりも穏やかに安らいでいるのが分かる。
彼の手が身体を支えてくれている。彼が、自分を見つめてくれている。
ただそれだけなのに、この安堵感は何故生まれてくるんだろう。
何もかもはねのけてくれるような、そんな安心感が彼を見ていると感じられてくる…………。



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Megumi,Ka

suga