夕霧の囁き

 第3話
適当に見繕って買い物を済ませた頼久は、駅に向かって歩き出した。特別どこかで時間を潰す気もなく、用件が済んだらさっさと家に戻った方が気楽だ。
家路を急ぐ人々の波も増えてきている。自分もそれらの流れに乗ってしまおう、と思った。
そう思った。普通なら、そう思うはずだった。
なのに、何故か足が違う方向を向いた。無意識に、ただ何気なく…意味もなく。

いつもはまっすぐに大通りを戻る道順だったが、今日は少し遠回りしてみたくなった。単なる気まぐれ。頼久は少し薄暗い路地の方に入り、細々とした道を駅の方へと向かって歩いていた。
その時、頼久の意識に強い光が走り抜けるような感覚が襲った。背中から神経が反り立つような反応。
……何が起こった?何が起こってる?……嫌なことだ、嫌なことが何か…近くで起こっている。
何故かそんな気がした。ふとあたりを見渡してみる。あまり人影が多いわけでもない小道。

「離してよぉっ!!」
細い道の向こうで、わずかに光るヘッドライトの明かりが漏れてまぶしかった。それと同時に、聞き覚えのある少女の声が悲鳴のように空気を引き裂く。


「うるせえなー!さっさと車に乗れよ!悪いことしねえって言ってるだろうが!」
そんな罵声に似た大声を出して、分かりました、などとあっさり言えるわけがない。どうせろくでもないことしか考えていないに違いなく、そんな男たちの言いなりになったら終わりだ。
「ったく…手、貸せ!」
すでに運転席に乗り込んでいた男が、片手を思い切り伸ばしてあかねの手首を握った。
そのとたんに、あかねの脳裏に圧迫感が走った。
捕まれた手首の痛さ。締め付けられる恐怖感。

「いやだぁっ!!」
涙が思わずこぼれそうになった。その意味までは即座に把握できなかったが、手首を捕まれたとたんに、言いしれない恐怖感があかねを包み込んで、いてもたってもいられなくなった。
正常に意識が動かない。すべてが恐怖に追い越されてしまう。
抵抗できない、このままでは……どうにもならない。
どうしたらいい………?手首が、痛い。


と、思うと。がくり、と後ろに迫っていた男が体勢を崩した。鈍い音が背後で聞こえる。
「……何をやってる?」
背の高い男が、彼らたちを見下ろしていた。落ち着いた声……この声、聞いたことがある。あかねは必死で記憶をたどろうとしたが、まだ恐怖感から逃げられない。
「部外者はあっちに引っ込んでろ!」
男たちは揃って、彼に向かって攻め立てようと立ち上がろうとした。
だが。
彼が振り返ってその目で睨んだ瞬間に、肩がすくんで動けなくなった。
薄暗い路地の中で、異常なまでの閃光を放っている瞳の色。全身からわき上がってくるような、威圧感と存在感が容赦なく抵抗を拒む。
彼は何も言わない。ただ、男たちを黙って睨んでいるだけだった。それなのに身動き出来ない。まるでヘビに睨まれたカエルのようだった。

「去れ」
一言、そう告げる。大きな声ではなかった。
しかし男たちがその場から動けないでいると、彼の瞳の光が闇を貫いた。

「去れと言っているのが聞こえないか----?!」
彼の背中に炎が見えた---ような気がした。灼熱色に赤く燃え立つ煉獄の炎が背中から立ち上るような幻覚が見えた。そして彼は近くに立てかけてあるスチールのポールに手を伸ばした。
それを構える。男たちを睨みながら、構えてたたきつけるチャンスを待っているようだった。

「い、行くぞ!」
その声だけが必死だった。崩れそうな腰を引きずりながら、男たちは車を放り出して大通りへと逃げ出していった。


ぶるぶると身体から、小刻みな震えが止まらなかった。あかねは小さくうずくまったまま、その車のすみっこに隠れるように座り込んでいた。
ぽん、と肩を叩かれる。叩く、というよりは、触れるという感じの方が正しいだろうか。
さっきの男のような仕草ではなく、果てしなく優しく穏やかな仕草だ。
「……大丈夫でしたか?」
やっとこの声を思い出したあかねは、振り向いて彼の顔を確認したとたんに、全身の震えと恐怖感から解放された。

「頼久……さん?」
泣きそうな顔をして、あかねが頼久の顔を見上げた。
「たままた通りかかったら…声が聞こえて………」
穏やかで包み込むような彼の声のトーンが優しくて、つい涙がこぼれてきてしまった。
「……何か…されたのですか?よろしければ、病院までお付き合いしますか?」
あかねは首を振った。大丈夫だ、と言いたかったのに声が出なくて。つい、支えてくれる腕にしがみついてしまった。

腕に寄りかかったあかねの背中に、そっと手を伸ばした。
服に乱れがあるわけでもなく、表面上に見えるような怪我のあともない。最悪の状態はどうにか防ぐことが出来たらしいが、あんなことがあってはよほど怖かったのだろう。
頼久は両腕でそっとあかねを包んだ。
「もう大丈夫ですから…安心してください。私がここにいます」
そう頼久が囁いてくれて、どこか少しホッとした。

あかねが落ち着いて涙を止めた頃には、もう夕闇は消えて星空が広がっていた。




-----THE END-----



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Megumi,Ka

suga