夕霧の囁き

 第2話
日曜の午前中は、はっきり言って図書館は閑散としたものだ。学生たちは殆ど休みで登校していないし、休日の朝から図書館に入り浸っているような物好きはいない。
本当なら二人もスタッフを常置したところで、忙しいことなどないのだが。
そう分かっていても、相変わらず二人揃って図書館に姿を現した。見渡してみると、わずか3人ほどの利用者。それぞれに自分の手元の本に没頭しているので、こちらのことなど無関心と言って良い。
「家にもらいもののお菓子がありましたので、せっかくですから持ってきました。お茶うけにいい感じですよ」
鷹通の手には、綺麗な包装紙に丁寧に包まれた箱が抱えられている。鷹通にとってはちょっとしたものなのだろうが、一般的に見れば高級菓子と言っても良い。

深い抹茶を帯びた色合いの緑茶は、苔の密集した池の中を思い起こさせる。その中に吸い込まれてしまいそうな、不思議な感覚が浮かぶ。
頼久はどちらかと言えば、コーヒーや紅茶を味わうよりも緑茶を好んだ。西洋的に進化している現代生活習慣が嫌いなわけではないが、どことなく馴染めない。小さい頃から、西洋文化など無縁だったせいだろう。

「そろそろ連休が近いですね。今日以上にここは静まりかえってしまいそうですね」
鷹通は淡い青磁色の茶碗を手にしながら、窓の外の緑を眺めた。
「頼久さんは、何かご用があるのですか?」
「…連休の予定ですか?」
頼久は首を傾けて、しばらく考えたふりをしてみる。そんなものは、最初からないから、何もない、としか答えようがない。
「実家にお帰りになったりは、しないんですか?せっかくのお休みでしょう?」
「田舎に帰っても、両親はいませんし」
鷹通は、はっとして自分の口に手をやった。焦る鷹通に対して、当の本人の頼久は何一つ表情を変えない。それが唯一、失態で胸を痛めることのないきっかけだった。
「申し訳ないことをお聞きして…すみません」
「いや、構いませんよ。もう両親を亡くして、何十年も経っていますから」

幼い頃、頼久は父を事故で亡くした。母はいたがまだ若く、周囲から再婚の話を強いられ、そのせいで頼久の立場はやっかいなものとなった。
若い母が再婚するには子供が邪魔だった。だが、最後まで母は頼久を手放さないでくれていたが、女手一つで生活するには苦労が続き、身体と精神が限界まで達していたとき、それまでつないでいた母の手が放れた。
頼久は三歳にして母の遠縁の寺院に預けられた。そこで住職たちに育てられて成人した。
他人になってしまった母は、とある名前のある地主の長男と再婚したが、ずっと頼久の養育費だけは送り続けてくれていた。そのせいで、こうやって大人になることができたのだ。
「お母様に…お会いになったりはしないのですか?」
「ありません。母であって、他人ですから。私の存在は母にとっては、あってはならない存在です。形として目の前に出てはならないと分かっていますから」
冷静に頼久は答えたが、小さい子供がその状況を把握するまで、どれだけ寂しくて悲しい日々を過ごしただろう。
会いたくても会えない母を、何度思い描いただろうか。それを思うと、鷹通の方が切なくなった。

「ああ、でも……住職に顔を見せに行く、くらいはした方が良いでしょうか」
頼久は少し穏やかに笑って見せた。その笑顔には、辛さや寂しさはもうかげりも見えない。
「田舎は、どちらの方とお聞きしましたっけ?」
かちゃん、と茶碗の置いた音がテーブルに響く。
「隣の県の……山間の小さな町ですよ」

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月に一度、手紙の行き来だけはしている。電話という文明の利器もあるのだが、住職はそういうところは異常にこだわりがあって、よほどの急用がないと利用することはない。
一ヶ月前にも手紙が来たし、離れて暮らしていても元気なことが分かれば心細さもないから、ついつい帰省ということをおろそかにして二年ほどが経っていた。
たまには親孝行の真似でもしてみるのも良いかもしれない。

どこかに出かける用意をするのは、もう何年ぶりだろうか。旅行という趣味もないし、泊まりを行き来する相手もほとんど皆無だ。大概は図書館にいて、それ以外はアパートの自室にいる。どちらかしかない単調な生活だったが、頼久本人は退屈という感じはしないせいか、居心地の悪さはなかったのでいつまでたっても変化がない。

とは言っても、手ぶらで帰るのも気が引けるような気がするので、何か手みやげでも探しに行こうか、と頼久は久しぶりに町に出た。


あまり喧噪は好きじゃない。元々人口の少ない場所に生まれ育ったせいだ。ただ、それも無視して歩きすぎることが出来れば問題がなかった。
町には人が溢れている。それぞれに楽しそうに笑いながら、時々少し疲れたようにしながら人々は歩いている。その中で自分は、どんな表情で歩いているんだろう、と思った。
楽しそうだろうか、つまらなそうだろうか。
自分自身は、そんな感情さえも特別抱いてはいないのだが。

■■■

「じゃ、悪いな!そろそろ時間だから、オレ!」
「全くもう〜!今度は駅前のホテルのデザートバイキングじゃないと許さないからね!」
「ああ〜?……ま、いいや、そんじゃな!」
あかねの催促に顔を渋らせた天真だったが、約束の時間が押し迫ってきているらしく、適当にOKを答えて人混みの中に消えていった。

今日は天真と出かける約束があったのだが、急に中学の部活のメンバーの集まりがあるとのことで3時頃に別れることになってしまった。
本当はこのあと新しく出来たカフェで、ケーキセットをおごってもらうという約束を取り付けていたのだが、それもままならずにお開きとなってしまった。
「あーあ、どうしようかなあ…もう帰ろうかなあ…」
ふらりふらり、と、あかねは細い路地の続く裏道を歩いていた。このあたりは小さな店がいくつか建ち並んでいるので、目新しいものを見つけることも多い。
だがそれと同時に、路地が多いと言うことは危険が伴うこともある。時間が遅くなればなるほど、だ。ぼんやりしていると、ついそれを忘れがちになってしまう。
歩いている影が、もうかなり傾いていることに。

その時だった。後ろから自分の肩をつかむ手の感触に、あかねは背後を振り返った。年の頃なら二十歳前後くらいか。髪が赤く、無造作にあれこれと飾り立てたピアスが少しだけうっとおしい。
「これからさあ、俺たち遊びに行くんだけどさ。一人なんでしょ?ねえ一緒においでよ」
なれなれしく話しかけてきたのは、肩まで伸びたウェーブヘアの男だった。
「………」
こういうのは無視するに限る、とあかねは思った。そのまま前をむき直して、足早に立ち去ろうとしたのだが、今度はもう一人の金髪の男に反対の肩をつかまれた。
「シカトすんなよー。俺たちと楽しいことしよーよ」
「離してくださいっ!!」
男の乗った肩を思い切りふりほどいて、あかねはキッと彼らの顔を睨んだ。だが、そうやって敵意の視線を向ければ向けるほど、彼らの闘争心は油を注がれるように燃え上がる。互いの顔を見合ってから、まるで合図をするようにニヤリと笑って、あかねの方を向く。
「可愛い顔して、ずいぶんな態度とるじゃねーか」
そう不適に笑った男の手が、再びあかねの方に向かってきた。



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Megumi,Ka

suga