夕霧の囁き

 第1話
確信はほぼ100%に近くなっている。
出会ったときに気付いた何かが、日々を追うごとに明確になってきているのが分かる。
薄らいでいた記憶が鮮明に浮かび上がってきている。
思えば、時がいつか忘れ流してくれることだろうと期待していたことだったはずなのに、こんな形で再び巡り会うことになるなんて、考えても見なかったことだった。
時間が思い出を完全に消してくれたら……と、不可能なことばかりを繰り返して思い描く。
思えば思うほどに、忘れられなくなっていくのに。

その証拠に、次に彼女に会えるのはいつだろうか、と考えている。
出来るなら………あの頃のように二人で過ごす時間が作れたら、と…勝手なことを考える。
しかしその時、自分は普通に向き合えることが出来るだろうか。


■■■

「あかね、本気であの大学を受けるつもりなの?」
早めの受験勉強を始めてから、母親でさえこんなことを尋ねてくる。実の親から見てもあかねの不相応な選択には、少々戸惑っているらしい。
そんなことは本人が一番よく分かっているのだが、こうあちこちから同じ事を言われると複雑な心境に陥る。
「ま…望みは高く持って勉強していれば良いんじゃないかな〜って…。ほら、たとえ落ちたとしても、高いところに入るために標準合わせておけば、下のランクでもそこそこのところに入れるかもしれないし?」
「……そんなのんきなこと言って」
夕食のあとの洗い物をしながら、呆れたようにつぶやいて母は背を向けた。
「せいぜい頑張りなさい」
水道から流れる水の音にかき消されるように母の声がして、あかねは席を立った。


部屋に戻って、あかねはベッドに寝転がった。枕元に置いてあるのは、図書館から借りてきた数冊の本。何とか半分まで読み終えて、どうにかこうにか内容を把握しはじめてきたところだ。
「本を読むのって、結構重労働だなぁ…」
好きなジャンルなら苦でもないことだが、自分の範囲外のものに関しては活字が揺るぐ。ぐらぐらと粘土のようにねじれて、内容を理解するのにはなおさら困難が伴う。

ふと、昼間の図書館でのことを思い出した。
頼久のそばには、十冊近い本がずらりと並んでいた。彼はそれらを一冊ずつ、しっかりと目を通して読んでいるらしい。確か、民俗文化や文化人類学などの本がほとんどだったような気がする。あかねには未知の世界だ。
そういえばはじめて彼を見た時も、書棚の奥で何かの本を開いていた。
図書館に勤めるくらいなのだから、本が嫌いなわけではないと思っているのだが。
「難しいんだろうなあ…ああいう内容って」
あかねの読んでいるのはほとんどが国文学だから、それほど取っ付きにくいというものではないのだが。ただ、読み慣れない文体にとまどったり、それぞれの作家の哲学的な表現になじめなかったり、というので躓きがちなだけだ。
「民俗学……あ、そうだ!」
開き書けた本を閉じて、あかねはベッドから起き上がった。そしてクローゼットの戸を開けて、中にある段ボールの箱を持ち出した。
中には数冊のアルバムが入っている。少し古ぼけたものもあるし、最近のものもある。あかねは一番下にある、角がほつれた布張りのアルバムを取り出した。
確かこれが、一番古い写真が貼ってあるものだったと思う。もしかしたら、あの町にいたころの写真があるかもしれない。
パラパラとページをめくった。およそ総ページ数は20ページくらいのものだが、そこにはぎっしりと写真が貼り巡らされている。
だが、それはすべて小学生の思い出しか綴られていない。そばには天真が顔を出したりしていて、遠足の時の写真、運動会の写真、そんな幼い時代の一部がアルバムには集まっている。



階下に降りると、父が帰宅していた。残業が多く、顔を合わせることがあまりないが、厳しすぎもなく押しつける態度もみせない。年頃の娘なら疎遠がちになる父親が普通だろうが、あかね自身はそんなことはなかった。
「どうしたの?お風呂だったら、先に入っていいわよ」
母が料理を温めながら、二階から降りてきたあかねに言った。
「あ、うん。ねえ、お母さん…今アルバムを見てたんだけど、小さい頃の写真ってある?」
「自分の部屋にあるアルバムに貼ってあるでしょう?」
「違うんだってば。小学校とかじゃなくて、ここに引っ越す前の写真。全然ないよねぇ?」
あかねはただ、疑問に思ったことをそのまま尋ねただけだった。なのに、突然両親の表情が固まるなんて思いもしなかった。
何故か、重苦しい空気がダイニングキッチンに流れる。あたたかな湯気の立ちこめる鍋が、コトコトと沸騰しているのに、冷え固まったような雰囲気。
しばらくして、最初に口を開いたのは母親の方だった。
「フィルムの保存が悪くって……駄目になっちゃったのよ」
何でもないように普通の口調で母が言うと、そのあとに父が続いた。
「こっちに引っ越してくるときに、仕方がなくて処分してしまったんだよ。焼き増し出来れば良かったんだが、かなり酷い状態になっててね。おまえの小さい頃の写真だから、残しておきたいのはやまやまだったんだが…な」
「……ふーん…そーなんだ。」
仕方がないな、という風にため息を交えてつぶやいたあかねは、着替えを取りに再び二階に上がっていった。その後ろ姿を、ずっと両親は見つめていた。


白い湯気がうっそうと立ちこめ、石鹸の香りが充満する。暖かいバスタブに肩までつかって目を閉じると、そのままうたた寝してしまいそうなほど心地よい。
「あかね、ちょっと良い?」
ガラス戸の向こうに人影が見えた。母の声が聞こえてきた。あかねは閉じていた目を開けた。
「どうしていきなり、小さい頃の写真なんか探したの?何か学校であったの?」
シャワーノズルからの水滴が、バスタブの水面に落ちた。
「うーん…別に、そういうわけじゃないんだけど。なんかね、鷹通さんの大学の図書館に勤めている人が、民俗学とかそういうのが好きらしくて、うちの田舎の町のこととか調べてるみたいだったから…」
母からの返答がとぎれた。ドアには人影があるのに、何も話しかけてこない。
「だからね、うちにその頃の写真とかあったら…見せてあげたら喜ぶんじゃないかなーって、それで探してたの」
あかねは構わず話を続けた。
「その人は……誰って言うの?」
いきなり母が名前を尋ねてきたので驚いた。
「…源…頼久さんって男の人。」
名前をつぶやいたら、ふと自然に頼久の顔が思い浮かんだ。湯船の暖かさのせいなのか、それとも他の意味があるのか、頬がほんわかと熱くなる気がした。
「どういう人なの?」
「え?そ、そんなことまでは知らないよ…別にそこまで親しいわけじゃないもの!親しいのは鷹通さんの方だし…一緒に仕事したりしてるから…」
まるで恋人を紹介しろ、と言われているような感じがしたので、あかねは少し戸惑いがちに答えた。だが、母の方にはそんな意味はなかったようだ。
「悪いわね、変なことを聞いちゃったわ…。シャンプー、もうなかったでしょう?ここに新しいの、置いておくからね」
そう言ったあと、母が脱衣所から出ていく音が聞こえた。


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Megumi,Ka

suga