思い出の色彩

 第3話
「難しい本を読まれているんですね」
あかねが手渡した本のタイトルを見て、頼久がぽつりとつぶやくように言った。
「あ、でもそれは鷹通さんのすすめで読んだんで、私みたいな平凡レベルの頭じゃ全然理解できなかったです」
そう答えると、頼久は静かに微笑んだ。
「どんな本でも何かしら発見があります。読むだけでも十分意味はありますよ」
頼久は備え付けのPCで本のバーコードをチェックし、それらの本を返却用の棚へ並べた。

ふと、あかねは頼久の背中を眺めていたが、その手元にある彼が今さっきまで読んでいた本に目が行った。そしてそのタイトルを見た。
『民俗・風習伝承の考察』。シンプルな装丁の本の表紙には、えんじ色の文字でそんなタイトルが記されてあった。挟まっているしおりは、丁度本の三分の二くらいの位置。もうすぐ読み終えそうなところらしい。
そして何げに積み重なっている他の本を見た。背表紙しか見えないが、タイトルだけは確認できる。

『過疎化地域の伝承』『生活の中の民俗学』『風習の歴史』……それらはひとつのジャンルにまとまっていた。

あかねはそっと、その本に手を伸ばしてみた。そしてぱらり、と中を覗き込んだ。
ページをめくる音に気付いて、頼久が振り返った。今さっきまで自分の座っていたカウンターの場所で、あかねが本を開いている姿があった。
「あ、その本は……」
あかねは頼久の気配に気付いて、ページをめくっていた手を止めた。

「ごめんなさいっ!勝手に本を開いちゃったりして…★」
「いえ、そんなことはないですが……」
そう言いかけて、頼久は言葉を止めた。そのあとの会話が、突然にとぎれた。
「民俗学…。こういうの好きなんですか?」
全く自分には縁のないジャンルの本を眺めながら、あかねは頼久に尋ねた。彼は自分の席に戻って、読みかけの本を一冊手に取った。
「ちょっと調べたいことがあるので、読んでいるだけなんです」
「…はあ、そうなんですか…」
ぱたん、と一度開いた本を閉じて頼久は椅子に腰を下ろした。そして、背後で立ちつくしているあかねに、鷹通が普段座っている椅子を差し出した。

「良かったら、お座りください」
あかねは照れくさそうに微笑んでから、ちょこんと椅子に腰を下ろした。

適当に書棚から選んできた本を片手に、時々ちらっと隣の頼久を覗き見る。さっき目を通した難しそうな民俗学の本を開いて、黙々と読書にいそしんでいる横顔。少し長めの前髪が邪魔らしく、時々指先で流すようにかき上げたりしている。
彼の手元に集められている本の背表紙に、もう一度目を向けてみた。
やはりよく分からないタイトルばかりの羅列。まあ、この有名国立大の図書館勤務ということになれば、そう生半可な頭脳だけではつとまらないのだろう。鷹通を見ても分かるとおり、学生ではないにしろ頼久もおそらく普通以上の能力を持っているに違いない、とあかねは勝手に結論を出した。

「…あの、すみませんけど」
頼久が声に反応して顔を上げた。同時にあかねも顔を上げると、カウンターの向こう側に一人の若い学生らしき男性が立っていた。
声の主は彼らしい。
「レポートの作成のための本を探しているんですが、そのカウンター裏にある民俗学の本を見せてもらえないでしょうか?」
「あ、申し訳ありません。どうぞ」
どうやら彼は頼久が読もうとして積み上げていた本を、さっきから探していたようだった。頼久は積んである本を彼にそのまま手渡した。

「良いんですか?読みかけだったんじゃないんですか、今の本」
頼久に尋ねた。
「いや、良いんです。まだあの本は読んではいないものでしたから。今読みかけの本を読み終える頃には、また返却されて来ますよ」
「そうですか……あ、あれ?」
ぱらり、と今頼久が読んでいた本のページが、あかねの目に止まった。
椅子から立ち上がって、その中に掲載されている風景の写真を覗き込んだ。

「あ、やっぱり…。ここ、うちのお母さんの実家がある町なんですよ」
あかねが指さしたのは、この町のある県の隣県の山奥にある小さな町の写真だった。モノクロで映っている風景が一層過疎化を演出しているようで、寂しげな雰囲気を思わせる。
「……この町に行ったことがあるんですか?」
寂れた町の写真を懐かしそうに眺めるあかねに、頼久がそう聞いた。
「行ったことがあるっていうかー…小さい頃はここに住んでたんです。で、こっちに引っ越してきて。すごく小さな頃のことだから、あんまり覚えてることってないんですけど、でも…やっぱ見ると何か思いだしそうになりますよね、昔の思い出とか」
そう話しているあかねは、至っていつも通りに振る舞っていたはずなのだが、そんな彼女の姿を見る頼久の目は、どことなく物憂げで、そして何かに怯えるような色も重ねていた。

「思い出がすべて良いものという訳ではありませんよ」
「え?」

顔を上げて頼久を見ると、彼は遠い目をして開かれたページの写真を見ていた。
「良い思い出であれば忘れたくはないから覚えているはずで…覚えていない思い出は、どこかしら忘れたいと思う何かがある思い出なのかもしれませんから」
頼久の言葉に、あかねはどう答えて良いのか分からなかった。
彼の言うとおり、という気持ちも少しある。良い思い出だったとしたら、ずっと覚えていたいから忘れないだろう。でも、確かに彼が言うとおりに小さい頃、あの町で育った記憶はあかねの中には殆どと言って良い。不思議なくらいに記憶は薄い。

「…すいません、何だかちょっと変なこと言ってしまいましたね。気分を害されてしまいましたら、お詫びします」
あかねの顔色に気付いて、頼久が少し申し訳なさそうにつぶやいた。
「あ、いえ…気にしてないですよ、そんなの…」
頼久は苦笑しながら、前髪をかきあげて首を横に振った。
「私はどうも人に接することが上手くないので…。ですから言葉もあまり選べないので、なかなか話をするのが疲れてしまうんです」
あかねが本当に気になったのは、頼久が言ったことよりも彼の瞳の色だった。
思い出について自分の価値観を語る時の彼の瞳が、何かに怯えているように見えた、その瞬間。それがずっと気にかかったのだ。

「あ、鷹通さんがいらっしゃいましたね」
少し開いた窓から外を見下ろして、頼久が言った。裏庭を歩きながら、図書館へ向かっている鷹通の姿が見える。
もう少し、彼と話をしてみたい。
今、はじめてあかねはそう思った。





-----THE END-----



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Megumi,Ka

suga