記憶の空へ

 第2話
つん、とした草の香りがする。
花粉症ではないけれど、結構香りには敏感なほうだとあかねは自覚していた。
帰り道にある庭先に植えられた花の香りだろうか。立ち止まってみる。
見事に咲いた真っ赤な薔薇が、庭の垣根に蔓を張っていた。そんな英国庭園のような風景が、この辺りではよく見られる。

あかねの住むマンションの近辺は、新興住宅地で結構ブルジョア系のお屋敷が立ち並んでいる。
閑静な雰囲気で、子供の笑い声や犬の鳴き声くらいしか賑やかさはない。車の通りも多くはなく、緑が多いので散歩には最適のコースだった。
「こんにちは。学校の帰りですか?」
薔薇の垣根の屋敷の前にいたあかねに、声を掛けた青年がいた。
コットンシャツは清潔なアイボリー。薔薇の葉の色のように濃いグリーンのジャケット。細いワイヤーフレームの眼鏡の中から見える目は、穏やかで優しい。
「あ、こんにちは。鷹通さんも大学からの帰り?」
「ええ。今日はバイトもお休みの日なので、早めに戻ってきたんです。いつもは遅くまでかかってしまいますからね、こういう時は早めに帰宅しないと」
「そうだよね。鷹通さんのことだから、帰ってきても勉強とかやっているんでしょ?」
「たいしたことはありませんけどね。次の日の講座の用意とかをしているだけですよ」
鷹通は、当然のように笑った。

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彼は藤原鷹通と言い、この屋敷の長男だった。
国立大学の文学部に通う大学三年生である。国内でも難関と呼ばれる大学をストレートで合格し、その中でもまたまた難関だと噂の文学部を、毎回首席で過ごしている。
父は著名な出版社の社長、母は有名女子校の校長というエリート家系。その中で育った彼ならば、こんな秀才に育っても不思議じゃない。
それにも増して人当たりは穏やかで礼儀正しく、近所の評判もかなり良い。
とは言ってもいくら家がブルジョアであったとしても、それに彼自身は甘えているわけでもなく、通常は大学構内にある図書館でアルバイトをしているらしい。

バイトなどで金銭を稼ぐことなど必要はないのだが、社会勉強と自分に対しての厳しさと家への甘えを断ち切るための、これもまた客観的な勉強の一つなのだと言う。
それでも帰宅してからは、部屋の電気は夜遅くまで消えない。まさに勉強が自分の求める楽しさである、ということだろう。
少しくらい天真に爪の垢でも飲ませてやりたい…とあかねは失礼なことを考えたりする。

「あ、そうだ…鷹通さん、少し時間取れる時って、あるかなぁ?」
「時間ですか?何か私に用事でも?」
あかねはひらめいた。頼りになる人がここにいることを。
「あのね、もうすぐ中間なんだけど------------」
そこまで聞いて、鷹通はあかねのお願いの意味を察した。
「ああ、臨時の家庭教師のお願いですか?」
「うん…ほら、もう高校二年でしょ。だからそろそろ気合いいれておかないと、三年になってからじゃ遅いだろうし、と思って。」
上目遣いのあかねを見下ろして、鷹通は静かに笑みを浮かべた。
「構いませんよ。そうですね、私も大学の講義やアルバイトのこともありますから、さほど時間があるわけではありませんけれども…土日でしたら大丈夫ですが」
「全然OK!週末だけでも良いよ。鷹通さんなら頼りになるもんね!」

鷹通に家庭教師まがいのことを頼むのは、これが初めてというわけではない。
あかねたちの通う高校は、小・中・高のエスカレーター式であるために、一般的に言う高校受験という問題はなかったのだが、いくつもの試験をそれなりの成績でクリアし続けるのは難関であった。そんな時にいつも鷹通は、あかねの勉強を面倒みてくれたりしていた。

普段はあまり近所づきあいの豊かな家庭ではない鷹通の家に、そんな口添えを何故出来たのかは分からないが、この街にやってきてから何かと勉強にアドバイスをくれた鷹通は、あかねにとっては優しい兄のような存在で、信頼できる人だった。

この街で生活を始めてから、10年。
優しい人がそばにいて、楽しい仲間がそばにいて、信頼できる人がそこにいる。
それがどんなに大切でかけがえのないものなのか。
当然のことだと錯覚しないように、何度も寝るときに繰り返す。
今、自分が幸せでいられる意味を。

■■■

これから自分が、どんな風に生きていくのかは分からない。
ずっとこのままでいられたらいいと、そう思うけれど現実はそんな気持ちさえ知らないふりをして、あっという間に時間を吹き流してしまう。

「じゃあ、どこを受験するのか決めていないんですか?」
「うん…まだ。っていうか、私の頭で入れるところも検討付かないし。自慢じゃないけれど、鷹通さんみたいに頭良くないから、私」
あかねはそう苦笑する。まあ、天真よりは少しマシかもしれないけれど…。
「うちの大学なんて、どうですか?家から通うにしても結構近いですよ?」
思わず、紅茶を吹き出しそうになる。

「じょ、冗談でしょう!そりゃ、鷹通さんみたいに秀才なら入れるところだけど…いくら私だって国立狙うほど身の程知らずじゃないよ〜!!」
「今からしっかり受験のために勉強すれば、きっと大丈夫ですよ」
「で、でも〜…」
「というか…その他の大学や短大と言うと…ここから通学するのは少し厳しいでしょう?たった一人の娘さんを一人暮らしさせるには、ご両親が心配なさるんでは?」
確かにそれは分かっているけれど…でもいくらなんでも国立大学…。
「頑張りましょう?是非、後輩として入学していただきたいですね。私はその頃卒業してしまうかもしれませんが、そのまま大学院に進む予定ですから、先輩として何かお力になれると思いますよ」
鷹通は、そう言ってにっこりと笑った。思わず、その笑顔にひきつる。

国立大学受験…自分がそんなたいそれたことに挑戦することになるとは。
取り敢えず…まあ、玉砕しようが試験を受けることは出来る。あとは滑り止めの(ある意味本命)大学を見繕ってみればいい。
とにかく…勉強はやらなくては。鷹通の持ってきた参考書に書かれたアンダーラインを、説明されながら何度もあかねは頭の中で繰り返した。



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Megumi,Ka

suga