Mint Wind

 第1話
「会話らしい会話は、殆どしなかった。
目の前に広がる湖や緑の芝生を、ただ眺めているばかりだったけれど、不思議と息苦しさは感じなかった。
時間が過ぎてゆくたびに、子どもたちの賑やかな声が消えて、湖面のさざなみと木々の葉音だけになって。

「あ…携帯」
バッグの中の携帯が鳴り出して、あかねは慌てて取り出してみる。
着信相手の名前は……鷹通だ。
「もしもし、鷹通さん?」
「ああ…やっと繋がりましたか。何度もお電話したんですけれど…」
すぐに電話に出たから気付かなかったが、どうやら鷹通はずっと連絡をしてくれていたようだ。
つながらなければ留守番メッセージ。
ついでにメールまで送ってくれていたらしいが、全く気付かなかった。

「それで…今、どこにいらっしゃるんですか?」
「えっと、タリアセンにいます」
その時、どこかからアナウンスが聞こえてきた。閉園時間を告げている。
まだ明るいので気付かなかったが、もう時刻は五時近いのだ。
「今からそちらに迎えに行きますので、待っていてもらえますか?」
帰りはタクシーでも頼もうかと考えていたので、鷹通が迎えに来てくれるのは正直有り難かった。



それから5分ほど過ぎた頃、正面入口の前に鷹通がやって来た。
「外出されることは分かっていましたが、迎えに行こうにも行先が分からないので、どうしたものかと思っていたんですよ」
ハンドルを握りながら、鷹通は苦笑しつつそんな事を言う。
何でもないように笑っているけれど、本当はきっと大慌てだったんだろうな…と、あかねは察した。
確かに、彼は"行きたいところに着いていく"と言ったから、自分から行先を伝えられなかったんだろう。
それならば、せめて鷹通にメールのひとつでも送って、現在どこに来ているかくらい連絡すれば良かったのかもしれない。
「ごめんなさい。出掛ける前に私が-----------」
あかねが鷹通に詫びを伝えようとした途中で、横から遮る声がした。

「連絡を怠ってすまない」

……………。
多分その時、二人とも同じ気持ちで振り向いたのだと思う。
あかねも鷹通も、ただ無言で泰明の顔を見た。
彼は特に表情も変えずに、車の後部座席に深く腰を下ろしている。
だけど、今彼が口にした言葉は………。

今、謝ったんだよね?
泰明さん、"すまない"って…言ったよね?
あの泰明さんだよ?あの泰明さんが自分から謝るなんて……。
でも…今朝も私が怪我した時、謝ってくれたっけ。
……何だか、今日の泰明さん…ちょっといつもと違う?
あかねはまじまじと彼を見たが、ホテルに着くまで泰明は全く無反応の、いつもの泰明だった。



ホテルに戻って、すぐに夕食の時間となった。
実は会食の申し出があったのだが、そういうことは嫌う泰明である。
やんわりと相手に断りを入れた鷹通は、すぐにレストランの個室を予約していた。
人と会うことを最低限にしたい、泰明の意向だ。

「それでですね、午後の講演のテーマに取り上げた内容なのですが………」
オードブルもそこそこに、鷹通は今日の講演内容をまとめた書類を、ファイルの中から取り出してみせた。
手書きではあるが、ぱっと見ただけでも几帳面でしっかりした文字で書かれており、必要事項にはアンダーラインも入っている。
内容は、あかねには全く分からない専門分野だ。
だが、植物博士の泰明と一対一で会話が成り立つのだから、彼の知識はやはり並みの大学生ではない。

…勿体ないなあ、鷹通さん。こんなに本格的なのに。
綺麗に盛り付けられたサラダをつまみながら、あかねは彼らを眺めていた。

「藤原、その話はあとにしろ」
「…はい?」
「今は食事の最中だ。それに、私とお前だけしか分からぬ話をしていても、あかねが退屈するだろうが。」
唖然とした顔で、鷹通はあかねを見る。
振り向かれたあかねの方も、ぽかんと開いた口が塞がらない。
「今日の話は、部屋で聞く。食事の場くらいは、あかねの話でも聞いてやれ」
「は、はあ……」
泰明に言われたとおり、鷹通は書類をすぐにファイルに戻す。
しかし、こちらをちらちらと見ながら、この状況を飲み込めずにいるようだ。

「あかね、何か話をしろ」
「えっ!?」
クラッシュアイスのたっぷり入ったデカンタを取り、ミネラルウォーターをグラスに注ぎながら、泰明が言う。
「今日出歩いて見たことでも、話せば良いだろう。黙ってるのはつまらんだろうが、おまえは」
それって、私がおしゃべりってことか…?
何かちょっとカチンと来たけど。
「それじゃ、その…今日はどちらに行かれたのか、お話を聞かせてもらえますか?」
「あ…はい、えっと旧軽銀座でお土産とか買って…」
鷹通に促されたので、あかねは一日の行動を話し始めた。


運ばれてきたメインディッシュを食べながら、行く先々でのことをあかねは話す。
「で、お土産とかみんな美味しそうで、どれを買って良いか迷っちゃって」
売っているものは同じでも、微妙にそれぞれこだわりの違いがある。
ジャムひとつにしても、オーソドックスなものから珍しい果実まで、多種多様で目移りするばかり。
「私だけだと迷ってばっかりなんで、いくつか泰明さんに味見してもらって、選んじゃいました。」
「そうですか、先生に…」
あかねは楽しそうに話しているけれど、泰明は黙々と食事をしているだけ。
たまに彼女から声を掛けられては、相づちをする程度。
それでも決して嫌な表情はなく、昨日の懇親会の時よりもずっと、穏やかな空気が流れている。

「それで、変わったジャムがあったら、泰明さんが色々その植物のこと教えてくれて、みんなびっくりしてて。」
「おまえは私を何だと思っている?一応植物博士だぞ。あんなもの、常識の知識に過ぎん。」
「でも、周りはそんなの知らないじゃないですかっ。だからお店の人も感心してたんですよ」
箸の進みなど全く無視して、生き生きと彼女は話を続ける。
時折泰明に声を掛けて、そしてまた話に戻って。

……本当に、不思議な人だな、元宮さんは。
どんどん彼の手を引っ張って行って、外の世界に連れていってしまう。
彼が嫌がるから、と遠慮がちに退いていた自分とは全然違う。
そして何より彼が、そんな彼女の行動に嫌悪感を抱いていないことだ。

今まで彼に対して抱いていた印象を、彼女はすべて覆す。
そんな変化が訪れているのを、多分泰明本人は気付いていないだろう。
「それでね鷹通さん、泰明さんてば酷いんですよ!"おまえはいつも、しゃべってるか食べてるかのどっちかだ"って言うんです!」
「間違ってないだろうが。ガイドブックを見ては、あっちだこっちだ言って、その先で試食したり喫茶店に入っては菓子を食ったり。そればっかりだ」
「だからー!今日は暑いんですから、水分補給が必要だったんですよ!あと、涼む場所も!」
一方的にあかねがしゃべって、適当に泰明が交わして…と、多分一日中こんな調子だったんだろうな、と鷹通は思った。

無色透明でしかなかった泰明の周囲に、明るくて鮮やかな色が一色加わったような



…そんな気がした。
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Megumi,Ka

suga