Lemonade Summer

 第3話
「ありがとうございます……付き合ってもらって」
フォークを置いて、あかねはぺこりと頭を下げた。
そんな彼女を、怪訝そうに泰明は見る。
「礼を言われる理由などないが」
「…だって、私一人だったらどこにも出掛けられなかったんですよ。一人じゃ…何かつまんないし。でも、泰明さんが一緒に付いて来てくれたから……」
一緒にいてくれたから、楽しかった。人混みさえも、暑い日差しの中でも、心細くなかった。
そこに付き添ってくれている存在があったから、話しかければ簡単だけど応えてくれる人がいたから。
「妙なことを言うな、おまえは」
泰明はそうつぶやくと、気付かないほどかすかに微笑んでみせた。
多分、普通の人なら見逃すだろう。だけど、あかねはそれをしっかりと目に止めた。

きゅん、と甘酸っぱい何かが胸に広がる。それは何だろう……グラスの中のレモネードみたいな、そんな感じ。



「そうだ!もう時間もそれほどないし、やっぱり最後は泰明さんの好きなところに行ってみましょうよ!」
いきなりあかねが身を乗り出す。テーブルに振動が伝わって、あかねのグラスと泰明のグラスが同時に震えた。
「…さっき言ったことを忘れたか?おまえの好きな所に付き合うだけだ、と言っただろう。」
「だからこそですよ。最後は、泰明さんの行きたいところに行きたいんですよ、私が。」
少し呆れたように泰明は言ったが、あかねは全くと言っていいほど気にせず、バッグの中からガイドブックを取りだして、テーブルの上にページを広げて見せた。
「多分、今の時期なら観光バスとか巡回してますよ。だから、ある程度のところになら行けると思います。ちょっと遠くても大丈夫だと思うし。だから、この本の中から泰明さんが決めて下さい。そこに行ってみましょう。」
賑やかな中心地だけではなく、軽井沢には豊富な自然の景色が広がっている。
泰明のことだから、それならきっと一つくらいは気になるところがあるだろうと思うのだが。

「……私のことなど構うなというのに、聞き分けの無い奴だな…」
「そうです、聞き分けの無い奴なんですよ。だから、決めて下さいね?」
文句を言われつつも、泰明はそれほど嫌な顔をしている感じはしない。
あかねに押しつけられたガイドブックを、適当にぱらぱらとめくってみたりしたが、やはりコレといってピンと来るような場所は見つからない。
鮮やかな緑と、瑞々しい湖の景色。それらは確かに美しいと思うのだが。

泰明の様子を、あかねはしばらく観察していた。やはり思った通り、グルメやショップガイドではなくて、手を止めているのは緑に包まれた自然の観光地だ。
そして、ふと彼の手が止まったページがあった。
見開きで広がるその場所は、一面の緑と水面の輝く湖の景色。
「……塩沢湖、か。」
場所の名前を彼がつぶやく。
「あ、塩沢湖っていうと…タリアセンですね?あそこって、湖もあるしバラ園とかもあるし、ボートとかテニスも出来たりするくらい、広くて綺麗なところだって書いてありますよ。」
泰明のことだから、多分そんな遊びなんて関係ないだろうと思うけれど、緑に囲まれた世界はきっと彼の琴線に触れたのだろう。

「行ってみます?夏だから、5時くらいまで開いていますよ。バスで行けば大丈夫ですよ」
金色の腕時計の文字盤は、まだ2時半。決してゆっくりは出来そうにないけれど、それでも行く価値はあるに違いない。
何にしろ、泰明が行ってみたいと選んだ場所なのだから。
「おまえがそれでいいのなら、構わない」
もう何を言っても、一度決めたら答えを変えないだろう。妙にきらきらした瞳をして…そんな顔をして。どうしてそこまで、輝かしい生気を発することが出来るんだろうか、この娘は。
そんな事を泰明が考えているうちに、あかねはさっさとデザートとレモネードを飲み干して、レシートを凝視しながら精算の準備を始めていた。

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一面の、初夏の緑。
門をくぐった後に、目の前に広がった景色を見たとたん、そんな言葉が思い浮かんだ。
「うわー…すっごい広いんですね…。ほら!湖がきらきらしてて綺麗ですよ!」
あかねが指を差す方向には、ボートの浮かぶ塩沢湖が見える。あちこちでは子供達の声が聞こえ、無邪気に走り回る姿も見えた。
湖畔にはいくつかのレストラン。そして小さな美術館。広い敷地内には、有島武郎や堀辰雄の別荘も残されている。

「何か素敵ですねえ、こういう昔の建築ってホッとしますね。自然に溶け込んでいるような感じで。」
宛もなく、あかねと泰明は園内をぐるりと散歩がてら歩き回った。
夏はそれほど華やかな花はないが、この眩しいほどの緑だけで十分目を楽しませてくれる。
時々隣の泰明を見てみると、遊歩道に並んで植えられている木々を興味深げに眺めたりしている。
……良かった。泰明さん気に入ったみたい。
元々彼が行ってみたいという事で、ここにやってきたのだけれど…思った以上に園内は人が多くて、子供達や家族連れも多くて賑やかな印象があったため、五月蠅いと思われたらどうしようかと不安だったのだが、そんな心配は必要なかったようだ。
「自然の美しい所だな、ここは」
そうつぶやいた彼の言葉が、あかねの心を更にホッと落ち着かせた。


一通り歩いて、湖とは反対の場所にある大きな木の陰に、あかねたちは腰を下ろした。
勿論園内にはベンチ等の他に、一休み出来るカフェなども併設されているが、こんなに綺麗な空気が流れているというのに、屋内に閉じこもってしまうのは勿体ないような気がした。
申し合わせることもなく、芝生の上に腰を下ろす。時折、風が頭上から葉ずれの音を奏でている。
「来て良かったですね」
膝を抱えて隣に座っているあかねが、こちらを覗き込みながら言う。
「……そうだな、気分が良い場所だ。」
自然に、心がそんな言葉を作り出した。

風と緑と木々と花と、そしてきらめく湖と。そこにはあらゆる自然が凝縮されている。
その中に子供達や観光客たちの声が混在しているのに、不思議とそれに対して煩わしさを感じないのが不思議だ。
人との会話や喧噪が邪魔で、だからこそあんな山奥の研究所で一人生活を続けているのに、ここにいると人の声が耳障りに思えなくなる。
それどころか、笑い声やはしゃぐ声が、水面を流れる風の音に混ざって心地良ささえも覚えてくる。

「おかしなものだな。ここにいると、いつもは毛嫌いしてる人の声が、気にならなくなる。」
泰明はそう言って、遠くの芝生で走り回っている子供達を見ていた。
「きっと、みんな楽しんでる声だからじゃないですか?」
隣に視線を流してみると、あかねは今泰明が見ていたものと、同じ景色を眺めていた。
小さな子供、追いかける両親、そんな光景があちらこちらにある。
「普段は別に、良いことばかり話しているわけじゃないですからね。でも、みんなここにいる人たちって、楽しそうでしょ。機嫌悪そうな人の顔見たら、こっちだって気分滅入っちゃうし。逆に、楽しそうな顔を見てる方が、こっちも楽しくなるでしょ?」

緑に囲まれているせいなのか、あかねの声が不思議なくらいに胸の中に浸透する。
楽しい人を見れば自分も楽しくなる……そんなこと、今まで考えたことも無かったことだ。あきらかに、泰明の中にそんな感情や理論は存在していなかった。
しかし、どうだろう。あかねの言葉は、何故か疑う気持ちになれない。
現に……あんなに混雑した町中を歩き回ったというのに、きょろきょろしながら目に映るものを手に取り、はしゃいでいたあかねの姿を見ていたら、疲れることさえも忘れていた。
どこにでもあるものを珍しがって、時には強引に連れまわって。……なのに、妙にホッとする。

「おまえといると、世界観が変わってくる」
「…は?どういうことですか、ソレ」
泰明の言葉が飲み込めずに、あかねはぽかんとしてこちらを覗く。
計算だけで立証出来るような、簡単なものではない。それらは常に、時と場合に寄って変化する。
そして新しい発見の中で、更にまた形を変えていく。
決してそれは、悪い気分ではない。


「少し喉が渇いて来たな」
緑の風を深く吸い込んだ泰明が、そんなことをつぶやいた。
「あ、そうだ!さっき買った山ぶどうのジュース、ありますよ。飲みます?冷えてないけど…」
泰明が興味深そうに見ていたのに釣られて、ついつい買ってしまったのだけれど。
紙袋の中から、小さなボトルを取り出してキャップを開けた。ぶどうの甘い香りが、開けたとたんにふわりと漂う。
赤ワインのように濃い色のそれを、泰明は何度か口にした。そして、半分ほど飲み終えたあと、そのボトルをそのままあかねに差し出した。
「え、もう良いんですか…?」
たかだか100ミリリットルくらいなのだが。あかねだって、あっという間に一気飲み出来そうな量。
「残りはおまえが飲め。おまえも歩き回って、喉が渇いただろう」
ボトルを握りしめた掌が、カッと熱くなって汗がにじむ。
「え、でも…私はあのー、別のジュースを買ったし!」
「わざわざ二本も開けなくても良い。喉を潤すなら、これくらいで十分だ。」
いや、そういう意味じゃなくて躊躇しているのだけれど。…でも、そんなことなど、泰明は気付いていないのだろうな…とあかねは思った。

じっと、ボトルの口を見る。……半分だけ残ったジュース。泰明の飲んだ、あと。
「何をためらっている」
不思議そうな顔でこちらをじっと見るから、妙に緊張してしまう。もう少し、こっちの気持ちも分かって欲しいのに、と愚痴りたい気持ちもあるけれど。
ええい!もうどうなってもいいや!…なんて気合いを入れて、あかねはジュースを思い切り飲み干した。

山ぶどうの味は、少し渋かったけれど、生まれたままの味が口に残った。
そして、不思議な感覚も一緒に。




-----THE END-----



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Megumi,Ka

suga