緑の住人

 第3話
朝からひと騒動あったせいで、朝食は随分と時間が遅れてしまった。
だが、そのせいで朝食場所のレストランは人がある程度出たあとで、ゆっくりと味わうことが出来たのは丁度良かった。

「今日の予定ですが、午前11時から国際セミナー、午後1時に会食を兼ねた昼食で、午後3時からカンファレンスとなります」
ビュッフェスタイルの朝食だが、鷹通が選んだのはオーソドックスなアメリカン・ブレックファスト風。
あかねはヨーグルトが食べたくて、パンを一個にしてサラダを選んだ。泰明は……ミルクとシリアルのみ。
「今夜の夕食は各自で結構です」
それを聞いて、ホッとした。また昨日みたいな場違いな所に連れ出されたら、今度こそ何かやらかしそうな気がする。

だが…それにしても今日の予定を聞いたところでは、あかねには殆ど無縁な予定ばかりが並んでいる。
来る前から分かってはいたが、一人でどうやって一日を過ごそうか。
慌てて購入したガイドブックもあるけれど、車があるわけでもないから行動範囲は限られるし。


「今日の予定で、出席が必要不可欠なものはどれだ?」
シリアルにミルクを注ぎ、スプーンで何度かかき混ぜていた泰明が、鷹通に尋ねた。
「…それはその…まあ、すべて先生は出席されるべきかと思いますけれども……」
そのために招待されているのだから、当然とも言えるのだが、こういうことを泰明が尋ねて来るという意味は、だいたい予想がつく。
夕べの晩餐会でも分かる通り、出来るだけ人との接触を避けたいと。つまり、最低限の会議にしか参加したくない、と言いたいのだろう。
「取り敢えず、研究資料の発表がありますから、午前中のセミナーには参加して頂かなくては困るでしょうね。最悪、午後のカンファレンスに参加なさらないとしても…何とかなるとは思いますが。」
まあ、その際は泰明の資料を持って、代わりに鷹通が出席すれば事が済む程度のことだが。
「ならば、それで良い。カンファレンスはおまえに任せる」
予想通りの答えだ、と鷹通は思った。


ヨーグルトに添えられたイチゴとブルーベリーのジャムは、プレザーブタイプでごろごろと果実がそのままの形で残っている。
くるくるとかき混ぜると、少しピンクがかった淡い紫色にヨーグルトが染まる。
「あのー、鷹通さん…私はどーすればいいんでしょうかー?今朝、散歩してみて、見て歩きたいところもあるんですけど…」
「そうですねえ…元宮さんはご自由に過ごしても良いんですが、確かにお一人では不安ですよね」
車は運転出来ないし、来た事も無い場所を一人で歩き回るというのは、若い彼女にとっては心細いだろう。
鷹通自身は何度か軽井沢には来ているので、ある程度の地理感覚は持っていると思うが…だからといって泰明を一人でセミナーに行かせて、彼女に付き合うのはどうだろう。
というか、泰明が一人でも大丈夫なんだろうか。


「あかね、午後から時間が取れるか」
突然に切り出した泰明の声に、二人が揃って固まった。
「えっ…あ、何もないんで…時間はいくらでも………」
というか、時間がありすぎて困っているのだが。
「それなら、午後から私に付き合え」
今度は、鷹通があかねを見た。
一体、何の理由で彼女を誘う意味があるというのか。この泰明に。
「…は、はあ…別にそのー…用事もないんで…構いませんけど………」
「なら構わない。出掛ける支度をしておけ。」
それだけ言うと、泰明はスプーンにすくったシリアルを、無表情で口の中に運んだ。
鷹通とあかねの二人はというと、お互いに顔を見合わせて何とも言えないような顔を作った。

+++++

セミナーとカンファレンスに使用する書類をまとめるため、朝食後すぐに鷹通は泰明の部屋に向かった。
テーブルの上には、無造作に書類のファイルが置かれている。
まるで用無しのチラシのようだが、これでも国際的に一目置かれる植物博士の研究論文だ。これらを、泰明の代わりに読み上げる事になる鷹通も、錚々たる世界中の学者たちの前となっては、今から緊張して身体がこばわってくる。
「論文に関しての質問は、無視して構わん。それらは、直接メールで問い合せるように、と言え。」
鷹通は論文に目を通しながら、泰明の着替えが済むのを待った。

「それにしても、午後からどちらに向かうつもりなんですか?」
論文をファイルに納めながら、鷹通が泰明に尋ねた。
新しいシャツの糊が少し固くて、袖を通すと肌触りが悪い。少し腕を動かして、わざと皺を付けながらボタンをはめる。
「特に、決めていない」
「え?でも先ほどは、着いてくるようにと元宮さんにおっしゃったのでは…」
スーツカバーの中にあるネクタイを取り出して、泰明に手渡す。意外に手慣れた手つきで、彼はしっかりとそれを首に結んだ。

開けておいた窓からは、丁度良い風が入って来る。その中には、ほんのりと緑の風が絡んで鼻をくすぐるようだ。
「あかねが、どこかに出掛けたいような顔をしていたからだ」
着替えに集中している泰明は、後ろにいる鷹通が今どんな顔をしているかなど、気付いていないだろう。
まさか彼の口から、他人のことについての話が出てくるなんて、今まで一度たりとも聞いたことがない。
そして、更に驚くべき言葉は続く。
「一人では出掛けるにもつまらんのだろう。誰か同行者を探しているようだったからな。」
確かにそれはそうだが、だからと言ってそれを泰明が気に止めているとは思わなかった。

「不本意だったが、私の責任で怪我を負わせてしまったからな。それくらいのことをしても、構わぬだろう。」
鷹通は、今朝のあかねの腕に出来たかすり傷を思い出した。
ほのかに赤い鉛筆ですうっと引いた、落書きのような腕の傷。人によっては見逃すかも知れないような、小さな傷だ。
"泰明さんが、治療するようにって言うので…"と、鷹通のところにやって来たあかね。彼女自身も、痛みなど全く感じていないようだったが、取り敢えず簡単に消毒だけは済ませたが、
傷にしろ今回のことにしろ、泰明のあかねに対する態度は不思議だ、
これまでの彼から想像することは、一切当てはまらないことばかりが飛び出してくる。

「先生は、元宮さんには随分とお気を許してらっしゃいますね」
「どういう意味だ?」
「いえ、特に深い意味はありませんが。むしろ、結構なことだと思いますよ」
学会員との交流には無関心で、恩師への挨拶もそこそこで済ますような泰明が、あかねのことに気を止めるとは珍しい。
かれこれ2年ほどの付き合いになるが、それでもまだ近づけない部分がある。そんな自分でさえ、他から比べたら随分となあなあになれたと思っていたが。

だが、あかねの存在は…どうだろう。
出会ってまだ半年にもならない。彼の助手が出来るような専門知識があるわけでもない。
時々、彼の研究所で雑用をする程度で顔を合わせるだけなのに、泰明本人から興味を抱かれるとは。

もしかして?いや、泰明に限ってそんなことはないだろうと思うが……真相は不明だ。
多分、彼に聞いたところで答えが返ってくることもなさそうだ。
だげど、おそらくきっと泰明にとってのあかねは、特別な存在には違いない。

「せっかくですから、元宮さんに楽しい時間を過ごさせてあげて下さいね」
そう言って、鷹通は笑った。
泰明は何も表情を変えず、ジャケットを羽織って先に部屋を出た。



-----THE END-----


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Megumi,Ka

suga