緑の住人

 第2話
小川と言うくらいだから、底は足がつく程度だ。
膝にさえ届かない。せいぜいくるぶしが隠れるくらいだろうか。
泰明は、今まさにその川の中に立っていた。しかも……靴だけを脱いで、パンツの裾もシャツの腕もまくらずに。
「ちょ、ちょっと取り敢えず出て来て下さいってば!!」
パニック状態のあかねに、泰明は驚きもせずいつもの調子で答える。
「今、水草を採っている」
「水草ー!?」
手を上げた泰明の手には、藻のような濃い緑色の草が握られていた。
「これを採りに来た。まだもう少し必要だ。」
そう言って、再び両手を川の中へと突っ込む。
「もう……っ!とにかく一旦出て来て下さい!それからなら、また入っても良いですからっ!!」
あかねの声が悲鳴のように響いたので、さすがの泰明も黙って河原の方へと上がって来た。
やたらに伸びた、その水草を片手に持ったままで。


案の定、川から上がって来た泰明の姿は、全身水浸しという状態に近かった。
だが、着替えなんて持って来ているわけでもないし、この様子ではもうしばらくここから動きそうにないし。
「…はぁ。」
呆れたような、困ったような溜め息をあかねが吐き出す。
そして、その場に突っ立っている泰明の腕を掴んだかと思うと、シャツの袖をぐいっと肘上までたくし上げた。
「こうやって!水に入る時はまくっておけば良いんです!そうすれば少しは濡れないで済むでしょ!?」
「………」
果たして、分かっているのかどうか疑問も残るが。
「足も、同じようにちゃんと膝までまくるんですよ!」
「……こうか」
しゃがんで自分の膝をまくり上げた泰明は、一回あかねの顔をちらっと見上げた。どうやら、彼女の様子を伺っているようだ。
「そうです。それを、水の中に入る前にやって下さい!」
「……そうか。」
もちろん、こうして濡れてしまってからでは何の意味もないのだけれど。


再び、泰明は川の中に入って行った。
あかねは河原の岩に腰を下ろして、彼が気が済むまで待機することを決めた。

------まったく何て言うか、一つの事に集中したら、他の事まで頭が回らない人だなあ……。
彼の背中を眺めながら、そんなことを考えた。
興味のあること意外には無関心というか。だからこうして、服の事なんか考えないで水の中に入っちゃったりして。
学会でも注目されるくらいのエリートなのに、こういうところはまるで子供そのもの。
遊びに夢中になって、帰る時間も忘れて怒られる子供みたい…そう、そんなことが昔自分もあったっけ。
そう思ったら、何だかおかしくなってきた。

どこか子供みたいで、それが妙に無邪気に見えて、純粋に見えて。
不思議と、目に映る泰明の姿が今までと違ったように見えて来た気がした。

+++++

ホテルに帰ると、フロントロビーに鷹通が立っていた。
スタッフと何か話しているようだったが、あかねたちの姿がドア越しに見えて来ると、当然の事ながらメガネを落とすかのような驚いた顔でこちらを見た。
「ど、どうなさったんですか!その格好……」
あかねは良いとして。問題は泰明だろう。
腕まくりして膝まで出して、しかも服は濡れ放題。片手には水草の入ったビニール袋。
「まるで水遊びしてきた子供みたいじゃないですか」
鷹通がそう言うと、あかねが大きな声で笑い出した。
「あははは!ホントですね!何か、田舎に遊びに来た小学生みたい」
その意味がまったく分からない泰明は、特に何の反応も起こさない。

取り敢えず、あかねは鷹通に簡単な説明をした。
案の定、鷹通は呆れたようだが、泰明の行動なら仕方が無いという諦めの表情も見て取れた。
「いや、今朝になってお二人のお部屋に何度連絡しても繋がらないもので、どうなさったのかと今フロントの方にお話していたところだったんですよ」
「すいませんでした。ちょっと予想外のことで」
散歩に行っただけなのに、随分と方向の変わった顛末になってしまったものだ。

「とにかく、朝食の前にお二人ともお着替えになってきて下さい。先生は、シャワーもお使い下さいね」
「分かりました。さ、泰明さん、早く戻らないと夏だからって風邪ひいちゃいますよー!」
あかねは足早に、3階に向かって階段を駆け上がった。
そのあとを、ゆっくりと泰明が着いてくるのが踊り場から見下ろすと目に入った。


先にフロアに辿り着いたあかねは、泰明が上がってくるのをその場で待っていた。
一段一段こちらに上がって来る泰明の姿を見ていたが、目の前まで来て突然彼の手が伸びて来た。
そして、彼の手は細いあかねの腕をぐっと引き上げる。Tシャツの袖から見える腕に、赤い一筋の痕が残っていた。
「怪我か。」
「えっ?」
言われて自分の肘を見てみると、確かにすうっとかすかに擦りむいたような傷が出来ていた。わずかだが出血もあったらしいが、大きな傷ではない。
「きっと、薮を抜けた時に引っかかったから、その時に出来たんだと思いますよ。随分とあの薮、小枝とか凄かったから…」
あれだけ鬱蒼とした木々に囲まれた、道のないところをかき分けて入り込んだのだ。それくらいのことは、覚悟していたけれど。

「すまない」

それは、幻聴?
今、泰明の声で聞こえた言葉は……一体、何と言っていたのだろうか?
ただの聞き間違い?彼が、そんな言葉を発するはずがないと…そう断言できたはずなのだが。
「私のせいだな」
「……え、えっ…?」
今度は、しっかりと確認出来た。その言葉は、間違いなく目の前に居る人の口から発せられている。
泰明が…まさか、そんな。他人に対して感情を表さない彼が、たったこれくらいの傷のことで謝罪するなんて、どうしても信じられなくてあかねはあっけにとられた。
「痛むか?」
「あ、え…だ、大丈夫ですって!もうほら、かさぶたになってるし…だ、大丈夫ですよ!」
掴まれた手から、腕に向けて熱が伝わる。
今まで意識したことがなかったのに、触れるその手が彼との密着する距離をあからさまに表現していて、血流が動き出す。

それなのに。
この状況でさえ、こんなに身体が熱くなっているのに。


----------今、傷に触れているものは、何?
かすかにくすぐる、細い前髪の毛先。ほのかに柔らかな、暖かいぬくもり。
泰明の唇が、傷をなぞる。

「唾液は殺菌作用がある。あとは、藤原に言って消毒液で治療しておけばいい」
そう言って、泰明はあかねの手を離した。
「あ、あ…は、い………」
彼はそれっきり、振り向かずに奥の自室に消えた。
あかねは、しばらくそこから動けないでいた。

傷が痛いわけじゃなくて、彼の唇が触れた腕が………とても熱くて。


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Megumi,Ka

suga