緑の住人

 第1話
森の中にあるせいか、普段よりも静寂の広がる夜だった。
それは朝になっても同じで、かすかに聞こえてくるのは小鳥の声。鬱蒼とした木々に包まれているため、窓から朝日も直接入って来ない。
アラーム時計の文字盤は…午前5時半。

夕べは早々にパーティーを抜け出して、そのあと泰明の部屋で特別何をすることもなく、コーヒーだけを啜って時間を過ごして。
あとから部屋にやってきた鷹通には、随分とパーティーでの話を聞かされたものだが、泰明にとってはそれほど重要な話題ではなかったみたいだ。
それぞれの部屋に戻ったのが、午後9時半頃。眠りについたのは…午後11時頃だっただろうか。
軽井沢の夜は、思ったよりも早い。
それは、明け方の空気の透明感が、夜の安らぎよりも遥かに美しいものだと、誰もが無意識のうちに感じているからなのかもしれない。

「えっと……朝食は、午前8時かあ…」
3時間前に早起きなんて、普通じゃ考えられないな、と思った。慌てて飛び起きて登校する、というのがあかねの日常であるから。
冷蔵庫にあるのは、ミネラルウォーターのミニボトル。
コップ一杯を飲み干してみたら、身体の中からひんやりしてきて、一瞬のうちに目が覚めた。
次に、窓を開けてみる。朝の空気は、緑そのものだ。
「そうだ、せっかくだしジョギングでもしてこようかな…」
おそらく人も少ないだろうし、散歩しながら辺りを見てまわるのも楽しそうだし。
それに、多分今日も天気が良さそうだ。

+++++

どこまでも真っすぐに、天に向かって伸びる木々。そして、頭上には青々とした緑の葉が茂っている。
そこから、きらきらと差し込んで来る朝日。ひんやりとした、澄んだ空気。
「ああ〜……深呼吸が美味しい〜……」
これこそが森林浴、という感じだ。空気の香りも温度も、そこに生きる植物の息吹きで身体が内面から浄化されていく。

昨日、軽井沢に到着した時には、あちらもこちらも人が溢れていたけれど、早朝はほとんど人の気配はない。
たまに、犬を連れて散歩している人や、ジョギングをする人などとすれ違う程度。
それでもあと数時間もしたら、この先にある旧軽銀座も喧噪が戻って来るのだろう。
だが、少なくとも今はのんびりとした時間。おそらく、一番空気の綺麗な時だ。
一人で歩く足取りも軽やかで、どこまで歩いても疲れないような気がする。
こんなところに住んでいたら、毎日健康な生活が出来そうだな、と思いながら歩いた。

身体の節々を伸ばしながら、つま先がリズミカルに動き出す。
自然と、鼻歌まで出て来そうな。
数十分、そんな感じでホテルの周りを歩いたあと、あかねは部屋に戻ることにした。
朝食の前にシャワーを浴びて、それから食事で丁度良い時間だろう。



ホテルはまだ静まり返っていて、起きている者も多くなさそうな気配だ。
あかねは静かに玄関のドアを開けて、人気の無いロビーを抜けて上階に向かおうと階段を上がろうとした。

そのとき、逆に上から下りて来る足音が踊り場から響いて来た。
ロビーのホールクロックは、午前6時少し前を指している。
こんな時間に館内を歩いているなんて、スタッフくらいだろうか…と思い、一旦立ち止まって下りて来る人を見ようとした時、現れた姿に思わず声が出た。
「や、泰明…さんっ?」
「こんな時間に、何をしている」
まさか、朝早く泰明が起き出して来ているとは思わなかったし、何しろその格好は寝起きというわけでもなく、至って普段着の白いコットンシャツとココア色のパンツスタイル。
だが、その足下はトレッキングシューズのような、頑丈な靴を履いている。

「そ、それはこっちの台詞ですよ!まだ朝早いのに、どうかしたんですか?」
驚いてあかねが尋ねると、相変わらずの無表情で一言答える。
「出掛ける」
確かに、こんな靴で館内を歩く必要もないだろうし。出掛けようとしているのは一目で分かるけれど、問題はその理由である。
「こ、これからですか?8時から食事ですよ?それに、まだ外なんてお店もやってないし……」
あかねが戸惑っていることなど気にも留めず、泰明はさっさと外に向かって歩いて行く。
まるで、何か目的なあるような、迷いの無い足取りだ。やけに、そのフットワークは早い。
「ちょっと待って下さいよー!」
後ろからあかねが叫んだ声に気付いたのか、外に出たとたんに泰明は立ち止まって振り返った。
「気になるなら着いてくれば良い」
「つ、着いて来るって…どこにですか!」
泰明は再びくるっと背を向けて、再び前に向かって歩き出した。

-------一体何をするってのよ?
いくら何でも、こんな状態で泰明を無視するわけにもいかない。
折角散歩から戻ってきたのだが、仕方が無くあかねは彼の後を追いかけて行った。

+++++

戻って来たばかりの道を、再び歩いている。
泰明はずっと黙ったままで、それでいて迷いも無い足取りでどこかに向かって歩いているようだ。
「あのー、どこに行くんですか?」
「着いてくれば分かる」
そりゃそうだけれども…と突っ込みたくなったが、それにいちいち反応するような相手ではないことは充分承知だ。
もう諦めて、黙ってこのまま彼に着いて行くしかないだろう。


どれくらい歩いた頃だろうか。
耳を澄ましてみると、遠くから涼しげな音が聞こえているのに気付いた。
その音は、泰明の後を着いて行くにつれて、次第に水音と判明出来る程に大きくなっていた。
さっきと同じ方向に歩いているのだが、川のような水辺などあっただろうか?とあかねは首を傾げた。

激流のような音ではなく、せせらぎという言葉が似合うような、かすかな音だ。
川底の砂利をかけぬけていく、さらさらという静かな水の音は小鳥の声と交差して、心地良い自然の音を奏でている。
と、おもむろに泰明は、舗装された道路から林の中へと入り込んで行った。
「ど、どこに行くつもりなんですかっ!?」
一応叫んでみたが、予想通り答えは返って来ないので、そのまま彼のあとを追いかける。
決して綺麗とは言えない薮を、自らかき分けながら泰明は前に進む。あちこちの小枝が引っかかっては、あかねの腕や膝をかすっていく。

-----どこに行くつもりなんだろう…。
そう思った瞬間に、泰明がそれまでよりも早い足取りで歩き始めた。
そして、彼が薮をかき分けたそこには、山の奥深くからの清流で作られた小川が広がっていた。
「うわあ………」
一瞬のうちに、視界が広がった。
緩やかな滝の流れる岩場から、ゆっくり河原を流れて行く川。白い砂利が広がって、そして周囲は生き生きとした緑に包まれている。
見た事も無いような自然の芸術とも言える風景に、あかねはその場に呆然と立ち尽くしていたが、泰明はさっさと河原の方へ下りて行く。
あかねも、周囲を鑑賞しながら静かに河原へ降り立った。

川の水は飲めそうなほど澄んでいて、川底が透き通って見える。小さな小魚があちこちで泳ぎ回り、岩場には沢蟹のような生き物も見て取れた。
「泰明さん、こんなところ…よく知ってましたねえ…」
深呼吸をしてみる。さっき、散歩の時の深呼吸とは違う空気が、身体の中に充満してくる。すーっと意識が澄み切って来るのは、マイナスイオンというもののせいかもしれない。
そういえば滝や水辺にはマイナスイオンが多いと、以前鷹通が言っていた気もするし。
「泰明さーん、やっぱりこういうところってマイナスイオンとかが……っ!!!!!!!」
身体を伸ばして振り返った、その時あかねの目に映った泰明の姿は……。


「な、何やってんですかーーーーーーっ!!!!!」
あかねの驚愕の声に振り返った泰明は、川のど真ん中に佇んでいた。


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Megumi,Ka

suga