風の引力

 第3話
「……何をしている?」
あかねと目が合った泰明は、平然としてそう答えた。
いつものことではあるが、返って来た言葉に拍子抜けする。
「そ、それはこっちのセリフですよ!泰明さんこそ、一人で何でそんなところをウロウロしてるんですか!」
すると、泰明は少し黙って周りの木々を一つずつ眺めた。そして、手のひらをかざしてそれらに触れてみる。
「疲れた」
「は?」
どうにも会話のつじつまが合わない。元々テンポが普通の人間とズレている泰明だが、何と言うか……今は、人間関係から隔離されたいような、どことなくそんなバリヤーが見える気がする。
確かに、人付き合いは苦手なタイプではあるけれど……。

「あの、私も外に出て良いですか?」
そう尋ねた泰明を、あかねは見つめてみる。
黙秘権を使っているような、言葉の無い時間が少し流れて、無感情な声が聞こえて来る。
「好きにすればいい」

+++++

屋内でも夜は結構涼しいと感じていたが、外に出てみると尚更それを実感出来た。
木々に囲まれた場所は、夜になるとこんなに肌寒く感じるものなのか。まだ8月も始まったばかりだというのに。
泰明の研究所がある辺りも、山の上で鬱蒼とした木に囲まれている場所だけれど、こんなに涼しいことはないだろう。これが"避暑地"と呼ばれる所以か。
「夏なのに、涼しいですね…この辺り」
だんまりとしていても仕方が無いので、何気に他愛も無い言葉を掛けてみたりするが、それに対しての返事は滅多に返って来ない。
ただ、それに対して文句を言うこともなく、不機嫌そうにするわけでもないので、話しかけること自体は迷惑だと思っていないらしい。
どっちみち、いつもこんな感じだし。話すのはあかねの方だし。用件以外は、自分から泰明が話すことなんて殆どないし。
なので、取り立てて気にすることでもないのだが。

「お腹すきませんかー?」
「喉、乾きませんかー?」
泰明は木の枝や、幹に手を触れながら、林の中をゆっくりと歩き回っている。その後をゆっくりと、あかねは着いて歩いている。
時に、こんな問いを投げかけてみたり。
しかし、返事はない。
正直、あかねとしては……空腹感が残っていた。
いくら立食とは言っても、あんな多くの人々に囲まれていては、テーブルに並べられたものさえ取る余裕もない。
マナー違反をしていないか、そんなことも気にかかってしまって食も進まなかったし。
手渡されたシャンパン代わりのジュースでは、ディナーには程遠い。

「人に囲まれるのは、好きではない」
自分以外の声がして、あかねはそちらを振り向く。だが、声の主は背を向けたままで、こちらを見てはいない。
「気分が悪くなる。密室の中で、徐々に空気を抜かれて行くような気にさせる。一人と話すたびに、酸素が欠乏して行くような気がする。」
木に触れている手は優しそうに見えるのに、泰明の胸の中は複雑な形の雲がうごめているらしい。
"空気が抜かれるような"……あかねのように、神経が過剰に反応してしまって、逆に緊張しすぎてしまっているような、そんな感じとはまた違う。
圧迫感、威圧感、そんなことだろうか。
確かにあそこに集まっている人々は、あかねにとって異世界の人間に見えるけれど。それに関しては、威圧感みたいなものはあるけれど。
「でも、恩師の先生がいらしてたじゃないですか。先生とだったら、もう少し話しても良かったんじゃないですか?」
ふと、泰明の足が止まった。
「人は信用出来ない」
静かだが、重い言葉が彼の口から吐き出された。
それは、完全に他人との交流を拒絶した、冷たい意味のこもった言葉だった。

信用という言葉は、人間関係にとって一番重要なものだ。
相手を信じることが出来なければ、付き合うことは難しい。たとえ表面上で交流を持ったとしても、踏み込む事が出来泣ければ進展は無い。
恩師である相手にまで、『信用できない』と言い切ってしまう泰明の心境は、一体どんなものなのだろう?。
今、彼の心には、どんなものが渦巻いているのだろう。

さっきまでは普通に声をかける事が出来ていたのに、今は何となくためらわれた。
色々なことが頭の中で絡み合って、複雑に混ざった色を作り出している。
泰明にとって、自分の存在はどうなんだろう、と思った。
やはり、信用出来ない相手の一人なんだろうか。そして、常に研究に手を貸している鷹通も、彼にはやはり全面的に信用できる相手とは言えないのだろうか。
「は……くしゃっ!」
鼻の奥がむずむずして、くしゃみが出たあと腕にさあっと鳥肌が立った。
そういえば、部屋から泰明を見つけて慌てて飛び出して来たから、カーディガンも羽織っていなかった。
ノースリーブのオーガンジーワンピースだけでは、この避暑地の夜に外を歩くには寒すぎた。
夏風邪なんかひいたら、せっかく始まった夏休みにケチが着いてしまう。
だからと言って、このまま泰明を一人にしておくのも…気が引けるし。

そう思っていた時、泰明が自分のジャケットを差し出した。
「風邪を引く。そんな格好で外を歩けば、くしゃみの一つも出るのは当然だろう」
その、たったひとつの彼の行動が、これまで困惑していたあかねの気持ちを一瞬のうちに払い除けた。
手渡された、新品のジャケット。夏にしては少し厚手のものも、ここでは丁度良いくらいだ。
「ありがとうございます…」
礼の言葉を言ったが、泰明はこれといって表情を変えない。
白いワイシャツとグレーのネクタイは、その色のせいか涼しさを通り越して寒々として見える。

「あの、泰明さん…そろそろ部屋に戻りませんか?」
思い切って彼の腕を掴んで、少し強引にこちらを向かせる。
「寒くなってきたし、それに…お腹すきましたし!」
「私は別に、腹は減っていない」
簡単に答えを返されてしまったけれど、吹っ切れたあかねはへこたれなかった。
「じゃあ、食事に付き合って下さい!っていうか、あそこに戻るのは私も嫌なので…あ、ロビーにあるカフェレストランで良いですよ。お腹すいてなかったら、泰明さんはお茶だけでも良いですし!」
泰明はしばらく考えた。
だが、それほど時間をおかずに返答をした。
「それくらいなら、構わない」
ほんの少し、気付かないほどの、かすかな微笑を添えて。

+++++

普段はホテルのカフェなんて縁はないが、あのパーティー会場から比べたらずっと庶民的に思えた。
一応自分で払わないといけないから、メニューの値段を散々吟味したあとに、クラブハウスサンドとミルクティーを頼んだ。泰明は、ブルーマウンテンを一杯だけ頼んだ。
「はあ…落ち着きました。やっぱりこれくらいの食事が私には合ってますよ。あんな豪勢なのは肩がこっちゃいます。」
サンドイッチを食べ終えて、ほっと一息つきながら暖かいミルクティーを味わっていると、2〜3度コーヒーを味わった泰明が、眉を顰めてカップを元に戻した。
「不味い」
一言。あかねは周囲をきょろきょろ見渡すが、幸い給仕はパーティーに殆どかり出されているらしく、せいぜいカフェに待機しているのは売店とレジくらいで、店内を歩き回っている者はいなかった。
「コ、コーヒーが…ですか?豆の種類が、合わなかったんじゃないですか?」
こそこそと小さな声で尋ねて見る。泰明は、それ以上コーヒーを口につけなかった。
「味わいがない。つまらない味だ。豆が良くてもこれでは無駄なだけだ。」
泰明は…そんなにコーヒーにこだわりがあったか?あかねが研究所で入れるコーヒーは、文句など言った事ないのだが。
食生活にもこだわりのない泰明が、コーヒーに限ってこんなに愚痴をこぼすのは、珍しい。

精算を済ませようと、レジに向かった。
泰明が、自分が払うと言うので遠慮なくご馳走になることにした。
先に店を出て、エントランスホールのソファで彼を待っていると、出て来た泰明の手に茶色の紙袋が握られていた。
「それ、何か買ったんですか?」
あかねが尋ねると、泰明はそれをあかねに渡した。
「ブルーマウンテン。部屋に戻って、おまえが入れてくれ。」
「え?待って下さいよ.お店のコーヒーが不味いってあれだけ言ってて…私、そんな美味しいコーヒーを入れる技術なんてないですよ!?」
部屋には湯沸かしポットとカップ。それだけで、カフェ以上の味を出すなんて無理な注文だ。
一体、なんでそんな無謀なことを………と、思っているあかねの前を、泰明は足早に進んで行く。

「他人の目がある場所では落ち着けん。美味いものも不味くなる。」
白いシャツの後ろ姿に、彼の長くて細い髪の毛が揺れた。
そして、それ以上に揺れたのは……………。

「早く来い。」
「は、はい…!」
慌ててあかねは、泰明の後を追いかけた。
心を揺らしながら、彼の声で告げた『他人』という意味と、自分の存在の意味の境界線を、何度も繰り返しながら。



---THE END---

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Megumi,Ka

suga