風の引力

 第2話
ああ、やっぱり……。
ホールに入ったとたん、あかねは落胆した。
目が眩む程の、きらびやかな世界。予想通りの光景が、そこに広がっていた。
「ほら、やっぱり私だけ場違いじゃないですかあ!」
小声ながらもあかねは鷹通の腕を掴んで、困惑しながらすがるような目で見た。

…男の人は良いなあ、スーツとネクタイなら何とかセーフだけど、女は着飾らないといけないときがあるもん…☆
そうは思っても、最初からあんなドレスなんて、着られるはずも無く似合うわけもないのだけれど。

「おまえが同じ格好をしたところで、似合うものではない」
テーブルの料理に手も付けずに、壁にある椅子に腰を下ろした泰明が、あかねを見ることもなくそう言った。
だからと言って、周囲に目を奪われているわけでもない。
「おまえは、おまえに合うものを身に付けていれば良い。今の格好で十分だ。」
だ、そうですよ、と鷹通が笑う。
口振りは素っ気なくて、お世辞のようなフォローの一つも言わないけれど、真っすぐ本心しか口にしないから、泰明にそう言われると妙にホッとする。
彼の日常的な姿に、すっかり馴染んでしまったなあ、と思った。

ボーイがシャンパンのグラスを持って、こちらにやって来た。
未成年のあかねには、軽井沢で採れたぶどうのジュースが配られた。見た目だけは、ワインのようだ。
急に、ホールのライトが少し落とされた。かと思うと、中央のステージにスーツの中高年男性が立った。
「皆様、今宵は…………」
マイクを通して声が響く。どうやら、今回の学会の代表のようだ。
鷹通が彼のことを説明してくれたが、あかねにとっては"偉い研究者"という肩書きくらいしか覚えられなかった。
「先生、向こうにロスネン博士がいらしていますよ」
泰明に耳うちをするように、ホールの奥にいる恰幅の良い北欧男性を鷹通が見つけたようだった。
後から聞くと、彼が泰明のフィンランド時代の主任らしく、つまり恩師という立場だそうだ。
「お話が終わったあと、こちらにお連れしましょうか?」
そりゃそうだ。恩師なのだから、挨拶の一つくらいするのがいくらなんでも常識だ。
が、それが通用する泰明ではない。
「いらぬ。」
平然とそう答えて、シャンパンのグラスを口にする。意外に飲めるようで、顔色も変わらずあっという間に飲み干してしまっていた。
「でも、泰明さんー、礼儀ってものがあるでしょう?元気かどうか、あちらも気にしてるかもしれないし。」
一応そんなことを忠告しては見るが、すんなり受け入れることなど泰明には無縁だ。
相手が恩師だろうが、助手の鷹通であろうが、この分では総理大臣にさえ同じ態度を取るに違いない。

そうこうしているうちに、進行役の話は終わり、ホールがまた明るくなってきた。
人々は個人個人で、自由に会話と食事を再開させていた。
「yasuaki!」
誰かが、泰明の名前を読んだ。明らかに、日本語のイントネーションではなかった。
英語とはまたちょっと違う。振り向くと……近付いてきたその人は、さっき鷹通が説明していた泰明の恩師、と呼ばれる博士だった。
「Wie geht es Ihnen?」
にこにこして彼は泰明に近付き、その肩をとんとんと叩く。泰明は無表情を変えなかったが、ぽつりと"Danke, Gut."と答えた。
ああ、ドイツ語か……ダンケ、くらいは分かるけれど、あとはさっぱりだ。
すると、彼は今度はあかねの方を見て、何やら泰明にあれこれと話しかけている。しかし、恩師を前にしても全く反応無しの泰明にしびれを切らし、隣にいた鷹通が言葉を挟んだ。
「Ich freue mich, Sie kennen zu lernen. Mein Name ist takamichi Fujiwara.」
まさか鷹通から、流暢なドイツ語が出て来るとは思わなかった。
ロスネンは鷹通が泰明の助手だと分かると、更に機嫌を良くしたようで大きな声を上げて握手をしながら笑った。
「Das ist Frau Akane Motomiya」
自分の名前が耳に入って、はっと我にかえるとロスネンがあかねに手を差し伸べていた。つまり、握手ということだろう。
「あ、ははは…」
会話が全くわからないので、取り敢えず笑顔で握手していれば問題は無いだろう。
少し緊張して笑顔は歪んだかもしれないが、簡単な挨拶は何とか無事済ませられたようで、再び会話の相手が鷹通に移留野を見てあかねはほっとした。

その時、ガタンと音を立てて泰明が立ち上がった。
「auf Wiedersehen. Schonen Abend noch」
馴染みのないドイツ語ではあったが、その発音は妙に堂々としていて、しっかりと言語を理解していることが一瞬で分かった。
鷹通のようにすらすらと会話するわけでもないのに、例文そのままのありきたりな挨拶は、どこか他人行儀で相手に本心から伝えようという意志は、あまり感じられなかった。
それだけを言い残し、泰明は半ば押しつけるようにあかねの手に空のシャンパングラスを押しつけ、背を向けてその場から姿を消した。
「た、鷹通さん!ど、どうしましょうか!泰明さん勝手にどっか行っちゃいましたよ!?良いんですか!?」
恩師に対して非礼とも取れる態度に、直接的な関係者でもないあかねの方がハラハラしてしまったが、意外にもロスネンは陽気に声を出して鷹通と談笑している。
「『相変わらずの泰明だ。全く変わってない様子だが、ならば結構だ』と言うことをおっしゃっています。心配するほどではないみたいですよ」
あかねがあわてふためいているのを見て、鷹通はそう通訳した。
「でも、先生を放っておくわけにはいきませんし…だからと言って、博士のお相手もありますし、先生の代わりに少しはコミュニケーションを図っておかなくてはなりませんから…。すみませんが、先生の方は元宮さんにお願いしても、よろしいですか?」
「え?あたし…ですか?」
確かにあかねは学会には無関係だし、逆にこんな場違いなところに居座って、ドイツ語や英語やフランス語などの異文化交流を余儀なくされるくらいなら…理由を付けて逃げた方が身のためだ。
「わ、わかりました。じゃあ私は先に失礼します」
目にも珍しいオードブルのテーブルには、少し後ろ髪が引かれるけれど…あかねはさっさとホールの出口に向かって足早に駆けていった。


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さて、喧噪から逃げ出せて少しホッとはしたが、問題の泰明はどこに行ったのだろう?
どこかに出掛けた…なんてことはなさそうだし。となれば、行くところなんて自分の部屋に戻るくらいのものか。
突き当たりにある、泰明の部屋の前に立つ。そして、ノックをしたあと声をかけてみた。
「泰明さん?帰ってますか?」
これを二回ほど繰り返したのだが、中から反応が返ってくることはなかった。
耳を澄ましてみたけれど、物音さえ聞こえてこない。
眠ってしまっただろうか?することもないだろうし……。中からロックされているから、勝手に入ることもできないし。
部屋に帰って、電話でもしてみようか。いくらなんでも、そうすれば気付くだろうし。

あかねは手前の自室に戻り、すぐにテレフォンガイドに習って泰明の部屋番号を押してみる。
呼び出し音が5回…6回………そして7回…8回…。9回目の呼び出しの途中で、受話器を置いた。
「寝ちゃったのかなあ…。お風呂だったら、確かバスルームにも電話付いてたもん、音が鳴ったら分かるよねえ…」
ナイトテーブルの上で、ランプはセピア色の明かりを灯し続けている。ローズウッドのアンティーク調インテリアが、ぼんやりと照らされて飴色に輝く。
どうしようか。泰明と連絡が出来ないとなると、あかねの役目は特にない。
あんな場違いのホールにいるよりは、まだ一人でいる方が気楽ではあるけれども、話し相手がいないのもつまらない。
それとも、自分もさっさシャワーでも浴びて、早いうちに眠ってしまった方が良いだろうか。
「テレビでも見ようかなあ」
リモコンは、ドレッサー兼用のライティングデスクの上だ。あかねはベッドから立ち上がり、そこに向かって歩いていった。
そろそろカーテンを閉めよう。戸締まりだけは確認しておかないと。

窓に近づく。鍵を下ろそうと手を掛けた時、外に広がっている薄暗い林の中に、かすかに動く陰が見えた。
動物でもいるんだろうか。いや、それにしては大きさが結構あるような………。
静かに窓を開けてみると、夏草の香りが夜風に乗って部屋に漂った。

周囲に民家や店舗などがないので、外に漏れる明かりはこの施設の中にある明かりだ。
外灯もそれほど多くなく、闇を完全に消すことが出来ない。その中で、白っぽいものが浮き上がって見える。
あかねは目を凝らしてみた。じっと、その物体を見つめていると、時折ゆるく動く。見覚えのあるような動き。
「……や、泰明…さんっ!?」
慌ててあかねは、戸締まりをしようとした窓を更に勢いよく開けた。
外に向かって思い切り乗り出す。そこにいる泰明に気付いてもらえるように。

そして、もう一度大きく名前を呼んだ。
「泰明さん!何してるんですか!そんなところで!」


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Megumi,Ka

suga