風の引力

 第1話
『軽井沢』と言って、何を連想するかと言われたら………
"避暑地"、"別荘"、つまりまあ、お金持ちが集まる場所……という発想自体が、自分は庶民なんだなあと自覚する。

夏休みに軽井沢、なんて縁のない世界だと思っていたのに、まさかこんな日がやって来るとは。
行ったこともないはじめての場所。あれこれとガイドブックやら何やら、観光の場所はどんなところがあるのか、など。
いろいろ探ってみたりはしたけれど、考えてみれば学会の集まりに連行されるのだから、そんな余裕なんてないかもしれないと思ったら気が抜けた。
でも、それでもはじめての軽井沢。気分はドキドキ高揚している。

「元宮さんは軽井沢、初めてなんでしょう?」
後部座席で車窓の流れを見ているあかねに、ハンドルを握る鷹通が声を掛けた。
「あ、そうです!うちなんかはもう、単なる一般家庭ですから!”軽井沢で避暑!”なんて別世界の過ごし方ですから!」
進んで行くうちに外の景色は、いっそう緑が濃くなって行く。
山道の風景は、泰明の研究所とさほど変わらないけれど、ぽつんぽつんと見え隠れする洒落たカフェや、ログハウスのような造りの家などが、いつも見慣れた
景色とは違うことを気付かせてくれる。
「2日しかいられないですけれど、夏の軽井沢は結構賑やかですよ。夏場だけしか空いていないお店もありますしね。レンタサイクルで散歩するのも気持ちが良いですよ。」
「へえ……」
慣れた口調で説明する鷹通は、やはり軽井沢など何度も来ている馴染みの場所なのだろう。
社長子息ならば当然とも言えるが、それが嫌みにならないのが彼の良さでもある。

いつのまにか、車は軽井沢の中心へと進んでいた。
時折通り過ぎる、ガイドブックによく載っている場所を見つけては、鷹通が簡単な解説をしてくれた。
その間、助手席の泰明はというと全く無言。覗いてみると目を閉じていて、眠っているらしい。

窓を開けると、夏草の香りが鼻をくすぐった。


+++++

随分と奥深くにやって来た気がした。
周囲は林というか、果てしなく森に近い木々に覆われていて、そこには大きな木造の建物が建っていた。
ログハウスのようにカントリーな雰囲気ではなく、横に広いロッジのような施設だ。
そこに、圧倒されるほどの外車が停まっている。そして、玄関ホールで話しているのは日本人だけではなかった。
馴染みの無い、ネガティブな外国語がとびかっていて、思わずひるんだ。
「元宮さん、申し訳有りませんが、後ろにある先生の書類ケースを持って下さいませんか?」
「は、はい!」
ファイルが数冊入った黒のブリーフケースを、あかねは手にとって車を降りた。
先に外に出ていた泰明は、寝起き直後だというのに全く表情は緩んでいない。一体、どんな風に熟睡していたんだろうか。

宿泊施設も兼ねているので、必然的にエントランスホールにはチェックインフロントがある。
代表で手続きをするのは、鷹通の仕事だ。あかねはその間、ぼーっと異空間にも似た部屋の景色に目を奪われている。泰明は、相変わらずぼんやりとしていて無表情だ。
「良かったです。同じフロアにお部屋を用意してもらえたようです」
今時珍しいアンティークタイプの鍵を、個々に手渡された。ルームナンバーが、刻印されている。
365号室。そのあとに鷹通と泰明の部屋が続く。367号の泰明の部屋だけは、ウッドテラス付きの大きな窓がある部屋のようだ。
「それでは、取り敢えず部屋で荷物を片付けてしまいましょうか。これからの予定は、そのあとで改めてお話致しましょう。」
鷹通は、あかねの隣の部屋だった。一つ挟んで、泰明が自分の部屋に消えた。

部屋の中は洗練されたシティホテル、という内装だった。
それでもシングルにしては広めで、バスルームものびのびと足を伸ばせるくらいの大きさのバスタブがある。
窓は一つだけだが、大きいので明るさは丁度良い。磨かれたガラス窓の向こうに、緑の葉が生い茂った林の景色が一枚の絵のように見えた。
「はあ、何か別世界だなあー」
そう本音をつぶやいてから、あかねは鷹通に言われて持参したワンピースを取り出し、クローゼットの中のハンガーにかけた。
いざというときにフォーマルなものを一着、と言われたから、あかねにとって一張羅と言えるものを持って来た。

…いざというときと言われてもなあ…。
海外からの客人が揃った席で、どうすればいいのか。
取り敢えず、鷹通のそばを離れないように。それだけはしっかりなくては。

+++++

案の定、そのワンピースを使用する機会は、とてつもなく早く訪れた。
「そういうわけで、今夜は懇親会を兼ねた立食晩餐会となりますので、お時間には遅れないようにホールへ集まるようにとのことです。」
聞いた事はあるけれど、どういうものか実感がない言葉が出て来た。『晩餐会』って……!。
「単なる夕食ですよ。立食ですから、それほど気の張るものではありませんから、気楽にしていて平気ですよ」
そうは言っても!そりゃ鷹通はパーティーなんか慣れているだろうけど、あかねとしては緊張が増して来る。
卒業パーティー、新入生の歓迎会なんてことで、こういうことは体験したとは言えど、今回はギャラリーがあまりに違いすぎる。
話しかけられたら、どう答えれば良いんだろう?
ええと、英語が喋れないって…I can't speak English…だったっけ?もっとゆっくり話してください、は…えーとえーと。
しまった。ガイドブックは持って来たのに、英会話についての本は持って来なかった☆
まさか、こんなところで利用する機会があるとは、思ってもみなかったから。

軽井沢は夜になると、8月でも少し肌寒くなる。レース編みのカーディガンを持参したのは、正解だったとあかねは思いながら、隣の部屋のドアをノックした。
鷹通の声が聞こえて、内側のロックが解除されると同時にドアが開く。
「うわ!」
あかねの本音が声に出た。
黒の上下スーツに、ロイヤルブルーのネクタイ姿の鷹通は、あきらかにフォーマルと言える装いだ。
しわ一つないしっかり仕立てられたジャケットの下で、かちっとした真っ白のワイシャツも全く暑苦しく見えない。
そして、何より驚いたのが、部屋の奥にいた泰明の姿だ。
いつもはかなり年季の入った、しわだらけの白衣をひっかけているのに、今日は見た事も無いスーツでそこにいるのだから。
「泰明さんて…スーツ持ってたんですか……」
客観的に聞くと、結構失礼な言葉を吐いたとあかね自身も思ったが、何せ泰明であるからそれほど深く考えることもなく、本心が言える。
その隣で、鷹通が笑った。
「いや、実は直前に急いで購入したんですよ。あまりこういった場所に出席されないので、以前のスーツを出してみたら虫が食っていましてね」
…やっぱり、そういうのを聞くと、泰明だなと思う。
研究以外には何一つ関心がなく、意識から排除していると言っても過言じゃない。
チャコールグレーの2ボタン。でも、何か…結構似合う気がする。

だが、それにしても………。
「はぁ〜……私、自信無いです、こんなの……」
二人の姿を見れば見る程、ライティングデスクのミラーに映る自分を見て溜め息が出る。
「鷹通さんも泰明さんも、ばしっと決めちゃってて…。私、これでも一張羅なのに、全然決まってないじゃないですかあ」
履き慣れないエナメルのハイヒールも履いた。髪の毛を少しだけまとめて、ちょっとしたヘアアクセでまとめてみた。
イヤリングもネックレスも、母に頼んでパールのものを借りて来た。なのに、どうも……。

「いいえ、そんなことはないですよ。可愛らしいドレスだと思いますが。」
鷹通は褒めてくれたけれど、晩餐会なんて言うから女性はみんなエレガントで、肩を出したロングドレスなんか着ちゃって、カクテルなんかを手にして、アクセサリーなんかきらきらさせちゃって。
そんなところに乗り込む勇気は、このカッコでは踏ん切りが付かない。


「時間だ。藤原、行くぞ」

そういえば、今日初めて泰明の声を聞いた。
いつもと全く変わりなかった。
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Megumi,Ka

suga