歩き出した夏

 第2話
1階奥にある倉庫へと薬品を移動させたあと、二人は泰明のいる部屋へと戻っていった。
丁度良い空調の中で差し出された冷たいアイスティーは、喉を潤すだけではなく気持ちまでも潤わせてくれる。
「外は36度くらいになっていますよ。今年も猛暑になりそうですね」
「ええーっ?昨日よりも暑くなってるんですか!?そんな、毎日少しずつ暑くなったら、もう干からびちゃいますよ!!」
鷹通から外部の気温を聞いて、思わずあかねは声を上げた。日を追うごとに最高気温は上がってゆく。そして真夏がやってくる。
それにしても36度……。世間では『クールビズ』というものが流行っているようだが、気温が上がりっぱなしでは28度の設定温度に耐えられなくなりそうで怖い。

「……外はそれほど暑いのか?」
他人事のような、飄々とした声が聞こえる。
「あ、暑いですよ!だって36度ですよ?体温と殆ど変わらないんですよー!?下手したら、体温超えるかもしれないんですよ?暑いに決まってるじゃないですか!」
「私は気にならない」
あっさりと何でもないような顔をして、そう答える泰明をぽかんとしてあかねたちは見た。
そういえば裏庭の水やりから帰ってきた時だって、さほど汗をかいているようには見えなかった。あれだけの外部温度から室内の28度に入ってくれば、すうっと涼しさを感じて心地良さげな表情をしてもいいものだが、平然としていつもと変わらなかった。
「泰明さんて、暑いとか寒いとか感じないんですかー?」
「暑い。寒い。それ以外に考えることもないだろう」
相変わらず、泰明らしいといえばらしい。言葉の意味を率直に理解する以外は、どうも感情の微妙な表現力に欠ける。
最初はそんな彼の態度になじめなかったけれど、今となってはそれも個性に見えてくるから不思議だ。


「そういえば、先生。先程郵便受けに封書が届いていました。」
アイスティーを一杯飲み干した鷹通が、思い出したようにデイバッグのポケットに差し込んであった封筒を取り出した。
もちろん、宛名は泰明に対してのものだ。アイボリーの、上品な紙で作られた封筒である。
しかし、ちらっとそれを目にした泰明は、差し出されている封筒を受け取ろうとはしなかった。更に、それから目を反らすように背を向けた。
「目を通す必要はない。処分しておけ。」
「しかし…今回の学会は、確か先生の恩師の教授がフィンランドからいらっしゃると伺ったのですが…」
フィンランド?
あまり頻繁に聞くことのない国名だが、北欧という印象だけはあかねにもすぐ分かった。
「構うことはない。既にそれはメールで連絡を受けている。避けられない急用があるのなら、再度連絡をしてくるだろうが、それもないのだから参加することもないだろう」
「ですが……」
鷹通がテーブルの上に置いた封筒を、こっそりあかねは手に取ってみた。小難しそうな学会名が、紺色のインクで印字されている。封筒の表には、赤い字で「招待状同封」と書かれていた。

「泰明さんの恩師って…向こうの方なんですか?」
何気なしに聞いたつもりだったが、そう尋ねたとたんに泰明と鷹通が同時に振り向いた。
「ええ、先生は向こうの大学で博士号を取られたのです。フィンランド科学アカデミーの………」
あかねが知りたいと思っていたことを、鷹通はゆっくりと丁寧に話し始めてくれたのだが、その途中できっぱりとした声が会話を切り落とした。
「余計なことは言わなくていい。私が構わないと言っているのだから、他人があれこれと言う必要などない。」
そう言われてしまっては、続きをここで言うことは無理なようだ。もっとその先を聞きたかったのだが、鷹通が苦笑いをしたので、あかねは深く突っ込むことをやめた。

……フィンランドの大学で、博士号取得。全くあかねの価値観では、理解できないようなスケールの話だ。
さほど自分たちと年齢が変わらないということで、これまで数多くスキップ進学をしたことは明らかである。それに加えて、既に植物学博士としての地位を確立しているという実力。
そんな人生を送ってきたのなら、こうも変わり者に育っても仕方ないことかもしれないな…などと、失礼なことをあかねは考えてしまった。
しかし、だからと言ってやはり礼儀というものは、最小限必要なものである。
「でも泰明さん…やっぱり挨拶くらいはした方が良いと思いますよ〜?」
それまで背を向けていた泰明が、ぴくっとしてあかねの方を振り返った。
「だって、いつも会えるわけじゃないでしょ?なかなかこっちに来る機会だってないだろうし。次はいつ会えるか分からないんだから、顔を見せるくらいしても良いんじゃないかなーとい思うんですけどー……?」
言ってみたのは良いのだが、泰明の態度は相も変わらずだ。黙って腕を組んだまま、目を伏せて何も言おうとしない。
そう簡単に、泰明が「YES」と言うわけがないか…とあかねが思っていると、鷹通がはっとしてとっさに何かを思いついたらしい。
「じゃあ先生、元宮さんとご一緒に行かれてはどうです?」
「えっ!?」
何を言い出すのかと思ったら。あまりにも予想しないことを口にした。
「私が一緒にっ!?そ、そんなの無理ですよ!だって、だって私何も助手らしいことなんて出来ないし、着いていったって何も意味ないし………」
「それなら、おまえが同行してくれた方が問題ない。あかねでは無理だ」
一瞬、こめかみが歪んだ。そりゃ確かにそうなのだけれど、面と向かって泰明本人から言われるとなると、何だかちょっとおもしろくない。
「いえ、私は構いませんが……元宮さんがいらした方が、先生も落ち着かれるのではないかと思いまして……」
ちょろっと、泰明の視線があかねに向けられた。品定めをしているような目。そして、どこか冷めたような視線。
明らかに『役不足だ』と言われているような無言の時間。

「いいですよっ!!。別に私なんて何も出来ないですしっ。お留守の間、ここの草むしりとか水やりとか、やってますから行ってきてくださいっ!」
どうも不機嫌が顔に出てしまって、吐き捨てるようにそう言ってしまった。
所詮、学会なんてところにあかねみたいな新大学生が参加しても無意味。植物学を学ぶ学部の生徒でもないし、泰明の研究所に来て何をしているかと言えば…雑草取りとか水やり程度。
数百種の植物の名前なんて、全然知らないし違いもよく分からない。
こんなんじゃ、足手まといでしょうよ、どうせ!
あかねは何も言わずに、空になったグラスを洗い始めた。思わず力が入って、ガラスの擦れ合う音が強く響いてしまった。


■■■

家に帰ってから、あかねは新聞の折り込み広告をじっと読んでいた。食事の途中だと言うのに、アルバイトの求人広告を一つも漏らさずにチェックしている。
「食べながら広告読むのはやめなさいよ。そういうところはお父さんに似てるんだから、困るわねえ」
母の小言も耳に入らない。夏休みはもう目の前のなのだから、アルバイトを始めようとしても、もう求人先は残り少ない。少しでも待遇の良いところを選ぼうと必死なのだ。
「あーあ、もっと早くバイト探しやってたら良かったなあ…」
ぼやきながらハシを動かしていると、どこからともなく軽やかなメロディーが聞こえてきた。
「携帯鳴ってるんじゃないの?さっきリビングに置きっぱなしになってたけど」
慌ててあかねは広告とハシをおいて、隣の部屋に走っていった。

鳴り続けている携帯を取り上げて、おもむろに液晶画面を見た。
…………泰明からの電話だ。一体何の用事だと言うんだろう。
「もしもし。」
「夜分遅く失礼する」
マニュアルで決められたような、挨拶文を読むような感情の変化が少ない声だ。
「何かご用ですかっ?忘れ物でもしました?」
自然に声がとげとげしくなってしまっている。大人げないことだと思うのだが、昼間のやりとりがどうもカンに障って未だにすっきりしない。
だが、相手が泰明だから。さほど彼には嫌みに聞こえることは…多分ないと思う。

「昼間の話の続きだ。おまえは、8月は用事があるのか?」
わざわざ電話をしてきて、何を言うかと思ったら…スケジュールの話か?おおよそ、泰明たちが向こうに出かける間の植物の世話とかを、押しつけるつもりでの連絡だろう…と思っていた。
「別に、何もこれと言ってはないですけどー…。だから、お留守の間は植物の世話してますから良いですよ。」
どうせ自分には、それくらいのことしか出来ないのだし。バイトもそう簡単には見つかりそうにないだろうから、暇つぶしには丁度良いと思えば良い。いささかむなしさはあるが。
だが、次の瞬間に泰明が言った言葉に、あかねは頭の中が真っ白になった。
「用事がないなら、おまえも一緒に来い」
「は?」
一瞬、耳を疑った。
「2泊3日、軽井沢だ。藤原が車を出すので、おまえも同行すると良い。」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!だってさっき…私が行っても意味がないって言ったじゃないですか!」
唐突に電話の向こうの泰明から告げられた言葉に、あかねは慌てずにいられなかった。
植物学の権威が集まる国際的な学会に、ど素人と言ってもいいほどのあかねが着いていって意味があるわけがない。例え同行したとしても、彼の手を煩わせることくらいしかない。
さっき、同じことを泰明から言われてひねくれたけれど、反論の余地のないもっともな意見だったから、なおさら不機嫌になっただけ。
自覚くらい、十分出来ていた。それなのに、今になっていきなり、そんなことを言い出されるなんて。

「……学会に参加する必要はない。だからと言って、おまえが来なくても良いとは言っていない。学会に関することについては藤原に手を貸してもらうしかないが、それ以外は自由に過ごしていても文句は言わない。」
?彼の言葉の意味が、どうも理解できない。ならば、どうしてあかねが行かなくてはならないのか?
「来たくなければ無理強いするつもりはない。」
と、言ったとたんに泰明の電話が切れてしまいそうな気がした。
「ま、待ってくださいっ!!行きますっ!!」
とっさに、そう答えてしまった。後先のことも考えずに、ただ勢いで答えてしまった。
「8月5日から2泊3日。後日藤原から詳しい連絡が行くだろう。支度だけは忘れぬようにしておけ。」
「あ、あーっ!」
もっと聞きたいことはあったのに、あっさりと泰明からの電話はそこでぷつりと切れた。
ツーツー…と、電子音だけが素っ気なく受話器から聞こえている。

携帯を持ったままで、ぼんやりあかねは立ちつくしていた。目の前の壁にかけられている、カレンダーの日付をじっと見る。
「何をぼーっとしてるのよ?さっさとご飯食べてくれないと、後片づけできないでしょう?」
電話が終わってもダイニングに戻ってこないあかねに、しびれを切らした母がやってきて背中を叩いた。が、それでもどこか放心状態は抜け切れていない。
いきなり、8月の予定が立ってしまった。軽井沢への2泊3日。
聞こえは良いが…その旅行の意味が分からないから困るのだ。自由に過ごしていて構わないと言っても、学会の開催されている中で気ままに出歩きなど出来るだろうか。
その間に、誰かから植物学の質問なんてされたら、一体どう答えれば………。

「あかね!食べないなら片づけちゃうわよ!」
「あ、ちょっと待って!待ってってば!食べるってばー!」
携帯を畳んで、くるりとあかねは背を向けた。

まあ、いいや。これ以上考えてみても、今は何も分かることはないだろう。
当日までにはきっと、旅行の意味が少しは分かると思う。

何はともあれ、夏休み。数日間だけれど、それなりに楽しい日々が過ごせればいいのだが。




-----THE END-----


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Megumi,Ka

suga