歩き出した夏

 第1話
昼下がりのキャンパス。初夏の風が青空の中から、木漏れ日をすり抜けて流れてくるような日だった。
なのに、生協のオープンカフェにいる二人は言葉もないまま、ぐったりとうなだれていた。オーダーしたアイスコーヒーもジンジャーエールも、既に氷が溶け出していて薄まっているのにも気付かない。
肩を落とし、テーブルの上にひれ伏し、完全に気力を消耗している。
「………ダメだ……」
はぁ、と大きくため息をついて天真がつぶやいた。そのあとすぐにあかねは、両手で自分の頭を抱えた。
「ヤマ…外れた………」
そうあかねが言うと、天真がもう一度ため息をついた。

周囲を見渡してみると、同じような光景は何も二人だけではなかった。むしろ、表情の明るい生徒の方が数少ない。
7月。長い夏休みを目前として、どんよりした空気が生徒内に流れ込む季節。中学・高校と同じようなことを繰り返してきたが、この期末考査が終わったあとはいつも気分が冴えない。
ましてや必死に勉学に集中したとしても、ヤマが少しでもズレたら努力の意味もなくなる。
「あー……大学に入って、夏休みが今までよりずっと長いと思ったけどよー。こういう苦しみは変わらねーなぁ…」
大学とは言え、結局学生であることは変わりない。社会に出るよりも勉学する時間を選んだリスクだと思えば、仕方がないとは思っているのだが愚痴りたくもなる。

しかし、季節はもう暖かさから汗ばむ季節へと変わってきている。

「そういえば天真くん、夏休みどうするの?どこか出かけるとか用事あるの?」
ストローを動かしても、グラスの中で氷が触れ合う涼しげな音はもう聞こえない。
「俺?俺はまあ、ちょいとリゾート気分でバイト三昧って感じかな。A高原の別荘地でバイトすんの。9月の始業式までの2ヶ月間みっちり稼いでくるぜ」
「そっかバイトかー…」
高校の時よりもずっと大学の夏休みは長い。これまではせいぜい一ヶ月のバイトしか出来なかったけれど、天真のようにめいっぱい2ヶ月バイトに明け暮れることも出来るのだ。
だからと言って、もう7月。夏休みはもうすぐだ。今からバイトを紹介してもらおうと思っても、割の良いものなんて残っていないだろう。
しかし、何も予定なく2ヶ月を過ごすのは退屈。だが旅行なんて行こうと思えば、先立つものに不安がある。
白紙のままの夏休みは、もうすぐだ。


■■■


明け方にうっすらと小雨が降り注いだようだ。鮮やかな山の緑の先に、無数の水滴が日差しを反射して輝いていた。
だからと言って、今の季節に水やりを怠ることは出来ない。少しだけ葉を濡らす程度では、植物にとっての水分は賄えない。
蛇口に繋いだホースから、勢いよく冷たいシャワーが吹き出してくる。太陽の光の下で小さな虹を作りながら、生い茂る緑は潤いを帯びて更に息づき始める。

今年一番の最高気温を記録した、とニュースで聞いたのは数日前だった。ここ一週間ほどの天気予報では、雨らしきものが降るという情報はなかったけれど、予報はあくまで予報である。完璧な確率があるわけじゃない。
今日も暑くなるだろう、と今朝の天気予報でも言っていた。
もうすぐ午後2時をすぎる。現在の気温は、どれくらいに上がっているのだろう?
そんなことを考えながらホースを動かしていると、裏庭のフェンス越しに取り付けられているインターホンのスピーカーが鳴り出した。
『こんにちはー!元宮ですけどー、いらっしゃいますかー?』
泰明はスピーカーマイクのボタンをONにした。
「裏庭にいる。水やりの最中だ。玄関のロックを外しておくから、中に入ったら内側からロックをしておけ」
『はーい、分かりましたー』
機械を通じての会話は、たったそれだけで終了した。

彼女がここに来るようになって、もう一ヶ月くらいになるだろうか。週末の午後にやってきては、水やりや雑草除去などの雑用を手伝ってゆく。別に頼んだわけでもないのだが、自らそうやって動く彼女に文句などもない。
来る前には連絡をする、と最初に言ったわりには、もうそんな連絡もなく毎週こうしてやってくる。それが、既に最初から決まったスケジュールであったかのようにだ。

それから十分ほど過ぎて、ようやく手作業の水やりは終了した。ビニールハウスの中は、すべて専用のスプリンクラーが設定してあるために手入れは不要だ。
蛇口の栓を止めると、泰明は空調のきいた屋内に戻っていった。


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「お疲れさまですー。外、暑かったでしょう?」
部屋に入ったとたんに、琥珀色の液体を入れたガラスポットを手にしたあかねが出迎えた。
テーブルの上には、こんもりと氷が山盛りになったグラスが二つ。その上からゆっくりと、液体が注がれていく。
「出来たてのアイスティーですよー。暑い日にはこういうのが美味しいですよね」
彼女から差し出されたグラスを手に取ると、ひんやり冷たい感触が伝わってきた。
「今日の最高気温、35度だって言ってましたよ。まだ7月なのにこんな気温じゃ、8月がどんなことになるか…想像しただけでもくらくらしちゃいますね」
素っ気ない無機質なパイプ椅子を広げて、あかねは窓際に腰を下ろした。
炎天下と言って良いほどの晴天だ。こんな日に窓際に座るなんて、まぶしいし紫外線は強いし、そして暑いし…という三重苦が普通なのだが、この研究所がある山奥になると状況は一変する。
ブラインドを落とさなくとも、窓からまぶしい光りが差し込むことはない。ガラスの向こうには生い茂る山の緑。夏の木々が丁度良く暑さと日差しを遮る。
町中にいるときよりも、体感温度はぐっと低くなった。勿論、バス停からここまで上ってくる途中で、何度も汗をぬぐって小休止はしたけれど。

グラスの中で、氷が溶けて消えてゆく。濃いめに入れた紅茶が、やっと飲みやすくなってきた頃、泰明の腕時計のアラームが鳴った。
「スプリンクラーを、OFFにしろ」
「え?あ、はい!」
あかねのすぐ後ろに、ビニールハウス内のスプリンクラーの操作ボタンがある。慌ててグラスを置くと、赤く点灯しているボタンを止めた。
どこかで、モーターのような機械音が止んだ気がした。
「いっそビニールハウスだけじゃなくて、外にもスプリンクラーを付けたら良いのに。そうすれば、暑い日でも外に出なくて良いじゃないですかー?」
これからどんどん気温が上がるし、日も陰るまで時間がかかる。全て機械制御にすれば楽だろうとあかねは思うのだが、泰明には泰明の方針というものがあるらしい。
「植物は種類によって、それぞれ水の吸収方法が違う。すべてがスプリンクラーで賄えるものじゃない。」
表情を変えることもなく、そう答える。
「全体に水をかけるものもあれば、葉を濡らさずに根元に水をやるものもある。単純な水やり方法を間違えたら、効率的な育成も無駄になるだけだ。」
「はあ…そういうものなんですか」
泰明はそう答えると、また黙ってアイスティーを口にした。

"人間に対しても、それくらい向かい合うと良いのに…"

黙ってあかねは胸の中でつぶやいた。

何度もここにやって来ているけれど、来客を見たことがない。時々、助手として手伝いに来る鷹通と鉢合わせることがあるくらいで、その他の人間をここで見たことはなかった。
電話がかかってくることもない。いつもFAXかメールで連絡事項が送られてくるだけ。泰明からのアクションは殆どなく、出来上がったデータを書類にまとめて、返信ボタンを押して終了。
人との対話を取り入れない。『自分の言葉を理解する者などいない』と、他人とのコミュニケーションをはね除ける。
彼は何とも思っていないようだが、やはりそれは…あまり芳しいことではないとあかねは思う。


-------------ポーン。

軽やかな電子音が所内に響く。正面玄関のインターホンの音だ。もちろんそれは、来客が来たという合図である。
ただし、目新しい顔というわけではない。
『遅くなりましてすみません。藤原です。』
モニタに映し出された鷹通は、両手にそれぞれ二つほどの袋を抱えている。
『頼まれましたマネージ水和剤は入手出来たのですが、もう一つのスコア水和剤の在庫がいつもの店にはありませんでしたので、遠回りしてしまいました。』
泰明が玄関のロックを解除した。



「鷹通さん、お疲れさまです!荷物運ぶのお手伝いします!」
急いであかねが階段を下りてくると、丁度袋を床に下ろしてデイバッグの中から領収書を取り出している鷹通に間に合った。
「ああ、先にいらしていたんですね。用事がなければ車で迎えに伺えたんですが…暑い中、ここまで歩いてくるのは大変だったでしょう?」
「いいえ鷹通さんの方こそ!あちこち買い物に歩いて疲れたんじゃないですか?アイスティー冷えていますから、片づけたら一息ついて下さいね」
あかねが袋を取り上げると、彼は優しくその言葉を受け取って微笑んだ。




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Megumi,Ka

suga