風のない春の午後

 第3話
「全く、相変わらずなんですねえ。全然料理も何もしてないじゃないですか★」
あかねは調理室で呆れながらそう言うと、貯蔵されてある食材をかき集めた。泰明はいつものように、あかねがばたばたと動きながら調理している姿を、窓際に腰掛けてぼんやりと見ている。
「少しくらい料理してくださいよ!だったらお手伝いさんを呼ぶとか……」
野菜を切りながら愚痴っぽく言ったが、この辺鄙なところに通う家政婦など皆無に等しいだろう。しかもこんな偏屈な主人では先が思いやられそうだ。
「泰明さんは植物に対してはあれこれ細かく世話してあげるのに、自分の世話は全然出来ないんですねえ」
「どういう意味だ、それは」
あかねの言葉に反応して、泰明が顔を上げた。
「だってそうじゃないですか。植物には出来るだけ自然に成長出来るようにって、手作業でちゃんと世話してあげたりしてるくせに、自分の栄養とかに関しては人工的なものばっかりに頼ってて。そういう人工的なものばかりに頼るのはダメだって…そう言ったの泰明さんでしょう?」
その発言に、泰明は少し唖然とした。あかねが自分の説明したことをしっかりと記憶していたことに加え、それらが納得せざるを得ない意味を含んでいたからだった。

「まずいのだろうか…今の状態では」

つぶやきにもひとりごとにも似た声を、泰明が口にした。あかねが彼に視線を向けると、いつもの無表情な雰囲気がどこか異変を起こしているような気がする。どこ、とはっきりは言えないのだが、何かが違っている。
「まずいっていうかー……その方が良いって思うんですけど。なんか…泰明さんて、私達が普通にやってる日常的なこととかに無縁な気がするから、それも…ねぇ…」
「ならば、おまえは日常の中でどんな行動をするのだ?普通とは、どんなことをすることを言うのだ?」
「どんなことって………」
あかねはいつもの自分の行動を、ふと思い出そうとした。

毎日大学に通い講義を受けて、昼は天真や友達と学食で他愛もない会話でじゃれ合って、時々帰り道でウインドウショッピングしたり……あかねの日常の『普通の生活』というのは、こんな感じだろうか。
「それはおまえにとって、必要不可欠な行動なのか?」
自分とは全く違う生活を送っているあかねに、泰明は疑問を投げかけた。
「不可欠……なのかなぁ…。でも、そういう風に過ごすのが楽しいし…実際」
「楽しい……のか」
コンロにかけた鍋から舞い上がる湯気が、水滴になって窓ガラスを曇らせる。
「泰明さんて、どこか出かけたりしないんですか?」
「滅多にない。食料は電話かFAXで毎月注文したものを宅配してもらう。日用品についても同様だ。それで十分事足りる。」
ならば、あの時…初めて泰明と出会った日は、どうしてあそこに彼はいたのだろう。
「研究用の苗と植木を購入するために出かけただけだ。こればかりは…自分の目と手で触れてみないと選べないものだからな」
ガラス玉というよりも、冷たい氷で出来たような泰明の瞳と手のひらが触れて、気が通じ合ったものだけが彼の元に運ばれてくる。同じような苗でも、例え発育が良く芽の伸びたものであっても、泰明が目を止めなくてはここにやってこない。
「植物に触れてるの、楽しいですか?」
あかねは、そう尋ねた。
「……分からない。だが……緑に囲まれていると心が落ち着く。」
「人と会ったり話したり…ではダメですか?」
「会話は嫌いだ。私の考えを殆どの人間は理解してはくれない。そんな者たちと相手することに落ち着きなど見いだせないだろう。人と会うこともわずらわしい。」
「まあ……言葉って難しいですからねえ……」
同じ言葉を口にしても、その口調で全くイメージも変わってくる。それをとらえる相手の価値観も少なからず左右してくるであろうから、こちらの思っていたことが他人に完全に伝わるのは難しいのは間違いない。
「じゃ、ここに来ている助手の人とか、鷹通さんとか……は、わずらわしい人じゃないんですね。」
「……仕事だからな。」
「でも、仕事の助手として泰明さんが認めた人なんでしょ。だからここに来ても、文句を言わないんでしょ?」
「……分からない」
泰明は、首を横に軽く振った。


■■■


棚から紅茶と緑茶の缶を見つけて、どちらにするかと泰明に尋ねたら、何も言わずに緑茶の缶を差したのでポットに茶葉を入れることにした。
湯飲みなどという風流なものがここにあるはずもないので、少し雰囲気は違うがカップに渋めの緑茶を注いで窓辺の泰明に手渡した。

言葉や会話がなかった。
ケトルが蒸気を噴きだしている音が、わずかに部屋の中に流れている。あかねは来客用のカップに緑茶を入れたまま、泰明の隣に腰を下ろしていた。
ぐるりと改めて部屋の中を見てみると、こんな調理室でさえ生活感が一切ない。それだから他の部屋はそれ以上に閑散として事務的だ。
それなのに窓の下に広がるのは、生き生きとした緑の森。泰明の求めているのは、どちらの世界なのだろう。

5分ほど、全く会話がない。泰明は隣で、無表情のままで緑茶を口にしている。
不思議なのは、この時間が何一つ圧迫感を感じないことだった。二人きりでいるのに、何も会話もないのに、それらに違和感を感じないのは何故なんだろう。
初めてここに来たとき、鷹通が部屋を出て二人取り残されたとき、あんなに緊張感や圧迫感があったはずなのに、今はそれがない。
黙って泰明がそこにいることや、何も会話を交わさずに泰明のとなりにいることを不自然に思えない。ほんの少しの出会いの時間で、こんなに変わってしまうものなのだろうか。

「泰明さん、そろそろ日が暮れてきたので帰ろうと思うんですけどー……」
そう切り出せたのは、目の前にある時計が午後5時近くなってきていたからだ。何せこの不便な交通事情を考えると、少し明るい時間にバス停に着かなくては山道は物騒だ。
窓辺から立ち上がると、それと同時に泰明も腰を上げた。そして思いもつかないことを口にした。
「バス停まで付き添ってやろう。夕暮れの山道は足下が薄暗く危険だからな」
泰明の表情はいつもと変わらなかったが、あかねの方はそうはいかなかった。呆然として一瞬放心状態になった。
まさか泰明が、そんなことを言い出すとは思ってもみなかったし、それに加えて誰か他人のために行動を起こすなど、あれだけ時間の浪費だと言っていたのに、それを自分から言い出すとは信じられなかった。
「何をぼんやりしている?時間がなくなるぞ」
「え?あ……は、はい…」
先を歩き出した泰明のあとを、慌ててあかねは着いていった。


■■■


天気が良かったせいで、山道から見える夕暮れは綺麗なオレンジ色をしていた。
とぼとぼと相変わらず言葉も交わさず、二人はふもとにあるバス停に向かって歩いていた。
その間、あかねはずっと考えていたことがある。

鷹通をはじめとする助手たちが、この研究所に出入りすることは自然なことだ。
なら、泰明は自分のことをどう思っているのだろう?
何の力量もない一人の新米女子大生である自分に、彼らと同一の価値があるとはお世辞にも思えない。それなのに、何故ここに呼んだのだろう。
山吹のせいだろうか。あの木々が呼んだからだろうか。それとも他に意味があるのだろうか………自分は泰明にとって、特別の立場にあるんだろうか。
そんなことを考えているとき、背を向けて歩いていた泰明がこちらを振り向いた。
「次に時間が空いているのは、いつだ?」
あかねは戸惑いを隠せないまま、スケジュールを思い浮かべる。
「え…っと……来週の日曜…は別に何も……」
「そうか」
泰明は再び背を向けて歩き出した。一体今の発言にはどんな意味が込められていたんだろう。
またここに来るように、と誘っていたの……だろうか?それっきり彼が何も言わなかったので、切り出すことが出来ないままにバス停にたどり着いた。

バスの時間まで10分ほどある。たった一つだけある自販機の薄暗い灯りが、二人の足下を照らしていた。
これから泰明はどうするんだろう。作っておいたリゾットを食べてくれるだろうか。そしてまた、研究に明け暮れる毎日の繰り返しなんだろうか。
「暇が出来たときは、またここに来ても構わない」
「え?」
「また、ここに来い。暇があれば、だが。」
……それは明らかに、彼が自分のことを誘ってくれているという言葉だった。ここに来ても構わない、という許容範囲の中に、自分が存在している証だった。
「……来るときは、前もって連絡します」
「分かった」
泰明は目を伏せて答えた。

自分がどういう意味で、ここに存在して良いと彼は認めてくれたのか、そこまでは分からない。
それはまた、次の機会に尋ねてみようかとあかねは思った。





-----THE END-----




***********

Megumi,Ka

suga