風のない春の午後

 第2話
研究所に一番近い停留所と言っても、そこから徒歩で15分近くはかかる。しかも山の中に入り込んだ坂道を登るので、ちょっとした登山をするような気分だ。
数分歩いていれば足腰も疲れてきて、額に汗がにじんできたりもする。だからと言って自販機やコンビニなんてものがあるはずもなく、単なる一休みくらいしかできない。
丁度半分くらい登り切ったところで、あかねは一休みすることにした。
「乗り物ばっかりで移動してて、最近あんまり長く歩いたりしてないもんね…。足腰弱ってきちゃってるんだなぁ」
もう一度立ち上がって、思い切り身体を伸ばして深呼吸をしてみた。そして、頭上にある木々に目をやる。
青々と生い茂った木の葉の隙間から、太陽の光が差し込んできている。うっすらと透けた葉のグリーンが、まぶしいほどみずみずしい。
「……何にもないけど………でも、良いよね、こういう風景って」

辺りをぐるりと見渡してみても、しんとした林が奥深く続いているだけ。土と、木々と、そして小動物や昆虫などの生き物たちしかない。
それがどれほど落ち着く空間を生み出しているか。こんなところを歩かなければ気付かないで居ただろう。
都会の文明の中にある自然は、あくまでも箱庭のような人手で作られた飾りもので、綺麗ではあっても息吹というものには縁遠い。
決して綺麗な環境ではないけれど、そのままの姿がそこにある意味を示す。
「さて…と、あと少しだぁ…がんばろ」
あかねは立ち上がって、更に上を目指した。


■■■


やっとのことで研究所にたどり着いて、インターホンを鳴らした。
「あのー…元宮です……」
少し息が荒くなっていた。頑張るだけの気力は溢れていたが、やはりあの坂を登りきるのは体力的にかなりしんどい。
『中に入れ』
無駄のない言葉がスピーカーから聞こえ、カチャリとドアのロックが解除された。そっと押すだけでドアが内側に開く。
『部屋に来い』
「…はーい………」
あかねはエントランスホールに足を踏み入れ、エレベーターへと向かった。
泰明が示す『部屋』というのは、三階の奥から二番目の部屋。手前から三番目の部屋のことだ。そこが泰明の研究室で、彼は殆どそこで過ごしていることを知っている。
白しかない壁やドアなどの続く研究所内でも、あまり迷わなくなった。
まだ3回しか訪れていないのに、4回目の今は足取りも軽やかに歩き回ることが出来る。

エレベーターが三階に到着して、ドアがサッと開いた。
そのとたん、目の前に人の気配を感じて顔を上げた。
「きゃああっ!」
思わず驚いて声を上げたが、そこにいるのが誰なのかくらいは分かる。むしろここにいる人間などは、彼以外にいるはずがない。
「何の騒ぎだ?」
「だ、だって泰明さんがそこにいるなんて思わなかったからっ!」
「私の研究所だ。どこにいようと不思議ではないだろう」
「そりゃそうですけどっ!びっくりしましたっ!何でそんなところにいるんですかっ!」
驚いた拍子に思わず放り投げてしまったバッグを取り上げて、あかねはエレベーターを降りようとしたとき、泰明が中に入ってきて『開』のボタンを押した。
「来い」
「はぁ?どこにですか…」
「黙って私のあとを着いてこい」
そう言ったとたん、泰明の手が伸びてあかねの手首をつかんだ。男性の手とは思えないほど白くしなやかに長い指先に、思わずどきっとする。
さほど力を入れられているわけじゃないのに、捕まれた手の感触に鼓動が鳴りだして、身動きが自由に取れなくなった。
あかねが戻ったエレベーターはドアが再び閉まり、階下へと下降していった。


1階のエントランスに戻ると、泰明は玄関を背に向けて奥の方へと向かっていった。その方向は、まだあかねも行ったことのないところで、突き当たりにはガラスの入った小さなドアがあった。一見、勝手口のようなものだろう。
そのドアを開けて、泰明は外へ出た。裏庭に続いているようだ。

研究所の裏には、うっそうとした森が奥深く続いている。森に囲まれた中にこの研究所は存在していた。
裏庭にはいくつかの小さなビニールハウスが点在していた。そして、地上には名前も知らない植木の数々が生い茂っている。
泰明は相変わらず無口で、歩いている間何も話さなかった。とぼとぼとあかねを先導するようにして前を歩いていた。そしてビニールハウスの裏側に回ると、そこでやっと足を止めた。
「あれ?」
泰明が何か言おうとする前に、あかねがその目の前に広がる情景を目にして声を上げた。
「……もしかして、山吹の花ですか?これ」
あかねが尋ねると、泰明はゆっくり木のそばに歩み寄った。
泰明の身長よりも30センチほど高い…おそらく2メートルくらいだろうか。周囲の森の深い緑の中に、いっそう鮮やかに華やかに山吹の花が咲き誇っている。
「二年前に植えた山吹がこの裏の方に一本あるが、そちらの花はすでに散ってしまっているが、これだけはまだ花が咲き続けている。それに、冬先に植えたばかりだが花の付きがかなり良好だ。」
冬先に植えたばかりの山吹。あかねの家の庭にも、同じように小さな山吹の枝を今年の冬に植えた。
「これって、あの時買った山吹ですか?」
「そうだ。」
ほんの一枝しかないあかねの山吹とは違って、本元の木はしっかりと既に地に根を張って安定感を増し、こんもりと黄色の花を咲き誇る。その姿形が雅やかで美しい。
「だから、おまえを呼んだ」
泰明が、ぽつりとそう言った。
「この花を見せるために…呼んだんですか?もしかして」
「そうだ」
あかねの頭の中が少しマーブル模様になる。桜が満開だとか、紅葉が美しく染まっているとかなら人を呼んで見せてやりたいという気もわからないでもないが、咲いているのは一本の山吹の木々。せいぜい大きくても2メートルくらいのもので、確かに花は綺麗だが、そこまで人に見せびらかしたいものでもないだろうに。
「…何で山吹の花が咲いていることで、私を呼ばなきゃいけないんですか?」
手のひらに乗るほどの大きさの花は、レモンのように明るい黄ではなく色濃く深みのある黄で、どこか目に優しい。
「私が呼んだのではない。…これがおまえを呼んだのだ」
泰明の指さした方向にあるのは、その山吹だった。
「……え?」
あかねは目を見張って、もう一度その花を見つめた。
「この山吹が既に時期を過ぎているのに花を散らさないのは、おまえに咲いている姿を見せたかったからだ。だからおまえをここに呼んだ。それだけのことだ。」
そう言った泰明の声は、静かだけれど妙に説得力がある。彼に触れられた花弁は、ほろりとこぼれそうに満開の如く大きく花開いている。
「おまえと同じ気がある、と以前言っただろう。おまえに会いたいと、花を見せてやりたいと私に語りかけている。だから私がおまえをここに呼んでやったのだ」

泰明とはじめて会ったとき。
そのとき、この木の一枝を渡された。自分と同じ気を持っているから、この木が気になるのだ、と。この木は自分に育ててもらいたいと思っている、と言った。そして、その一枝を手渡されて、あかねの庭に山吹は植えられた。
「……泰明さんて、山吹と会話でも出来るんですか?」
あかねがそう言うと、泰明は真面目な顔をしてこちらを見た。
「出来ないのか?おまえは」
「普通出来るはずないでしょー!」
そう言い返すと、今度は少し穏やかな口調で泰明が答える。
「そうでもないだろう。おまえがこの木を気になっていたことは、おまえがこの山吹の木の波長を感じ取ったことに違いない。それは、この木と意思が通じ合っている証拠だろうに」
泰明はそう言ってから、もう一度花を見つめた。

初めてこの時、泰明がとても優しいまなざしをしていることに気付いた。





***********

Megumi,Ka

suga