風のない春の午後

 第1話
うっすらと目を開けると、ガラス窓にしたたる水の雫が輝いているのを見つけた。
それらはゆっくりと上から下へ流れ落ちて行き、また違う場所から同じように雫がしたたり落ちる。
蒸気でぼんやりと曇ったガラスの内側。
雨が降っている。
そろそろ、梅雨の時期だった。

仮眠から目覚めた泰明は、時計の文字盤を見る。午後3時を過ぎていた。
確か横になったのが明け方だったと記憶している。珍しく熟睡してしまっていたようだ。
普段から熟睡するという日常性が、泰明にはない。仮眠というものを何度か続けて取っているうちに、必要な睡眠時間を得ているというのがいつものことだ。
ゆっくりと体をソファから起こし、寝返りのうちに顔にまとわりついた長い髪を、めんどうくさそうに振り払った。

立ち上がって外を見下ろす。丁度そこに、春先に植えた山吹の木が見えた。
もうそろそろ花も終わる頃なのに、まだあちこちに花開かないつぼみが確認出来る。
よほど気の長いタチなのか、それとも誰かに見せたいために咲き続けているのか。
雨に濡れているにも関わらず、花は太陽の色を映して咲いていた。


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「ずいぶん大きくなって来てますねえ……」
あかねは鷹通とともに、ビニールハウスの中にいた。彼の人望が功を奏して、大学の農学部に許可を得て一つだけ分けてもらったビニールハウスを使い、小さな菜園を育てていた。
とは言っても本格的なものを育てるには手が足りなく、せいぜい女峰やトマトやきゅうり、セロリやラディッシュなどの小さなものばかりだった。
それでも丁寧に毎日の世話が実になったというか、生き生きとしたグリーンの葉がハウス全体を覆うように伸び始めていた。
「この状態なら、今年の秋はいいものが収穫できそうですね。そうしたら何か試食会でもやりましょう。」
ちぢれた葉を手にとって、満足そうに鷹通は微笑んだ。
「農学部の規模とは違いますから、収穫祭などで売る量もありませんし。私たちだけで美味しく味わいましょうね」
「そうですね!きっとお店とかよりも美味しいだろうなー…こんなに綺麗な色してるもの」
化学肥料の使用は極力避けたが、思ったほどの虫も付かない上に育ちも上々だ。スーパーや店舗で見かけるものより、生きている色という感じがする。

「これらはハウスの中ですから安心ですが、これから梅雨になりますからね…地植にしたものは注意しないといけませんね」
ビニールハウスから出ると、空はどんよりと雲が重苦しい色で広がっていた。
「少しの雨なら良いですけれど、強かったりすれば小さな苗は倒れてしまいますし、種も流れてしまったりしますから、それなりに注意してあげなくては…」
「そうですねえ……大変ですよね、世話するのって」
でも、と鷹通が振り向いた。
「世話をしてあげれば、それだけ美しい花を咲かせてくれますからね。そのためにも力になってあげなくては」
当然のようにそう言って笑う鷹通を見ると、彼の思いが伝わってきた。

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「はい、藤原です」
ジャケットのポケットの中にあった携帯電話が鳴った。着信相手の名前も確認せずに通話ボタンを押した。
あかねは鷹通から少し離れて、会話の邪魔にならないように農学部のプランターに植えられた苗の方を眺めていた。
が、しばらくして視線を感じたので振り返ってみると、会話中の鷹通があかねの方を複雑な表情を浮かべて見ている。
視線が合うと、彼は少し足早にあかねに近づいてきた。
そして、少し困惑した顔で言った。
「あの……安倍先生から…元宮さんにお電話なんですが」
「……は?」
あかねは、自分に?という意味で自分を指さす。鷹通はうなづいた。
「ど、どーして……私にっ?」
「さあ………。取り敢えず、電話に出てみては…?」
問答無用に電話機を渡されて、出ないわけには行かなくなった。一体どんなことを言われるのか、頭の中が混乱してくる。
こないだのアルバイトで、何かミスをしただろうか。いや、ミスとは思わないことをやらかしていて、それが何か致命的な問題を起こし、文句を言うために電話をかけてきたんではないだろうか。
不思議と良いことは全く想像出来ないまま、通話ボタンをONにした。
「もしもし……元宮…ですけど……」
おそるおそる耳を澄ました。

「あかねか」
「は、はい…そーですけど……」
起伏のないクールな声が、携帯電話のデジタル機能を通じて流れてくると、いっそう冷たく聞こえてくる。
「今、何をしている?」
「えっと……鷹通さんと、ビニールハウス栽培の育ち具合を観察していたところで……」
「そうか」
「はあ……」
沈黙が流れた。電話での沈黙は致命的に気まずい雰囲気を与える。何かアクションがないと、呼吸を止めているような息苦しさもある。
「あ、あの……」
あかねが仕方がなく電話の用件を聞き出そうと口を開いたが、その途中で泰明から声が返ってきた。
「明日の土曜は用事があるのか?」
「明日……は……えーっと……午前中だけ講義がありまして……」
頭の中で、まだ慣れないスケジュールを懸命に思い出しながら泰明の質問に答えた。
「午後は用事はないか?」
「……まぁ…ありませんけどー……」
「ならば研究所まで来い」
「………はぁ!?」
受話器から聞こえてくる言葉に、あかねが少しパニック気味に返事をする。その状況をすぐ隣で見ている鷹通の表情も、妙に緊張したような、それでいて困惑したような不可思議な面もちだ。
「な、何か私、この間失敗しましたか!?」
「………………何の話をしている?」
あかねの戸惑いなど全く無視して、泰明はそう尋ねなおした。
「あの…バイトしたときに何か失敗したんで、呼び出しされたのかなあ…って」
恐る恐る、怖々とそう聞くと、全く動じないトーンの声で泰明が言った。
「問題ない。そんなことでおまえを呼ぼうとしたわけではない」
「…じゃ…何でまた…」
「おまえが来てからでないと話にならない」
この会話自体が話になっていないのではないだろうか、とあかねは感じていたが、相手が一筋縄ではいかない泰明であるから、多々つかみどころのない部分があっても仕方がない。
「……分かりました…明日の午後、伺えば良いんですよね?」
「そうだ。来られるのか?」
「来いって言ったの泰明さんじゃないですか★お邪魔しますよ」
「……分かった。では、待っている」
一種妙な電話での会話は、そこで終幕を迎えた。

「すいません鷹通さん、電話長く借りてお話しちゃって…」
二つ折りの携帯を折り畳んで鷹通に手渡すと、彼の顔はあっけに取られたという表現がぴったりという感じになっていた。
「元宮さん、明日…安倍先生のお宅へ伺うんですか?」
「あ、はあ……なんか、そういうことになっちゃいまして……。」
頭をかきながら、あかねは電話での会話をかいつまんで説明した。というか、かいつまむほど会話が多かったわけでもないのだが。
「なんか泰明さんに『来い』って言われたら…断れない感じがしちゃって。何で呼び出すのか分からないですけどねえ…お小言じゃないのは確かみたいなので安心ですけど★」
そう言ってあかねは笑った。

しかし鷹通の方は、まだ気持ちが戸惑ったままで平穏に保てない。
あの付き合い嫌いの泰明が、自分から自宅である研究所へ人を招いたこと。しかも研究に携わる人間ではないこと。
そして何より驚いたことは、あかねが泰明を名前で当然のように呼んでいたことだった。





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Megumi,Ka

suga