永遠の緑

 第3話
泰明は外を見ていた。ガラス越しに見える風景は、少し光沢を帯びている。風は感じない。匂いも漂ってこない。だからこうしてぎっしりと隙間がないくらいに、部屋に緑を詰め込まないと息が詰まる。
緑の香りの中で呼吸することが泰明にとっては一番落ち着く場所だ。人間のように、無理矢理にあれやこれやと会話をしなくても済む。
人と共に生活することをやめてから、どれくらいの時間が流れただろう。一人になって、しばらく年月が流れているはずだ。

「あのー………」
外の風景に目を奪われていたせいだったのか、ノックの音に気付かなかった。振り返るとあかねがドアの向こうから顔を出して、こちらを伺っている。
「何だ。終わったのか」
「そ、そんなに簡単に終わりませんよっ!まだ途中ですけど……あのー………時間が…」
あかねの言葉を耳にして、泰明は時計に目を移した。午後0時15分くらいの時刻だ。まだ外の陽は明るい。
「そろそろお昼だから、一休みしても良いでしょうか〜……?」
「好きにしろ。」
ふいっと泰明はそう答えて、またあかねから目をそらして外を眺めた。
わずかに聞こえてくる小鳥のさえずり。ただ、それだけが耳に流れ込んでくる。それ以外は静寂と言って良いくらいの、無に近い空間がここにあった。

「あの…お昼、先生はどうするんですか?」
こんな辺鄙すぎる場所では外食に出かける気にもならないし、何よりもそんな人混みのある場所に彼が自分から出向いていくような気もしない。となると、一体食事はどうしているんだろう?
「食事は好きではない。私は必要ない。一月分まとめて購入しているレトルト食品程度で十分だ。」
辺りにそれらしい食器か何かがないだろうか、と見渡してるあかねに泰明は言った。
「そんな!そんなんじゃ身体持ちませんよっ!健康にも絶対に良くないですよっ!」
無気になって声を高く上げたあかねに、泰明はゆっくりとこちら側に姿勢を正した。真っ直ぐ、静かで澄んだ瞳がこっちを見つめている。
「栄養価は計算してある食品だ。健康に悪いものではない。」
「そ、そーかもしれませんけど…でも絶対に人が作った温かい食事の方が身体に良いと思うし、それに…絶対にそんなの美味しくないですよっ!」
例えビタミンが豊富だろうと、カルシウムや鉄分がしっかり摂取できる調理をしてあるものであっても、ただ暖めるだけのインスタントなんて美味しいモノじゃない。そんなものは、食事とは言えない。
「……生きるための最低限の栄養を摂取できれば、それで充分ではないのか?」
「そんなの絶対にダメですっ!!」
あかねの強気な声に、泰明は一瞬目を見張った。とくん、と鼓動が揺れた。
「そんなの健康な人の食事じゃないですっ!調理場の場所を教えて下さい!」
「………1階のエレベーターの前を右に折れたところだ。」
泰明はあかねの残した風の流れる部屋で、何か今までと違う色を目にしたような気がした。


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一人では右も左も分からなくなってしまい、結局泰明に同行してもらうことになってしまった。
相変わらず真っ白の部屋。シルバーのシンクとコンロが殺風景で、調理場と言うよりも化学の実験室と言ったイメージの方が似合う。
しかもそこにあるのは、小さな鍋と果物ナイフ。調味料や食料品がそれなりに貯蔵してあるのは彼自身のためではなく、時折やってくる助手達の自炊のためだと聞いた。
「だからって、もーすこし生活感があっても良さそうなものですけどー…」
ブツブツ言いながらあかねは食料庫を開いて、適当に野菜やら何やらを取り出して刻みはじめた。それを泰明は、窓際の椅子にもたれてぼんやりと眺めていた。

しばらくして、暖かい香りが立ちこめてきて鼻をくすぐった。
どこか懐かしい気がしたのは何故だろう。昔、こんな風な香りの中で生きていたような。
コトン、と音を立ててマグカップが泰明の前に差し出された。沸き上がる白い湯気の中に、暖かな香りが混じっている。
「簡単なスープくらいしか出来ませんでしたけど…インスタントよりはマシでしょう?味はそんなに自信ある方じゃないですけど…」
熱を帯びているカップに、泰明はそっと手を伸ばした。
顔に向かって舞い上がるスープの香り。薄い金色の液の中にちりばめられた野菜の色。
静かに、ゆっくりと口に近づける。舌に触れた熱いスープが、口の中へと広がっていった。
「インスタントも良いですけどー…全部そればっかじゃダメです。一つくらい手作りのものを食べなくちゃ。最低限の栄養なんて最低限の健康しか維持出来ないですよっ?そんなの、病気にかかったらすぐにダウンしちゃいます」
あかねは小さなダイニングセットに腰を下ろして、ギンガムチェックのバンダナで包んだ手持ちのランチボックスを取り出して昼食の支度をはじめた。

「昔、こんな味のスープか何かを飲んだような気がする」
ぽつりとつぶやいた泰明の声に、あかねは顔を上げた。真っ直ぐに伸びた細い絹糸に似た彼の髪が、肩から腰へと流れ落ちている。
「小さい頃、お母さんとかが作ってくれたりしませんでした?風邪を引いたときとか、受験勉強とかで夜遅くまで起きてたりしたときとか…」
「分からない。だが…昔、飲んだような、そんな気がする」
目を閉じて、泰明は小さく答えた。
そんな彼の表情は、昔の記憶の中に身を投じて安らかに眠っているかのように見えた。


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「だいたい、あんなにたくさんの植物を全部手作業で水やりなんかしてるから、ちょっとした料理をする時間もなくなっちゃうんですよ?」
部屋に戻って開口一番に、あかねは少し不服そうに言った。
「こんなにコンピュータできっちり起動している施設なんですから、あんなにたくさんのプランターがあるなら自動制御とかで自動的に水やりを出来るようにすれば良いんじゃないですか?」

あかねが役目を与えられたところでも気が遠くなるくらいの数だが、この泰明の部屋でさえうっそうとした多くの観葉植物らしき鉢植えが多い。それに加えて外の裏庭にも植木があるらしい…ということは、水やりにどれだけ時間がかかるか気が知れない。
それと同時にあれこれと研究を続けているとしたら、食事の時間はもちろん睡眠時間もどんどん切りつめられてしまうだろう。
だったら尚更に自動制御の方が楽なはずだ。

しかし、泰明は答えた。
「自然の中で生まれ育った植物は、自分の力で生きていくことが出来る。だが人の手で生まれてきた植物は、何らかの手を差し伸べてやらなくては生きていけない。それは機械ではだめだ。人がそれらに直接触れてやらなくては意味がない。」

あくまで静かな口調だったが、泰明のその言葉はあかねの中に深く沈み込んで来た。
「ここにある植物は全て、私が何らかの手を加えて生み出した品種ばかりだ。それ故に、自然の中で育つ強さがない。半分は人間と同じ生き物と言って良い」
泰明はそばにあった、大きく鮮やかな緑色の葉を指先で触れて、更に話を続けた。
「人間の世話は人間がしなくてはならない。機械でやることは世話とは言わない。直に人間の手で、一つ一つを世話して行かなければならない…そう私は思っている。」

あかねは、何も言うことが出来なくなった。
それは、さっきの自分の提案を否定されてしまったから、という訳ではない。
泰明の言う言葉の意味が、驚くほどに優しく感じられたせいだ。

「おまえの言うように、面倒で時間のロスになるかもしれん。だが、それでも普段は一つ一つ自分で水やりを行っている。今は丁度学会のこともあって藤原やおまえに頼んでいるが、これだけは変えるつもりはない。」

両手でそっと包み込むようにして、泰明は緑の葉に頬を寄せて目を伏せた。
その姿は、葉から流れ出てくる緑色のオーラに、一瞬溶け込んでしまいそうに見えた。






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Megumi,Ka

suga