雨の肖像

 第3話
その日も山は白い靄に覆われ、外部からの侵入を拒否しているかのように思えた。
滅多に来客などのない泰明の研究所に、一台のスポーツワゴンのエンジン音が近付いてきた。
毎月第二週の土曜。この日は市内の大学から一人の学生がやってくる。
人間関係を営むことには気が進まないが、彼は研究熱心であり、執拗なほどの質問や問いかけや会話も投げかけたりしないため、さほど邪魔ではない。
エントランスのセンサーが動いた。研究室のモニターに、外部の映像が映し出される。
「こんにちは。桜森学院大の藤原です」
「……入れ」
泰明は玄関のロックを解除した。


■■■


真っ白な空間には、何一つ無駄な飾りはなかった。カーテンやブラインドもない。全てコンピュータ制御の上で、シャッターが起動する。もちろんそれは、灯りについてもだ。
鷹通は所内に上がると、奥にあるエレベーターへ乗り込み、三階のボタンを押した。
オレンジ色のランプが上昇して行き、電子音と共にドアが開く。そして、また同じような真っ白の空間が広がる。
研究室と思われる部屋のドアには、プレートのようなものは何もない。どんな部屋なのか、何のための部屋なのかは、ここに何度も来ている者しか分からない。
が、鷹通は迷わず手前から三つ目のドアをノックした。
「藤原です、お邪魔致します」
声をかけたが、何も返事はなかった。しかし、それが泰明の返事だ。
キー…とドアのノブが握られて、中に入る。

部屋の中にはいると、一斉に緑の香りが吹き出した。
生い茂ったシダの葉、若草色のポトスのツタ、観葉植物として見慣れたものたちが、見たこともない大きさに育っている姿がそこにあった。
「先生、今日もお世話になります」
鷹通が声をかけた。と、緑の葉がゆらりと揺れた。かすかに音を立てて。
そして、その向こうに………。

彼だ。あかねは、彼を見たときに、あの時の記憶が全て甦った。
底が見えないほどの、深い湖のような色の瞳。すらりと伸びた指先に、緑色の葉が握られている。間違いない。あの山吹をくれた、彼だ。
「すみません、実は後輩を連れてきてしまったんです。しばらく一緒にお供させてもらってもいいですか?」
そう言って鷹通は、あかねの背中を手前に押した。
泰明との距離が、一層縮まった。
「新入生の元宮あかねさんです。うちの部に新しく入部なさったんですよ。植物にも興味がおありなんだそうです」
「あ、の……ど、どうぞよろしくお願いします……」
ぎこちなさげに、あかねは深々と泰明に頭を下げた。その間も、彼がどんな表情をしているのかが気になっていた。あの、凍り付くほどに静かな瞳が、どんな風に動いているのか気になった。

しかし、何も声は聞こえない。全く空気の変化が感じられない。
あかねは顔を上げた。そして、そこにいる泰明の姿を目に映した。
瞳と瞳は、つながっている。だけど、動きはない。あかねの挨拶にも無反応と言ってもいいくらいだ。
もしかして……忘れているのかもしれない。
確かに、忘れてしまっても仕方がないだろう。ほんの通りすがり程度の出逢いを、そういちいち記憶しているはずがない。
例え、庭に植えた山吹の枝が、日を追う毎に育って行くとしても。


■■■


いつのまにか鷹通は、準備室と思われる隣の部屋に姿を消していた。緑に包まれた部屋にいるのは、あかねと泰明の二人だけだった。
平坦な空気が、少し圧迫感を感じさせた。言葉が見つからなかったからだ。
もしもあの時出会ったことを、彼が覚えているとしたら…何かきっかけになる言葉が浮かんだだろうが、それが断ち切られたとなると、もう何もお互いに通じ合えるものは見当たらない。
早く鷹通が戻ってこないだろうか。空気を乱す、何かが欲しかった。
ドアを開ける音がした。ほっ、と胸の奥に安堵感が漂った。白衣を羽織った鷹通が、研究室へと戻ってきた。
「わー、鷹通さんって白衣似合う!なんか、本物の研究員みたいだー」
「格好だけは様になっても、まだまだ私の知識では無理ですよ」
照れくさそうに、鷹通はあかねの言葉に謙遜して笑った。
「白衣を着た程度で、研究者になどなれるはずがない。」
呼吸の整った声が、和み掛かった空気を一瞬にして固めさせた。
あのときもそういえば、彼の言葉にカチンと来てしまって、思わず文句を言おうかと考えた。
どうも彼は、言葉の持つ感情を無視しているかに思える。だから、どこか引っかかるのだ。

「そんな言い方、鷹通さんに失礼なんじゃないですか…!」
あかねは、つい、そう言ってしまった。
「何がだ」
起伏のない声が返ってくる。美しい顔は、少しも歪まない。
「だって…今の言い方、まるで鷹通さんは研究者になれないって言ってるようなもんじゃないですか。鷹通さんだって、自分の好きに将来が進めば、研究者になれるくらいの知識はあると思う…」
「……鷹通は研究者になれない。既に将来を決めているからだ。そうだろう?」
「でも……!」
泰明の返答に、どんどんとあかねは言葉が浮き上がってきた。さっきの沈黙など、嘘みたいに。
「いいんですよ、おやめになって下さい」
鷹通があかねの手を引き留めた。が、ここまで進むと引き下がれないのもあかねの性分だった。
「だって………」
不満そうな顔をして、あかねは鷹通の方を振り返る。穏やかに、笑みを浮かべて鷹通は首を横に振った。

「研究者に必要な知識が足りないと言ってはいない。鷹通が進路を決めていなければ、研究者になれるだけの知識は持っている。だが、進路は決めてしまっているのだろう?ならば研究者になれないだろう」
泰明が、言った。そして、更に鷹通に向かって続く。
「おまえは知識を持っている。研究者になれる程度の知識はある。だが、おまえは経済の進路を選んだ。そんなおまえが白衣を着たからと言って、研究者にはなれない。間違ったことを言っているか?」

-----------------チカッとあかねの胸の奥で、小さな光が輝いた。
鷹通の顔をもう一度見ると、優しそうにメガネの奥にある目を細めた。そして黙ってうなずく。

この人は……泰明は……思ったことをそのまま口にする人なのだ。
しかしそれには悪意があるわけではなくて。ただ、素直に言葉に変えてしまうだけで。
彼は、他人の力を認める目を持っている。鷹通の存在を認めている。
目の前にいる者の能力をそのまま判断する力。それが彼の生き方なのだ。
言い換えれば何よりも、どんなものよりも彼の言葉は真実なのかもしれない。誰よりも、彼の言葉が信じられる唯一の言葉なのかもしれない。

そう思うと、不思議に泰明を映す瞳のガラスが、くっきりと鮮明になってきた。
長くのびた軽やかな髪。白衣などに頼らない、凛とした表情には知識が全身から放出されているのが感じられそうだ。
「さて、それでは先日の研究の続きを始めましょうか…」
培養器から研究材料を取り出してきた鷹通は、顕微鏡の用意をあわただしく始めた。
相変わらずそんな時も、泰明は何一つ目も口も動かさない。そのまま緑の中に、溶け込んでしまいそうなほどに人間の気配がなかった。

この人は一体、どんな人なんだろう……。あかねは、漠然とそんなことを考えた。
その時、彼の口が動いた。

「山吹は、育っているか?」
「…はい?」
思わず、その声に言葉を返した。泰明は無表情だ。
「おまえにやった、山吹の枝だ。元気なのか?」
「えっ…あ、はい…あれからコップに挿しておいたら、根が出てきたので…庭に植えました。大きくなってきてます…」
「そうか」
泰明は答えた。
その彼を、あかねはじっと瞳をこらして見つめた。

もしかして、今…笑った? 

気のせいだったのかもしれないが、あかねが山吹の様子を説明したあと、ふっとわずかに、彼が目を伏せて笑みを浮かべたような気がしたのだ。
でも、あんなに無表情の泰明が笑顔を作るなんてことは…信じがたい。でも……。
気になる。彼のことが気になって仕方がない。
どんな人なのか、どんなことを考えているのか、もっと知りたい気がする。
自分とは全く縁のないような、高度な頭脳と冷たいほどの素直な言葉を持つ彼が、どんな人間なのか…あかねは知りたくなった。

「あの時の山吹は、裏庭に植えた。順調に育っている」
泰明の声に、あかねは我に返った。そして、耳を傾けた。
「いずれおまえの庭にも、あの鮮やかな黄色の花が咲くだろう」
「あ、そうですね…」
「楽しみに待っていろ。自然の中で育つ花や木々は、園芸店などにあるような、他人に援助をされながら生きて行く弱々しさはない。苗の頃は仕方がないかもしれないが、これからは強く大きく育って行くだろう。ここの山吹も、おまえのところの山吹もな」
「…はい…」
「育ってゆく日々の変化を、しっかりと見てやれ。それがおまえがしなくてはならない、唯一の世話だ。あとは自然に任せればいい。」

あ、ほら…間違いなかった。瞳は、どこか遠くを見ている。でも、その表情は無機質ではなくて、今までの表情からは考えられないほど、穏やかな表情をしていて…微笑を込めている。
綺麗で、精密で、しなやかで、繊細で……こんな笑顔、今まで見たことなんかない。
翡翠のように深く輝いて、森の緑のように鮮やかに彩りをちりばめて…彼がそこにいることが、夢野世界のように思えてきた。

ガラス窓の表面を、雨の雫が伝い始める。薄暗い山の景色が映っている。
部屋の中の緑。その中にたたずむ泰明の姿がぼんやりと一つの絵のように見えた。

泰明の色を、もっと探ってみたいと思った。
もっと違う色を、見つけたいと思った。
彼の中にある真実という宝石を、あかねはもっと探してみたいと、そう思った。

雨が、静かに世界を包み込み始めた。





-----THE END-----





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Megumi,Ka

suga