雨の肖像

 第2話
あかねが入部を希望する研究会の部室は、中庭に面している小さなプレハブの長屋の一つだった。
入口には土の詰まったプランターが並べてあり、小さな緑色の芽が命を吹き出している。
空になった植木鉢、水撒きのホース、薄汚れた軍手やじょうろやバケツが無造作に置かれているのを避けて、あかねは部室のドアを開けた。


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「教育学部ということは…いずれ先生を目指すんですね」
メガネをかけた、真面目そうな部員があかねの入部申込書に目を通しながら言った。
「あ、まあ…出来れば、そうなれるといいなあって感じで…。どうなるか分からないんですけど」
「そんなことありませんよ。まだ大学での生活は始まったばかりですからね。努力次第でどんな方向へも可能性が広がっていますから、焦らなくても大丈夫ですよ」

彼はあかねより二つ年上で、経済学部では有名な秀才、藤原鷹通と言った。真面目そうだが物腰は穏やかで、取っつきにくさは感じられず、新入生及び新入部員が自分たった一人といっても、あまり心細い感じはなかった。
「うちの部はあまり人数もいませんからね。ですからそんなに先輩後輩とかこだわる必要もありませんよ。とにかく楽しく活動して行くことがモットーですから。ですからあなたも、あまり緊張しなくても大丈夫ですよ」
落ち着いたトーンの優しい声で、彼はあかねの緊張を解きほぐしてくれた。

何せ同い年の部員がいないために、あかねは必然的に鷹通と会話を交わすことが多くなった。
とにかく彼は何もかも博識で、専門分野である経済に留まらない知識にあかねは驚かされた。
「でも、鷹通さんって経済の方でしょう?こういう土いじりって全然違う分野じゃないですか。どうしてここに入ったりしたんですか?」
日に日に延びて行く緑色の芽に水を蒔きながら、あかねは尋ねた。
「本当はですね、こういう植物の品種改良のようなことに興味がありまして…生物学みたいな、そっちの方角へ進みたかったんですよ。ですが、父が会社を持っていましてね、いずれ後継ぎを受け入れなくてはいけないもので…こっちの方は趣味ということで断念したんです」

後から鷹通と同級の先輩に聞いた話だが、鷹通の父の会社の名はあかねもよく知っていた。貿易関係の会社として、この付近ではかなり有名な企業である。つまり、鷹通は御曹司ということだ。全く自分とは縁のない人間と出会ってしまったものだな、と思った。

「それでも、ちょっとした実験くらいでしたら…プロの方に教えていただいて、かじったりしているんですよ」
「えっ!そんなことまで鷹通さんって出来ちゃうんですかっ!?」
撒いた水の水滴の輝きを眺めながら、鷹通は少し満足そうに笑った。
「ちょっと、ですよ。あれとこれを掛け合わせてみて、少し成分をいじったりとか…そんな感じですよ。冬に弱い植物を寒さに強くさせてみたりとか、普通よりも大きな花が咲くように改良したりとか…」
「そんな簡単に言うけど、それって凄いことじゃないですか?」
「プロの方から比べたら…子供の遊びみたいなものです。私と同じくらいの年令なのに、あの方の力は凄いですから…」
鷹通は、遠くに見える北山の影を仰ぐように視線を向けた。うっすらと白いもやがかかっている。

「専門の方と、お知り合いなんですか?」
ホースを片付けながら、あかねは聞いてみた。
「ええ、たまに研究所の方に伺わせていただいています。あまり人づきあいが得意な方ではないのですけれど…まだ二十歳くらいなのに学者として有望視されている、あの方は凄いですよ……」
と、鷹通の話を聞いていると、あかねの頭の中にある記憶のチップが、あちらこちらから一つの形を作り上げようと動き出した。
まだ若い植物学者。研究所の所長……そんな誰かに、会ったことがなかったか?
「厳しい方なんですけれど、あまり口も多くありませんけれど…でも、あの方は本当に草花を愛している方ですよ。そうでなければ、あの方の周りに生きる木々たちの鮮やかな色合いは出せないですから」
春の若草色の風が、ふわっと周りを吹き抜けていった。

あ。一瞬、脳裏に浮かんで消えた映像。長い髪が揺れて、整った造りの少女のような顔。彼の手に、山吹の枝。
思い出した。
「鷹通さん、もしかしてその人って……髪の毛が長くて…すごく美形の…人?」
あかねは、独り言のようにぽつりとつぶやいた。が、鷹通はそれまで遠くに向けていた目を、すぐそばのあかねの方に向き直した。
「あの方をご存じなんですか?!」
植物学や生物学といった専門分野には、全くつながりも由縁もないような普通の少女であるあかねが、彼の風貌を言い当てたのには、鷹通も驚いたらしかった。
「ご存じっていうか……ちょっと…偶然に……」
本当に、あれは偶然だ。単なる店先で会話を交わした程度のことだ。
だけど、あの時に彼から差し出された山吹の枝は根を延ばし、庭先のすみに植え替えてからは毎日天に向かって枝をどんどんと伸ばし続けている。
木々が大きくなるにつれて、あの一瞬のことが浮かんでは消える。妖精のようにしなやかな、涼しげな姿と、無機質な言葉。なのに、思い出すと春風が胸の中に吹き込んでくる。どうしてだろう?

「あの方…安倍泰明先生は、その道ではトップに並ぶほどの優秀な研究者です。あの方の改良する花や木は、何一つ朽ち果てたりはしないとまで言われる。永遠に咲き続ける花を生み出すことが出来るのは、あの方しかいないだろうと、世界中の学会から囁かれているんですよ」
そう鷹通は説明をするが、あかねとしては未知の世界のことなので、それがどんな重要なことかも分からない。でも、予想もしない大きな肩書きだということくらいは、何となく分かった。
「それにしても、どこであの方と会ったんですか?普段は外に顔を出さない方なんですよ。学会にもレポート提出で済ませてしまうような方なんですから……」
あかねと彼との出逢いのきっかけに、鷹通は興味津々らしい。あかねはその時のことを説明した。

偶然という言葉しか、浮かばない。出逢いは、そんなものだった。
ただの通りすがり、ちょっとした立ち話をしただけの、その場限りのわずかな交流。
だけどそれは鮮明なくらいに強く、残像をくっきりと残して記憶の中に刻んだ。


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黄色の花は一斉に花を咲き誇らせた。真っ白な鉄筋コンクリートの、無機質な研究所。周囲は山に囲まれて、人の行き来などはほとんどありはしない。
彼はこの研究所の所長だった。が、研究所とは言えど研究員は全くいない。一ヶ月に二回ほど、市内や近県の研究所などから専門家が数人集まり、それぞれの個人の研究結果をまとめて、それらをまた個人で研究するだけの、あくまでここの場所は学者の集会所のようなものだった。

彼の名前は、安倍泰明。まだ二十一歳の青年だ。細い身体の線は指先までしなやかで、肌は陶器のように白く、体温を感じさせない。それは、無表情・無感情という言葉で表現されてしまうような、彼の風貌から見受けられる。
人形のように整った顔のパーツは一寸もずれを生じていない。その完璧さが、更に美しさを引き立たせる。

北山の奥深い森の中、白亜の研究所には人の気配は全くない。生活感の消えたその場所に、彼は一人で住んでいる。
誰にも会うことなく、ただ目の前にある研究材料を見つめるだけの毎日を彼は続けている。
他人との交流に興味を示さず、一人山の中に暮らす。研ぎ澄まされた美貌と頭脳。
彼の存在は------奇跡であり、そして、幻想(ファンタジー)と呼ぶにふさわしい。
これまでに発表した研究成果と論文は世界中から驚きの声が発せられる。それが、彼に対しての評価だ。
現在、ここにある彼の存在の意味は、その評価があってこそのことだ。それがなければ…細やかな身分さえよく分からない彼を賞賛するものや、信じるものはいないだろう。

彼は、過去を消し去った。現在しか、知らない。いつのまにか、そうやって生きてきた。
そしてそれが、あたりまえのことになっている。
一人でいることも寂しいと思わない。人と接するのも必要とは思わない。
今の彼は、そんな人間だった。





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Megumi,Ka

suga