追憶の情景

 第3話
一体彼は、何者だったのだろう?
妖精のように細く美しいしなやかな身のこなしは、そう滅多に出逢えるものではない。
しかも、あの感情を一切排除したような氷の表情。
そういえば店員の青年が、彼のことを『先生』と呼んでいたが…彼だったら、あの青年の正体を知っているだろうか。
あかねは裏口に回って、配送用の軽トラックがある駐車場へ向かった。
そこでは店員の青年が、さきほど抱えてきた山吹の木をはじめ、いくつかの植物の苗木やらを荷造りしていた。


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「あの…ちょっとお尋ねしたいんですけど…」
声を掛けると、彼は深々と頭を下げる。そしてお得意さまであるあかねに向かって、社交辞令のあいさつをした。
「あの…さっきの人って、誰なんですか?」
「さっきの…って、ああ、安倍先生?」
青年はキャップ帽を外して、軍手のそでで額の汗をぬぐった。
「あの方は、植物学博士ですよ。安倍泰明先生と言いましてね、北山の中にある植物研究所の所長です。」
…植物学博士?…研究所所長?
聞き慣れない肩書きの言葉が、あかねの耳に入ってきた。
見た感じ、まだそんなに年が行っているようには見えない。所長や博士などという人たちは、もっと年齢の上の人がなるものではないのだろうか?とあかねは思った。
「まだ若い方ですけどね、かなりすごい経歴を持った、偉大な方だと聞いてますよ。ちょっと変わり者って噂は聞きますけど…。うちではよく、研究所の研究材料として苗木とかを購入されているお得意さんなんですよ」
「…おいくつなんですか?」
「確か…まだ二十歳過ぎたくらい、だと聞きましたね」
二十歳すぎ?ということは、あかねとさほど年齢は変わらないだろう。それで植物学博士?研究所所長?それだけでもとんでもない。想像を絶する世界だ。
こっちはやっと大学受験を終えたところだというのに、数年の違いであっちは博士で、しかも研究所所長。
天才…と呼ばれる部類の人間だろうか。そう思うと、何となくこれまでの会話が納得できた。きっと頭が良い人だから、一般の人なんてバカに見えるんだ。
私なんかよほど……。
あかねは妙に自分自身の中で納得させて、彼の風貌を思い出してため息を付いた。
そんな、天才という類の人物が、本当にいるのだ。物語や小説の中でしかお目にかかれないと思っていたのに、この京都にそんな人がいたとは…。

「安倍泰明…先生ね…」
青年に教えて貰った彼の名前を、声にしてつぶやいてみた。
『安倍泰明』。植物学博士。


「私に何か用か?」

振り返ると、そこに本人がいた。さっきもそうだったが、とにかく全身から人の気配を全く醸し出さない人らしい。近寄ってきていても、全く気配に気づかない。
「な、何でもないです」
「そうか」
それっきり、会話はない。あまりに簡潔すぎる交差だった。

「先生、荷造り終わりましたんで、今日の夕方には研究所の方にお届けに参ります」
「分かった」
年の若い植物学博士は、店員の差し出したレシートに簡単なサインをして、手続きを済ませた。
このトラックに乗せられた山吹も、研究材料となってしまうのだろう。生物学のように解剖されるわけではないが、研究材料と言うと、何となく実験台にされてしまうような気がして寂しい気がする。
このまま地上に根を張れば、あの黄色い花が咲き誇るのかもしれないのに。
あかねは山吹を、また無意識のうちに眺めていた。

そのとき、背後から細くて長い指先が伸びてきた。その指は山吹の枝に触れて、ポキリ、と音を立てて一枝を手折った。
指先に添えられた、つぼみを持つ山吹の枝。それらはあかねの目の前に差し出された。

「おまえに、やる」

黄色いつぼみが、目の前にある。
「わ、私は物乞いなんかしないって、さっき……」
ムッとしてあかねは、彼の顔を見上げた。が、その枝を差し出している彼の瞳は、何故かさっきのような凍える冷たさは感じなかった。
「この枝が、おまえに育ててもらいたいと言っている。持って行け」
どうしてだろう。無機質な口調は変わらないのに、表情も呼吸もさっきとは変わらないのに、今この目の前にいる彼から放出している空気は、決して冷くはなかった。
膨らんだ、黄色のつぼみ。もうすぐ芽を吹き出す青葉。
小さな小枝だけれど、生命は確かに宿っている。

「…良いんですか、貰っても」
あかねは、泰明の差し出した枝を受け取った。
「この山吹の声が、私には聞こえる。おまえと同じ気を持つ花だ。本当ならおまえが持って帰って育てるのがいいのだろうが、私にも仕事がある。全て承諾するわけにはいかない」
どうも言っていることが全部理解できていないのだが、悪い気はなかった。あかねはもちろん、この枝を受け取って持ち帰ろうと思った。

「おまえには聞こえなかったのか、声が」
「はい?声って…何の声ですか?」
辺りにいるのは、店員の青年だけ。彼の声なら十分聞こえているが、どうやらそれらを指しているのではないらしい。
「山吹が、ずっとおまえのことを呼んでいた。おまえに育てて欲しいと、ずっと呼んでいたのだ。だからおまえは、あの枝が気になったのだ。自然の気だ」
……何だか意味がよく分からないが、そう言われればそうかもしれない。
何かの本で読んだように、植物にテレパシー能力があるとしたら、それらをこの枝があかねに声を掛けていたのかもしれない。

「花咲くまで、世話をしてやることだ。分からないことがあったら、私に聞けばいい」
「え?あ、あの…」
泰明はそう告げて、その場を後にした。


■■■


帰り際、あかねは泰明の研究所の電話番号と住所を店員から教えて貰った。
北山の奥深くに、彼はいる。
植物や自然に囲まれた中で、日々を生きている。
彼が持ち帰った山吹の苗木は、今、どうしているだろう。
水を注いだコップに挿された短い枝木は、生き生きと青葉をふくらませている。
彼の元にいる山吹も、同じように生きているだろうか。
大木の樹齢のように長い時間の中で、くるくると回りつつある歯車が、今回り始めた。

そして、再び二人の時間が動き出す。





-----THE END-----






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Megumi,Ka

suga