Happy Song

 001

カレンダーが、また一枚終わろうとすると同時に、今年の春も夏の雰囲気に変わる準備を整えている。
緑はどんどん鮮やかさを増して、咲く花の色も濃く染まり行く。
それとは正反対に、天気の方はすっきりとしない。梅雨が近いのだから、当然だ。
何かと忙しい、この季節。出かけることもあるというのに、こんな天気では足取りも重くなってしまうだろう。
人生で大切なイベントの用意だという理由がなかったら、きっとためいきばかりの外出になるに違いなかった。

目の前に、出来上がったばかりの赤い手帳らしきものがある。
二十歳過ぎて、やっと申請したパスポートだ。それまで海外に行くなんて機会がなかったから、急に『渡欧しよう』と言われたときは、何も用意がなくて焦ってしまった。
それでも何とか期日には間に合って、こうして出かける準備を勧めている。
初めての海外は、オーソドックスなハワイやグアムなどではない。
オーストリアのウィーンだ。



3月。あかねは短大での2年間を終えた。
学生の時間も、もう終わり。これからは通学の用事もなく、朝になったら朝食の用意をして、仕事に出かける彼を見送る。
一緒に暮らし始めて2年近くになるが、一緒に通勤通学のために家を出ることもない。友雅は仕事へ、そしてあかねは家で彼の帰りを待つ。
夫婦生活と何ら変わりがないが、挙式はまだ行っていない。
数年前に、約束をしたのだ。
-------あかねが短大を卒業した、その年の友雅の誕生日に-------。
待ちこがれた6月が、あと数ヶ月でやってくると指折り数えていた、3月半ばのことだった。

「6月に、ウィーンに行こうか」
夕食時、貰いもののブランデーを少し味わいながら、友雅がそう切り出した。普段はもっぱらワイン等であるから、専用のグラスなんて持っていない。
注がれているのは、何かの景品でもらったオンザロック用のグラスだが、それなりに様になっているので気にならない。
「え、ウィーン…って…あの、ヨーロッパの?」
音楽の都、オーストリアのウィーン。
フランスやイタリアならいざ知らず、ウィーンと言われても思い浮かぶのは、それくらいが限界だ。
「そう。実はこの間、恩師のヴァンゲル氏に連絡を取ったんだけれど、あかねとの話をしたら『是非会いたい』って言い出してね。それなら良い機会かと思って、もう一度向こうに行ってみようかと考えていたんだよ。」
思い出した。そういえば友雅は、ウィーンの国立音大に留学していたのだ。そこで向こうのピアニストに師事したと聞いた。
彼の恩師は、ヨーロッパではかなり著名なピアニストなのだと聞いたが、残念ながらあかねにはよく分からない。
「あかねも卒業して時間も取れるようになったし、6月に休みを取って行ってみないかい?」
「ヨーロッパかぁ……」
頭の中で、優雅な風景が浮かんでは消える。ゴシック様式の、絵本に出てきたお城みたいな建物。緑の森と澄んだ河の青さ。レンガと石畳に構成された街の風景。
テレビや写真でしか見た事のないそれらは、夢に描くには十分すぎるほど輝いてあかねの記憶に刻まれている。


「ちょっと待って!」
急にあかねの表情が強ばった。
「6月…に行くって、ともちゃん今言ったでしょ?」
「ああ、そうだよ。日本は梅雨に入るだろうし、じめじめした気候から離れるには丁度良いだろうと思ってね。」
「でも…!」
6月は、のんびり旅行なんてしてられないはずだ。それは、友雅だって分かってると思ってた。
勿論、こういうことでの準備が大変なのは女性であって、男性はそれほどではないかもしれないけれど、それでも……一生に一度のイベントがある6月なのに。
こうして、今もテーブルの上に開いているじゃないか。真っ白なドレス、長いロングベール、女性なら誰でも憧れる、その衣装。
今週のお休みは、ドレス選びに行く約束だったのに。

「もしかして、結婚式があるっていうのに6月に旅行なんて、どういうつもりなんだ…とか思っているんじゃないかい?」
あかねの表情を覗き込むようにして、微笑みを下から忍ばせる。
手の中にあるグラスの中は、もう何も残っていない。あかねが気付かないうちに、ブランデーは彼の喉を通り過ぎてしまったようだ。
「……だって、ずっと前から、6月の…ともちゃんの誕生日に結婚式って言ってたのに…。まだ、ドレスだって決まってないし、用意だってたくさん残ってるし…」
既にチャペルは一年前に予約済みだが、そろそろ招待状も用意しなくてはならない頃。追い込みという言葉が似合うほど、タイムリミットは近づいている。
そんな中で旅行なんて。せっかく出かけるのに、のんびり楽しめないなんて勿体ない。

友雅は、戸惑うあかねの肩を叩いて。窓際のソファに座らせた。そして、空のグラスをテーブルに置いてから、自分もその隣に腰を下ろした。
「だから、取り敢えずチャペルはキャンセルってことでね」
「…えっ!?」
いきなり何を言い出すのか、と思わずあかねは立ち上がったが、なだめるように友雅は手を取って引き下ろす。
「ちゃんと話を聞きなさい。挙式と披露宴を別にしてみるのはどうかと思ったんだよ。」
どうにも内容が掴めない。友雅が、何故そんなことを今になって言い出したのか。あかねには理由が浮かばなかった。

「以前、あかねも言っていただろう?6月は梅雨の時期になるから、雨が降ると困るって」
そういえば……と、少し昔の記憶を探る。
思えば、確かにそんな事を何気なく言ったこともあったか。
雨が多い時期だと、披露宴に呼ぶ友達もドレスが汚れたりしないか、気が気ではないのではないか、と。
あかねの友達は、同年代の年頃の女性ばかりだ。丁度こういった冠婚葬祭の場では、思い切り着飾ってみたいと思うのは当然。そこに雨なんてことになったら、せっかくのドレスも台無しになっては可哀想だ。

「だから、この際だし挙式と披露宴の日時を分けてはどうか、と思ったんだよ」
友雅はあかねの手を取って、優しく両手で包む。
「…じゃあ、披露宴は…いつにするの?今から変更できるの?」
「8月に、避暑地の高原にあるレストランとかなら、涼しくて良いと思うけれど?知り合いのつてがあるから、何とかなると思うんだけれどね。」
高原の別荘の近くに良い店があるという話は、松下から何度か聞いた事がある。
招待客もそれほど多くなさそうだし、ちょっとしたレストランを貸し切ったガーデンパーティ風の披露宴は、若い客たちには居心地が良いだろう。
「4年制に通っている友達も、何人かいるだろう?8月なら丁度夏休みだ。何かと都合がいいと思うよ」
「……そっか。確かに、そうかもしれないね、うん…」
それに、6月には何かと結婚式が多いだろうだから、出費もかさむことが予想されるし。だったら時期をずらすのも有りか。
他人事なら気楽に考えられていたけれど、自分のこととなると、あれこれと気を利かせなくてはならないものなんだな、と改めて思う。

「そういうわけで、披露宴は8月にね。でも、約束はちゃんと守るつもりだから、安心していいよ。」
ゆっくり手を引き上げて、あかねの身体をこちらに傾かせる。お互いの距離を更に狭めて、あかねは友雅の胸にもたれるように頭を寄せた。
肩に手を回して、愛しげに髪へと唇を近づけて、言い聞かせるように友雅は話を続ける。
「挙式の予定はそのままで、場所を変えるだけ。それなら良いだろう?」
ぴくん、と反応して、あかねは友雅の顔を見上げた。
「もしかして……」
「そう。向こうの教会で、二人きりで式を挙げるのというのは、気に入らないかい?」
二人だけで、二人の門出をスタートさせる。遠い国で、澄んだ空気と緑の奏でる音楽に囲まれながら。
親しい人に祝福されるのも良いけれど、二人で歩き出す最初の瞬間は……二人きりで、というのも捨てがたい魅力がある。

友雅は、あかねの持ってきたウェディングドレスのカタログを、ぱらぱらと開いてみせた。
「ドレスは決めておいて、こちらから持って行けば良い。あとは、私から知人に話して必要な事は手配してもらうから、心配することはないよ。これでも、向こうではそれなりに顔が利くんでね。」
さすがに向こうで調達出来るドレスでは、あかねに合うサイズは見つけにくいだろう。
それに、一生に一度のウェディングドレスなら、本人が気に入ったものを選んでやりたいと思う。
「でも、2人だけで式挙げちゃったら、お父さんとかお母さんが怒るかもしれないよ?特にお父さん、花嫁姿を見たいって言ってたし」
笑いながら、あかねがそんな事を言った。

確かに男親としては、花嫁姿の娘の手を取って、ヴァージンロードを歩くのは夢に違いない。それを取り上げてしまうのは…友雅としても少し罪悪感がある。
「それじゃ、8月の披露宴で改めてドレスを着てみてはどうだい?。そこでもう一度、みんなの為に簡単な挙式をしてみるのも良いんじゃないかな。せっかく選んだドレスも、何度か着てみたいだろう?もちろん、相手が違うんじゃ困るけれどね」
「あ、いいな、そういうの。やっぱり、ちょっとだけみんなにも見せびらかしたいなーって、そんな気持ちもあるし。」
年頃の女の子がウェディングドレスに憧れるのは、当然のことであるから。袖を通す機会があるなら、ちょっとだけ誇らしげに見せて歩きたい。

「じゃあ、そういうことでOKかな?」
「うん。お母さんたちには、あれこれ言われそうだけどー…ともちゃんも、ちゃんと説明してね。」
おそらく、ブツブツと愚痴を言われるんだろうな、と予想が出来るだけに、思わず苦笑してしまう。
だけどきっと、反対はしないような気がする。

「本音を言えば…何とか了解してくれるんじゃないかな」
「本音?」
指先が、あかねの頬から顎に向けてすうっと流れる。
下唇を指でなぞって、少し震えるそれに、引き寄せられるようにして、友雅の唇が重なる。
「ウェディングドレス姿を真っ先に見る権利は、誰にも譲りたくないっていうのは、ダメかな?」

「お父さん、怒りそうだから、それは内緒にしておいて。」
あかねの顔が、くすっという笑い声と共に緩やかに変わった。

手元のウェディングドレスのカタログが、床に滑り落ちる。
それと一緒に、あかねは友雅の胸の中に身体を委ねた。




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Megumi,Ka

suga