Special Impression

 第1話
「それじゃイノリ、デモテープをいくつか作りたいんだ。適当に何か、向こうで演奏してくれないかな」
急に友雅が言い出して、それまでこの現状に困惑していたイノリは、はっと我に返った。
「弾き語りが良いね。曲はオリジナルでも、何かのコピーでも構わない。」
「はあ?何で突然そんな…」
「機材の使い分けで、どう音が違って聞こえるかを試したいんだ。それによって、次のレコーディングのシステムも変えるつもりだから。」

あかねの目の前で、業界らしい会話がどんどん交わされて行く。
専門書などを調べて、少しそんな言葉も分かりかけていたが、実際にこうして現場の様子を見ると、やはりまだまだ知識が薄いのだな、と思い知らされた。
だが、それでも諦めたくないと思った。
もっともっと、今まで以上に新しいことを吸収し、そして夢に近付きたい。
今は、そう強く思う。

「分かったよ。じゃあ、ちょっとチューニングすっから、少し時間をくれよ。」
「ああ。こちらも機材を用意させるから、準備が出来たら呼んでくれるかい?」
イノリはちらっとあかねを見て、ブースの中へと入って行った。
友雅はと言うと、特にこちらを眺める様子も見せず、ミキサーと何か話している。
マイクの音がどうだとか、ミキシングの調整がどうだとか。
完全にそれはレコーディングの技術的な専門用語で、さすがにあかねには理解が難しい内容だった。

「橘さんは、アコースティックな生音にこだわる人でね。最近には少なくなったんだけれど…そういう人はとても良い音を出す感性を持っているんだよ。」
隣にいた森村が、さりげなく友雅について教えてくれた。
「このスタジオも、今では昔のスタイルのものでね。今はこんなに何部屋もなくて、コントロールルームと金魚鉢(ブース)が一緒のところが多いんだ。その方が少ない面積で出来るし、今はデジタル作業が多いからね。」
昔と違って、プロばかりがレコーディングスタジオを使うわけではない。
インディーズバンドなど、アマチュアがプロと同じようなれベルの音楽を求めるようになり、そのせいでこのビルのスタジオも使用率がぐっと高くなった。
更に森村が言うように、簡単なレコーディングシステムが流通し初めて、ちょっとした知識があれば個人で作業することも出来る。
音楽の世界でも、デジタル化はどんどん進行している。

だが、だからといって何もかもが、デジタルになれば良いというものではない。
それはどんな業界でも同じことだ。
「でも、敢えて橘さんは彼らに、昔の形でのレコーディングを勧めて、こういうスタイルになったんだ。最初はどうかと思ったけれど、ライブ感に魅力のある彼らだからね。やってみたらとても良い出来になった。」
人それぞれに、ミュージシャンそれぞれに、一番良い音を引き出せるシステムが違うもの。
デジタルの洗練された音が、似合わない者もいる。
それを聞き分けるのは、プロデューサーや企画進行を勤めるスタッフの感性に掛かっている。

「……凄いプロデューサーさん…なんですね。」
「ああ、本当に凄い人だ。だから、なかなか仕事を受け入れてもらえないんだけれどね。それでも、諦めきれずに何度も交渉に出たんだよ。一体、どれだけ門前払いされたことか」
森村はそう言って笑いながら、昔話をしてくれた。
「契約金やら…つまり、ギャラとかでは動かない人だからね。本職はギタリストでもあるから、レコーディングに参加することもあるけれど、必要以上には自ら演奏はしないし。リハーサルもせずに、いつも一発録りだけれど…完璧だ。凄い技術を持っている人だよ。」
スタッフと話し中の友雅を眺めながら、森村はそんな風に話した。

初めて見る、仕事中の彼。
厳しい表情ではないけれど、いつもよりずっと瞳の輝きが強くて。
…ホントに音楽の仕事が好きなんだな…と、あかねはぼんやりと考えながら彼を遠目で眺めた。


スピーカーを通じて、ブースからの音がコントロールルームに響いて来る。
ギターの弦を弾く音や、マイクに向かって咳払いしながら喉の調子を整える声。
「ああっ、悪りい!俺さっき、コーヒー買いに行って、廊下のテーブルに置きっぱなしになってた!」
突然イノリの大きな声と共に、彼がガラスの向こうでこちらを指差している。
さっき飲み物を買いに行ったのだが、急に森村が彼女を連れて現れたもので、びっくりして買った飲み物をそのまま置いて来てしまったのだ。
「じゃ、あたし…取ってきます!」
そう言って立ち上がったのは、あかねだった。
「あかねちゃん、一人で平気かい?」
「大丈夫です。ここを出てすぐのところでしたし、ただ飲み物を持って来るだけですから…」
仕事中の現場に、急に部外者の自分が顔を出してしまったのだ。少なからず、それは彼らの仕事の妨げになっている。
それくらいの雑用の手間くらい、しなければ申し訳がない。
あかねはそう思いながら、一人スタジオの外へ出て行った。

「私も、ちょっと行って来ようかな。」
そのあと続いて立ち上がったのは、コントロールルームのソファに腰を下ろしていた友雅だった。
手のひらに二枚ほどの小銭を握りしめて、彼はスタジオのドアを開く。
「だったら、コーヒーをポットでご用意させましょうか」
スタッフが気を使って友雅に言ったが、彼はさらりとそれを交わした。
「いや、今日の作業はそこまで時間は掛からないから、良いよ。それに、今カップを取りに行った女の子……」
そう言いかけたところで、ブースの中からイノリがこちらの様子を見ているのを、友雅は気がついた。
「二つカップを手にしてたら、両手が塞がって可哀想だ。ついでだから、手を貸しに行ってくるよ。」
友雅はそう言い残し、ドアを閉めた。

相手が高校生であれ、女性への気遣いは細かい人だな、と一同は感心しただろう。
だが、イノリだけはそんな友雅の本心が何となく分かって、少しだけ誰にも気付かれないよう、そっと表情を緩ませた。



自販機前のテーブルには、二つの紙コップが放置されたままになっている。
ひとつにはアイスオーレ。もう一つにはホットコーヒー。
オーレの方はクラッシュアイスが入っていて、まだまだひんやり冷たさを残していたが、ホットのコーヒーは若干ぬるくなっていた。
…ぬるくなっちゃってる…。このまま持って行ってもいいのかな。
それとも、買い直して持って行った方がいいのかな。
コーヒー一杯くらい、どうってことない値段だし。差し入れのつもりで、買い替えてもいいかも…。
しかし、中には銘柄などにこだわる人もいるし。
パッと見でも香りを嗅いでも、そのコーヒーがどの種類のものか分からない。
…どうしようかなあ…。
紙コップ二つを手に持ったまま、あかねはじっと考えていた。

「ミルクティで良いよね?」
チャラン…とコインが落ちる金属音がして、その後カタン…と紙コップが落ちる音がした。
声に気付いて振り返ると、友雅が自販機の前で、暖かいミルクティが出来上がるの待っている。
あっという間にミルクティは注ぎ終えられ、彼はあかねの手にある冷めたカップと、入れたての熱いカップとを交換する。

「さすがに驚いたよ。まさか、君がこんなところに来るなんてね。」
「…あの…ホントにその…別に意図的に来たわけじゃなくって…」
森村にレコーディングスタジオを見学させてやる、と言われて着いて来た。
だが、それがイノリたちの現場であるなんて知らなかったし、ここまで連れて来られて初めて教えられたのだ。
ライブに行きたいと頼んでいたくらいだから、好きなバンドの作業風景の方が親しみやすいだろうと。
前回の打上げパーティーに参加したので、メンバーも全く知らないわけでもないし、丁度スケジュールも立て込み過ぎているわけじゃないから、と思ったらしい。
でも、その話を聞いても…まさか友雅がここにいるなんて思ってなかった。
一緒に仕事をしていると聞いていたけれど…。

「仕事の邪魔して、すいません…」
申し訳なさそうにうつむくあかねの、背中を軽く友雅の手が叩く。
「邪魔だなんて思っていないよ。周りのスタッフは、私の機嫌が気がかりみたいだけれど…全然そんなことない。」
暖かい紙コップから、甘いミルクティの湯気が立ち上る。
天気の良い週末だけれど、空調の効いたスタジオでは暖かい飲み物でも、悪い気はしない。
「私は君のことを迷惑だなんて、今まで一度だって思った事はないよ。どんな場所であっても、それは変わらないから、気にしなくて良い。」
出来るだけゆっくりと、廊下を二人は歩く。
少し距離を置いて、外部の目からは必要以上の親しさを気付かせないようにして。

「仕事中だから他人行儀に振る舞うかもしれないけれど、決してそういうつもりじゃないから、誤解しないでくれるね?」
「……はい。分かりました。」
あかねがうなづくと、友雅はいつものように笑顔で応え返してくれた。
例えそのまま背を向けて、彼女よりも前を歩いて行ったとしても、その笑顔を信じていられるから…少し気持ちが安らいだ。



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Megumi,Ka

suga