足跡の向こうへ

 第4話
スタジオには、まだスタッフは全員揃っていない。
約束の時間は午後1時なのだが、まだ30分前であるから頭数もまばらだ。

「では、今後の契約料やその他につきましては、後ほど森村さんがいらした際にお話し合いという事で構いませんか?」
向かいのソファには、イノリとマネージャー。テーブルとコーヒーカップを挟んで、友雅は彼らの話を聞いている。
「高額の契約金を強要なんてしないから、難しく考えなくても良いよ。それほどの価値なんて、私にはないだろうし。」
そんな風に気楽に彼は答えるけれども、その力がどれほど、業界で垂涎の宝石と例えられているか。
契約料を吹っ掛けないかわりに、仕事選びはとにかく気まぐれ。
金で動かないから、なかなか首を縦に振らせるのに苦労する。
そのくせ、関わる仕事は外れなし。水準以上の評価を必ず残す力を持っている。
訳ありの肩書きを持つ彼の存在は、暗黙の了解が業界に浸透しているが、それでも彼の力を欲しがっている者は多い。
こうして、デビューから友雅の力をもらえるなんて、まったく運が良かったとしかいえない…と、マネージャーの彼は溜息を着いた。

「出来るだけ、こちらも森村さんと良い条件を出せるよう、頑張りますので。今後ともよろしくお願い致します。」
「はいはい。コケない程度に頑張らせてもらうよ。」
飲み干したコーヒーは、既にぬるくて美味くはなかった。
もう一杯、ちゃんと熱いものが飲みたいと思っていると、イノリが立ち上がって"コーラ買いに行く"と言ってポケットの中の小銭を鳴らした。
「ああ、それじゃついでにコーヒーも頼むよ」
「俺は使いっ走りかよっ」
イノリが言い返すと、彼に向かって百円玉が二枚放り投げられて、慌ててそれを手のひらでキャッチした。
「ブルマン、ブラックのホットでね。」
「……わーったよ。まったく人使い荒いオヤジだぜっ」
ブツブツ言いつつも、友雅の小銭もポケットの中に突っ込んで、彼はスタジオを出て行った。



ここは森村の会社が経営している、音楽スタジオ専用ビルだ。
地下1階地上4階。地下に駐車場、1Fは事務所・ロビー、2F・3Fに小さなスタジオが2つずつあり、4Fにはフロア全体を使った、規模の大きなスタジオが1つある。
その4階スタジオが、『Studio/No.5』。イノリたちの使用しているところだ。
廊下に出ると広々としたフロアがあり、公園側に向いて大きな窓が広がる。
明るい雰囲気の空間に、自販機などが並べられていた。

「えーと、ブルマン…砂糖なし、ミルクなし、と。」
ボタンを順々に押して行くと、紙コップが落ちてきて、香ばしいコーヒーの香りが立ち上って来た。
冷たいコーラでも飲もう、と来たにもかかわらず、その匂いに連れられてアイスコーヒーも良いかな、と気分が変わってしまったイノリは、ついアイスオーレのボタンを押してしまった。
ザラザラとクラッシュアイスが、コップの中に落ちる涼し気な音がする。
そして、液体が注がれ始めている間に、フロア奥にあるエレベーターのドアがゆっくりと開いた。
「あ、おはよーございま……」
いつも見慣れた顔が確認出来て、反射的にイノリは挨拶をしようとした…が、その声が突然途切れたのは、彼の後ろにいる一人の少女の姿が目に入ったからだった。
肩にかかるくらいの、サラサラした髪。ふわりとしたワンピースに、アイボリーのボレロ。

「もうみんな揃ってるのかな?」
「えっ?あ…いや、まだ…何人か来てないヤツが…。うちのベースは、ちょっと遅れるって連絡がありましたけどー…」
森村と普通に話をしているつもりでも、やっぱり彼女のことが気にかかる。
向こうも最初は少し驚いていたみたいだが、そのあとは何度も恐縮がちにイノリへ小さく頭を下げた。

「実はちょっとね、見学者を連れて来ているんだよ。マネージャーと、うちのスタッフはいるかい?」
「あ、いますけどー…」
「そうか。じゃあ先に、彼らに話をつけよう。あかねちゃん、着いておいで。」
そう言って彼は、後ろにいたあかねを手招きした。
落ち着かない様子で、彼女はちょこちょこと森村の後を着いて行く。そのあとを、イノリも慌てて着いて来た。

「おい、アンタ…どういうことだよ、これ」
森村に聞こえないように、イノリはあかねに耳打ちするように近付いて来た。
「す、すいません…あの…レコーディング風景を見学させてくれるって、おじさんが言ってくれて…」
「何でだよ?コネとか使って、スタジオに部外者が入るのは、例えファンでも感心しないぜ。」
ファンにはいつだって、一番良い音を聞かせたい。だから、試行錯誤している音などは聞かせたくない。
時には言い争いも起こるし、そんなプライベートな部分は夢を壊しかねない。
だから、スタジオには部外者の立ち入りはして欲しくない…とイノリはいつも思っていた。

「あの…違うんです。そういうんじゃなくて…その、将来の…社会見学っていうか、そういう感じで…」
「はあ?社会見学?」
どうもあかねの言葉の意味が分からず、もう一度尋ね返そうとしたが、森村が振り返ったのでイノリはパッと彼女から離れた。
「それじゃ、スタッフに挨拶しておこう。こっちにおいで。」
「は、はい…」
イノリの前をすり抜けて、あかねは足早にコントロール・ルームへと向かって歩いて行った。

「あ、あのさ!おっさん…は、どこにいるんだ?」
入れ替わりに出て来たスタッフを、イノリは徐に捕まえて尋ねた。
「橘さん?確かさっき、ミキサーと一緒にマシーン・ルームに入ってったよ。何か、機材を確認したいからって。」
マシーン・ルームと言えば…コントロール・ルームの奥にある部屋だ。
どうしようか。今から乗り込んでいって、彼女が来ていることを教えた方が良いだろうか。
だが、ミキサーが一緒だというし、他人がいるところで彼女の話をするのは…やっぱりまずいか。
悩みながらイノリは、コントロール・ルームに続くドアを開けた。


「実は息子の同級生でね、音楽関係の仕事に興味があるらしいんだよ。だから、ちょっと現場を見学させようと思って連れて来たんだが。」
「まあ、そういうことなら…。ただのファンでは、きゃあきゃあ騒がれると迷惑ですけど。」
森村はスタッフに説明をしている。
…って、音楽関係の仕事?もしかして、業界人志望なのか?彼女は。
そんなこと想像もしていなかったので、イノリは少し驚いた。
「森村さん、ちょっと。」
スタッフの一人が、森村を連れて来てひそひそと話す。
「…橘さんは良いんですか?あまり、部外者などに顔を知られたりされるの、嫌いじゃないですか」
「大丈夫だと思うよ。あの子はあれこれと、何でも人に話したがる子じゃない。今回の事も、内密にするようにと言ってあるから。」
というか、今更友雅はそんなことは気にしないだろう。
もちろんあの二人が、既に知り合いであることは、ここにいる殆どの者は知らないだろうし。
イノリがそんな風に考えていると、奥にあるドアが内側から前触れもなく開いた。

「だから、今はデジタル音源が殆どだけれど、敢えて彼らの場合はアナログ感を全面に出したいんだ。」
「ですが…機材が古いので、今のような音源市場ではどう受け入れられるか、分かりませんよ?」
「小綺麗に整った音より、ライブみたいな一発勝負の音の方が、彼らの迫力は出ると思う。試してみる価値はあるよ。」
「分かりました。じゃあいくつかデモを作って、音の変化を確認してみて……あ、森村さん、おはようございます」
ミキサーの一人が話の途中で、目の前にいる森村の姿を捕らえて挨拶をした。
が、それよりも見慣れない少女が、そこにいることの方が気になった。

「え、この子…どちらさん?もしかして、森村さんの娘さん…?」
確か高校生の娘がいると聞いていたし、見た感じは丁度それくらいの年令だ。
「いや、この子は息子の同級生で………」
森村が話している最中に、ミキサーの後ろからもう一人が顔を出した。

緩やかに束ねた髪を払い除け、会話中の二人をかき分けようと手を伸ばした、その視線の先。
一瞬、彼は自分の目を疑った。


「勝手に申し訳ありません。実は、この子は息子の友人でして、レコーディングスタジオの現場を見たいということで、今日見学に連れて来たんですよ。」
「…そう、ですか。」
「ご迷惑をかけるような子ではありませんから、今回はどうか、大目に見てもらえませんか?」
森村は気まずそうにしつつも、友雅に何とか了承を得ようとする。
だが、そんなことは何ひとつ必要はないのだ。
目の前に現れた彼の姿に、驚いて身動き出来ないほど硬直している彼女。
そんな彼女が自分に災いを起こすことなど、絶対ないと友雅自身が一番よく分かっている。

「構いませんよ。森村さんのご紹介なら、信用出来るでしょうし。」
一同がホッとした顔で、小さな溜息をついた。
もちろん、そこにいる彼女も。

「こちらは、今回のレコーディングの、総合プロデュースをしてくれている、橘友雅さんだよ。」
そう言って森村が、彼を紹介してくれた。
そのあとで、目の前にすっと大きな手が差し出される。
「"はじめまして"。よろしく。」
「あ……はい、よ……よろしくおねがいします…」
これまでに何度も握りしめた、その手はいつものように大きくて暖かくて。
言葉だけは他人行儀で、まるで本当に初対面のように繕っているけれど、そのぬくもりは何よりも馴染んだ優しい暖かさ。
あかねと、友雅にしか分からない意味が、握りあうその手に全て込められている。





-----THE END-----





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Megumi,Ka

suga