足跡の向こうへ

 第3話
自覚がなかったのだが、随分と長い間話をしていたらしく、痺れを切らした蘭が書斎のドアをノックした。
「ねえお父さん、あかねちゃんとお話、まだ終わらないの?もう結構時間遅くなってるよ。」
言われて壁の時計を見ると、もう10時半だ。
今日は平日。明日は学校があるのだから、いくら何でものんびりし過ぎだ。
「ああ、本当だ。でも話はまだ途中だから、お家へ送る車の中で続きは聞くよ。」
彼はそう言って、デスクの上にある小皿に置かれたキーを手にした。



一緒に着いて行く、とか言う蘭を何とか宥めて、あかねは天真の父が運転する車に乗り込む。
あかねの分として残しておいた、カフェオレプリンを手土産にと蘭に包んでもらい、夜の町へと車が走り出した頃には、もう11時が目前だった。
「こんなに遅くまでお邪魔しちゃって、すいませんでした。」
「いや、私は良いんだがね…。あかねちゃんは学校があるんだから、その方が心配だよ。」
イルミネーションが消えない町は、まだ人通りも絶えない。
公園近くを通りかかれば、楽器を持って歌う者を取り囲んで、客も一緒に盛り上がっている光景が見えた。
そう、あんな感じで…みんな一緒に楽しめるような、そんな音楽って良いなあ…。
まるで、すべてがひとつとして存在しているみたいに。


「あかねちゃん、さっきの話の続きだけれど…。私にコネとかを求められても、それは君の為にはならないよ?」
ゆっくりとハンドルを握りながら、運転席から穏やかな声が聞こえた。
「あ、ちがいます。そういう意味でお話したんじゃないんです。ただ、現場の生の声が聞きたくて…おじさんとお話したかったんです。」
彼はルームミラーをちらりと見て、後部座席にいるあかねの様子を伺った。
業界人であるから、そんなコネでの入社を期待して声を掛けられた事は、これまでに何度もあった。
だが、そんなものでやっていけるほど、この世界は甘くない。
最初からぬるま湯の感覚を覚えたら、先へ進むことなど無理だ。

彼女は…そういう性格の子ではないと思う。
天真や蘭との付き合いで、随分長く彼女を身近に見て来たけれど…はしゃぎまわって自分を見失うような子ではないし、礼儀正しいしっかりとした子だ。
そんな彼女だから、この間のライブの時も、裏からパスで入場させても構わないだろう、と思った。
案の定予測は的中し、イノリたち本人に対しても無闇に騒がず、心底嬉しそうにしていたからホッとした。

「具体的に、どういう仕事をしたいのか…というのは定めているの?」
赤信号で車が停まったとき、彼はあかねに問い掛けた。
ただ漠然と"音楽関係の仕事を"と言われても、何も分からないままでは就職なんて無理だ。例え自分の会社に雇うとしても、そんな社員では困る。
つい最近まで大学進学を目指していたのだから、急にそんな方向転換じゃ希望職種もまだまだ決まっていないんじゃないか。
そう考えていたのだが、意外にも彼女の答えは理路整然としていた。

「私は歌も演奏も出来ないし…そんなの、今からやって身に付くものじゃないです。ずっと一生懸命培って力になるものだから、直接音楽を作るような仕事は…無理だと思ってます。だから、マネージメントみたいな仕事をやりたいんです。」
「…さっき話をしたよね。少し厳しい言い方だけれど…営業にしてもプロデュース作業にしても、まっさらな知識でスタートして、すぐに追いつくものじゃあないんだよ?」
「分かってます。知識はあればあるだけ、戦力になりますよね。だから…そういう専門学校とかで学べば、少しは知識がつきますよね?」
専門学校、という言葉が彼女の口から出てきて、彼はもう一度ミラー越しにあかねの顔を見た。
「まさか大学進学をやめるつもりじゃ…」
天真から聞いたが、彼女の成績はかなり上昇していて、予定している志望校よりも上の大学を狙えるらしい。
これまで努力してきた結果が形となったのに、それを止めてまで他の新しい道を選ぶつもりなんだろうか?

「ネットとか雑誌とか本とか、どんな学校があるのかいろいろ調べました。学科とか科目も、どういうことが学べるかも目を通しました。
それで、私がやってみたいと思ったのが、マネージメントの仕事なんです。」
あかねはしっかりとした口調で、これまで自分が出来るだけ探し出せたことを、あれこれと話し始めた。
「レコーディングの企画立案とか、PVとか広報とか…。ライブ現場の音響関係の知識とか。フライヤーのデザインとか、作曲なんかの音楽理論の基礎知識とか…。
そういう総合的なマネージメントコースを設けている学校があるんです…。」
今まで考えもしなかった選択肢。
既に、いくつかの学校の案内書も取り寄せた。
どんな勉強をするのかも分かったし、学校の評判もネットで調べた。
「あかねちゃん、数年で一から知識を習得するのは、かなり大変なことだよ?」
「人一倍頑張る覚悟は…してます。出来ればバイトも音楽に触れられるものを見つけて、そういうところから現場で知識を得ようとも考えています。」
甘くないことはわかっている。
誰よりも努力しなければ、夢の世界で夢を追い掛けることは出来ないことを。


あかねの家の門が見えてきた。あと数十メートルで到着する。
彼は一旦手前で車を停めて、街路樹のそばに横付けしてから後ろを振り返った。
「こういう選択は、慎重に決めなくちゃいけないことだよ。御両親や学校の先生には、もう話しているのかい?」
眼鏡の奥にある穏やかな眼差しが、あかねを見る。
「まだ…です。おじさんのお話を聞いてから、ちゃんと判断しようって思ってて。でも、お話を聞いてやっぱりこの道を目指したいって、再認識したんです、私。」

"歌や演奏のかわりに、彼らをバックアップ出来る。そんな彼らが大きくなるのを夢見ることが出来る"
彼が言ったように、子どもが一人前になるのを見守れる。
そしてその時、一緒に感動や感激を分かち合える。
まるで戦友みたいに。まるで…同じ夢を追い掛ける仲間のような気持ちで。
だから、やってみたかった。
自分からはじめて、選びたいと思った答えが見つけられたのだ。

「だったら、一度現場を見てごらん。」
しばらく黙ってあかねの話を聞いていたが、彼はそう口を開いた。
「まだ願書を出すには、時間があるだろうし。それまでに現場に来て、実際の仕事を見てみると良いね。」
「仕事…の現場ですか?」
「そう。レコーディングスタジオに連れていってあげよう。今、進行中の企画があるから、立案風景や録音風景とかね。そういうのを見てから、判断しても遅くないと思うよ。」
彼女が真面目に考えているのは、話を聞いて十分に分かった。
しかし、それだけでは素直に背中を押せるまでには至らない。
もっと彼女が現場の空気に触れて、その生の感覚を知る必要がある。
それくらいのサポートなら、どちらに転んでも無駄にはならないだろう。

「今週の土曜日…学校はお休みだ。用事がなければ案内しても良いけれど、どうだろうね?」
「良いんですか?」
どんなことでも、チャンスがあれば空気に触れたい。
今は少しでも、吸収できるものが欲しい。
「お願いします!出来るだけ、いろんなものを知りたいんで…是非!」
「分かった。それじゃ、明日スタッフに話を付けておこう。」
停まっていた車はゆっくりと走り出し、もう一度ブレーキが掛かったのは、あかねの家の前だった。


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「結局、次のシングルも私が関わることになるとはねえ…。」
スタジオにやって来たとたん、イノリから差し出されたのは、次回のレコーディングについての企画書だった。
目を通すと、そこには彼の名前が書かれてある。
友雅は、ため息交じりにつぶやいた。
「今更他のヤツに頼んでも、俺らのポリシーとかスタイルとか、説明すんの面倒臭いじゃん。だったら、既に分かり切ってるおっさんに、引き続きやってもらった方が楽だってことだよ。」
とかなんとか言っているけれど、あれでイノリは友雅の音楽感性を気に入っているのだ。
最初は衝突する事も多かった。だが、徐々にレコーディングが進んで行くうちに、彼ならば自分たちの一番良い音を、良い形で作り上げてくれるのだ、という絶対的な信頼感が生まれた。
スタッフの立場としても、このまま出来る限り関わって行ってもらいたい、とイノリたちのマネージャーは思っていた。
ただ、それについては…友雅がうなづいてくれるか、が第一の問題なのだが。

契約書では、デビュー作のファーストアルバムのみのトータルプロデュース、という約束。
マキシシングルについては、アルバムからのシングルカットということで、何とか融通を利かせてもらったが…。
業界でも気難しさでは有名な彼のこと。
果たして、簡単にうなずいてくれるかどうか。

「まあいいよ。別に、他の仕事が詰まっているわけじゃないしね。」
彼は企画書をさっと目を通しただけで、それをすぐにイノリへ返した。
「では、引き続きご参加頂けますか」
「構わないよ。乗りかかった船って感じもあるしね。彼らがどう変われるか、また別の方向から観察するのも面白そうだし。」
「人を研究材料みたいに言うんじゃねー!」
冗談半分に小さな拳を友雅に仕向けてみると、彼もまたそれを笑いながら簡単に交わす。
はじめの頃の険悪ムードなんて、もうどこにも見えない。

彼らの関係と、あの友雅がすんなりと契約続行を受け入れてくれたこと。
マネージャーにとっては、目の前の光景は幸先良いものだった。



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Megumi,Ka

suga