Calling you,Calling me

 第1話
エアポート近くのシティホテル。
リゾートからの帰国客で混雑しているターミナルビルを、遠目に眺めながら友雅はロビーに佇んでいた。
意外に、こちらは人気が少ない。時折、日本語以外の会話が聞こえて来たり、それかビジネスマンの姿が見えるくらい。
「橘様が、ご到着になりました」
フロントスタッフが、館内電話で友雅の到着を告げる。
「22階の2255号室で、お待ちでございます。」
スタッフにルームナンバーを告げられると、友雅は光が四方から差し込む、明るいエレベーターへと向かった。


「申し訳有りません。実は明日の朝、アメリカに発つ予定なので…。」
広々としたプレシャススイートルームで、彼は友雅を待っていた。
たかだが一泊するだけの部屋で、こんな豪勢な部屋を借りるなんて…と思ったが、そんな友雅の様子を察知するかのように、頼久は熱いコーヒーを彼に差し出した。
「こういったお部屋の方が、第三者の目を気にせずにお話をして頂けるかと。」
「…成る程。そういう理由なら、贅沢も価値があるかな。」
アンティークなインテリア調度品と、華やかなアレンジメントフラワーが飾られた部屋とは、少し不釣り合いのように思えるシンプルなカップ。
濃いめにいれたコーヒーは、なかなか良い味だった。

「それで?それほど多忙な君が、私に話したいことなんて、何もないと思うんだけれどね?」
ソファに腰を下ろし、軽く足を組んで友雅は尋ねる。すると、頼久は立ち上がって、ライティングデスクの上のノートパソコンを持って戻って来た。
彼に向けて、モニタを開く。
既に起動されているようで、開けたとたんにぱっと液晶画面が明るく照らされる。
「ここ5年間の、我が社の経営状態の推移です。一応、目を通して頂ければと思いまして。」
カラフルなバーのグラフ、円グラフ、線グラフ、更に細かい表の中には、数字がきっちりと入力されていた。
5年前までの経営情報。しかし、ページをめくれば、創業までの過去データも完璧に保存されているらしい。
「さすが頼久。MBAを持つ敏腕エリート経営者、の肩書きは本物だね。」
指先でカーソルとキーボードを叩き、ぱらぱらと変わるグラフと概要に目を通す。
得意先の企業、個人所有者の情報、顧客管理はしっかり保存されている。

「…結構だね。バブルが崩壊したというのに、それでここまで安定しているのなら、十分だろう。」
パソコンから手を離し、友雅はカップに残ったコーヒーを飲み干した。
「これからも、よろしく頼むよ。何せ…祖父の忘れ形見のようなものだから、出来るだけ長く続けてもらえると有り難い。」
空になったカップが、ソーサーの上に戻される。
背もたれに重心を預けて、クラシックな模様の天井を仰ぐように、彼はだらりと少し身体の力を抜いた。


「それなら、私など外部の者ではなくて…やはり橘さんがお継ぎになられた方が、得策だと私は思いますが……」
頼久の声がして、友雅は目を開いた。
「…結局、またその話をしたくて、私をここに呼んだのか…」
「私は、あくまで経営を管理する力しかありません。ですが、創業者である橘さんのお祖父様は…そのような理由で、我が社を創られたわけではないことは、お孫さんでらっしゃる橘さんが、十分ご承知のことだと思います…。」
「少なくとも父よりは、良い理解者だったと自負はしているけれどもね」
ただ、音楽を純粋に好きで。
手のひらから生まれ出す、その音を心から愛していたから。
だからこそ、手作りにこだわった人だった。例え量産が出来なくても、手を抜くことをしない人だったから……。


「尚更、それならば橘さんが継いで頂く方が、お祖父様もお喜びになられると思います…」
ふう…と、友雅は気怠そうに大きな溜息をついた。
何度、同じ事を聞かされただろう。これまでに、繰り返し繰り返し、同じ事を飽きもせず言われ続けて。
「…それは、もう何度も断っているだろう?私は、経営なんてものは出来ない。そりゃ、音楽に関しては人一倍こだわりがあると思うよ。でも、それは経営とは関係ない。」
自分は、経営者の器ではない。
下に仕える者たちを気遣う余裕なんて、自分には存在しない。
だが、経営者はそれが重要なことだ。それだけでも、自分が会社を担う者としての資格は兼ね備えていないはずだ…と、友雅は思っている。

「だから、一番信頼出来る筋の中から、君を選んで会社を任せているんだよ。事実、これだけの安定した業績を保持しているじゃないか。」
頼久は、親類縁者の関係筋ではなかった。
彼の祖父は、友雅の祖父がこの工房を設立する前から、職人として腕を振るっていた人だった。
いわば彼の祖父は、友雅の祖父と戦友のようなもので、他人の中では一番信頼出来る人だった。
生憎、七年ほど前に他界したが、それまで彼は工房の責任者として会社を率いてくれた。彼が育てた新しい職人たちもまた、今も工房を支える大切な人材だ。
そして、彼の孫の頼久が経営学を学んでいるということで、友雅は彼に工房の全責任を任せることを決めた。
オックスフォードでMBAを修めた実力は、この業績にも現れている。

「私なんかに任せたら、すぐにでも工房なんて潰れてしまうよ?もし、祖父と…そして君のお祖父上の事を思うのであれば、君が会社を支えてくれた方が、ずっと良いはずだ。私は……いいよ。」
すると、頼久は真っすぐな目で友雅を見て、言った。
「お祖父様のご意志であっても……ですか?」
友雅は、一瞬だが言葉を失った。

「…困らせないでくれないか。私だって、継ぎたくないわけじゃないんだよ。彼の意志を引き継ぐ自信は、ある。でも、それは会社経営ではなくて、彼の音楽の意志を継ぐことでね……」
私は、音楽に触れていたいんだ。まっさらな状態で、音に触れていたいんだ。
彼がそう願ったように、私もそうやって生きていたいんだ。
これまで不透明なまま誤摩化していたことが、今は鮮明な答えを言える。
自ら溢れ出してくる音を、拾い集めて形にしたい。彼が与えてくれた、あのギターの弦を途切れさせたくない。
そして、そこから生まれる音をずっと……愛していきたい。
-----------求めてくれる人が、そこにいるから。


「橘さん…もしも、貴方が工房を継ぐつもりがあるのでしたら、私はすぐにでも椅子を明け渡すつもりです。ですが、常に私は全力を尽くして、今後も貴方をサポートしていきます。」
「頼久…私はそのつもりはないと、今も言ったはずだよ?」
彼の視線が真っすぐすぎて、友雅には少し痛かった。
その気持ちが否応でも分かるだけに、彼もまた辛い立場だったが、だからと言ってうなずくことは出来ない。
「それとも、お父様の会社の方をお継ぎになるおつもりですか?」
「……。」
友雅は、首を横に振った。

空になった友雅のカップに、二杯目の熱いコーヒーを注いだ。
ほろ苦い香りが湯気に混ざり合う。窓から見える青空には、銀色のジェット機が直線を描いて飛び立って行く姿が見えた。
「……未だに、あちらの方々からも、打診がお有りですか?」
「まあ、ね。君と違って、向こうは諦めの悪い面々が揃っていてね…。あまりにしつこいから、最近は彼らに見つからないよう、ひっそりとした生活習慣が身に付いてしまったよ。」
笑いながら友雅は、コーヒーを口に付けた。
冷房の効いた部屋では、残暑が続く日中でも熱い飲み物が丁度良い。

「ですが、あちらの方もやはり…橘さんに後を継いで頂きたい気持ちは、変わりないのでしょう。」
「それこそ、あまりにお門違いだと思うよ?」
既に国内ではトップクラスの楽器メーカーで、海外にも直営店を持っている、グローバルな一大企業。
そんな会社を継ぐなんてこと、とてもリアルには考えられない。
例えそれが、父が社長を務めていた会社で、子供は友雅しかいなかったから…という筋書きがあっても、だ。
「面倒な遺言を、残してしまったらしいからね…父は。」
それさえなければ、いくらでも企業内で新しい人事を選べると思うのだが。
たった一通、父が残した遺言状が、十年経った今も友雅を縛り付けている。

「弁護士の方に、お断りはされたのですか?」
「…わざわざ言うこともないだろう。ここまで避けているんだから、その気がないことは明確だと思うがね。」
住居を調べ上げては、何度も同じ書類を送りつけてくる。
時折、彼女が踏み込んで来て、やや強引に詰め寄ってくることもある。正直なところ、うんざりだ。
「ですが、相続放棄するのであれば、きちんと弁護士の方とお話をされた方が…」
立ち入ったことではあるが、敢えて頼久がそう口を挟むと、友雅は苦笑しながら頭を抱えた。
「そうだね…」
その声は、少し乾いたように空虚な笑い声だった。

自分は、逃げているのだと思う。
双方から答えを求められて、迷いながら答えを出せずに…。
口ではその気がないと言いながら、はっきりと放棄出来ずにいる…ずっと前から。
本当に彼らの圧力が鬱陶しいと思うなら、頼久が言うように真っ向から放棄手続きをすればいいはずなのに、それをせずに逃げ続けている。
選ぶのが怖い、のかもしれない。
そのあとに、どんな後悔が待っているのか…と考えてしまう。
希望よりも、絶望。
選ばなかった方を、あとから選べば良かったと悔やんでも仕方がない。
そうなってしまったら…と思うと、前に進めずに来た道を逃げるばかりで……ずるいな、と客観的にも思う。

もしも……どちらかを選択しなくてはならないなら、自分は何を優先すれば良いんだろう?



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Megumi,Ka

suga