Let it be

 第3話
集合時間にはまだ早かったらしく、スタジオには未だにスタッフが揃っていない。
イノリたちのメンバーも、二人が未到着。
もうしばらく暇な時間が続きそうだ。

「このギターケースは、誰の所有物なんだい?」
スタジオの隅に置いてあった、黒いギターケースを指差して友雅が尋ねた。
「あー、それはこないだ、森村のおっさんが提供してくれたんだよ。俺らは自前のギターがあるけど、アンタは普通は持っていないだろうから、って」
イノリたちのグループのギタリストに、アコースティックギターを教えている友雅を見て、彼にも一台用意しておいた方がいいんじゃないか、ということで置いて行ったらしい。
「お手本とかで弾いて聞かせる事もあるだろうから、アンタ用にってさ。だから勝手に使ってもいいんじゃん?」
食べかけになっていたパンをかじりながら、それらをコーラで流し込んでイノリは答えた。

そのギターケースを、じっと眺める。
黒いレザーの表面に刻まれた、小さな金色のブランド名-------"Orangea"。
……森村がこれを置いていったのは、わざとに違いない。
でも、そのわざと、というのはどういう意味があってのことなんだろうか。
長年愛用しているD-45よりも、ずっと自分にとっては身近な名前。
同じメーカーのギターを数本持っているが、殆どケースから出した事もないし、弾いた事もない。
身近であって、とても遠い。時間だけを刻む楽器。
世界中に多くの有名メーカーがあるにも関わらず、それをここで使えと置いていった森村の意志は、何なんだろう?

友雅は、グレイッシュブルーのジャケットを脱いで、イノリが座るソファの方へ無造作に投げた。
ぱさっと彼の隣に落ちて来ると、それと同時にピンク色の封筒が一通、床に向かってはらりとこぼれた。
うっすらと小花模様の浮き彫り。差出人の名前も宛名もないが、少なくとも書いたのは女性であることは一目瞭然。
「おっさん、ラブレターが落っこちたぜー」
ぴらぴらと封筒をちらつかせて、ニヤリと笑うイノリがこちらを向いている。
「例の彼女から?」
「それなら良いんだがね。どうやら君らへのファンレターらしいよ。さっき、入口で女の子に手渡されたんだ。」
何だ、ファンレターか…。ラブレターなら冷やかしてやろうと思ったのに、とイノリはつまらなそうに封筒を見た。

「でも、これ…誰宛てなんだろ。何も書いてねえからなあ…」
送り主の名前はともかく、普通なら宛名くらいは書くだろう。
そうでもしなけりゃ、相手に届かないのだから。
とは言っても、このまま捨てるなんて出来ないし。かと言って、他人宛ての手紙を覗くのも気が引けるし。
「仕方がないんじゃないかい?取り敢えず封を切って、最初の書き出しだけでも見れば、誰宛か分かるんじゃないかな。君宛てじゃなければ、その先は読まなければ良いだろうし。」
「うーん……だよなあ。しょうがないかあ…」
それでも罪悪感は否めないが、何度も心の中で見ず知らずの差出人に頭を下げつつ、イノリは思い切って封を開けた。


「あのさあー………」
友雅はギターケースと向き合ったまま、中身を取り出さずにメーカーの名前を、じっと見つめている。
「おっさん、聞いてる?」
「…ん?」
イノリが自分を呼んでいることに気付いて、友雅はそちらを振り返った。
すると、彼はさっき開けた封筒の中身を、まるで勝訴と書かれた紙のようにこちらへ向けている。
「これさあ、おっさん宛ての手紙」
「私に?別に、他人から手紙をもらうような事は、思い当たらないけれどもね?」
ギターの前から離れて、友雅はイノリの方へと戻って来た。
その彼に、イノリは封筒と便せんをそのまま手渡す。
「つうか、おっさん宛てのファンレターだよっ」
封筒とお揃いの便せんの中には、まだまだ幼さが残る丸みを帯びた手書き文字が綴られていた。

「"スタジオに入って行くのを、よくお見かけしていました"ってさ。"どんなお仕事をしているんですか"だって。アンタってさあ、ホンットあっさり簡単に、女の目を惹き付けるよな!」
呆れるようなイノリの言葉を聞きながら、手渡された手紙を友雅は封筒へ戻す。
二枚の手紙だったが、一枚目の最初の文だけしか目を通していないみたいだ。
「珍しい子もいるもんだねえ。こんな男に興味あるなんて。」
「うわ、いかにも"こんなもの日常茶飯事”みたいなツラしやがって」
動揺はおろか、表情は全くいつもと変わらず平然としたまま。顔色ひとつ変えず、びくともしない。
イノリ達でさえ、未だに女の子からのファンレターには、たまにワクワクしたりするというのに。
「だって、私はただのスタッフに過ぎないのだし。君らはステージに立つのだから、人の興味を惹くのは当然だけれど…どうして私を気にするんだろうね」
そういう問題じゃねえんだよっ!と、腹の中でイノリは思った。
黙っていたって、彼は周囲の視線を集めてしまう"何か"があるのだ。
もちろんそれは華やかな風貌もあるけれど、それ以外にも強いオーラみたいな何かがある。
…ま、女に対してはフェロモンと言った方がピンと来るか…。
ピンクの封筒をテーブルに置いたあと、何事もなかったかのように友雅はギターの方へと戻って行く。

しばらくすると、スタジオに澄んだ音が響き始めた。
ケースから取り出したギターを手にして、友雅の指先が弦を弾き、メロディーを生み出す。
「へえー、『Let It Be』?ギターだけの『Let It Be』なんて、俺もしかしてはじめて聞いたかも。」
誰もが知ってる、ビートルズの名曲中の名曲。
イントロから前半に掛けては、ピアノ伴奏のみのオリジナルの印象が強いから、ギターのみの演奏は滅多に聞いたことがなくて新鮮だ。
イノリはその音に耳を傾け、自然に目を閉じた。
少しひんやりとした硬質の音だけれど、その中に風のような清々しさを覚える。
緑の野原に立ち尽くして、流れて行く風を感じている気分だ。

…………良い音。
素直に、その言葉が頭に浮かんだ。
乱れのない旋律が、情景をも描き出す。いつものD-45とは違うけれど、彼にはブランドも種類も関係ないみたいだ。

2コーラス目の半分まで進んだときだったぱたっと、突然メロディーが停止して、イノリは閉じていた目を開けて起き上がる。
「どしたの、おっさん」
友雅の方を見ると、彼はうなだれるように前髪を掻きあげて、ひとつ深いため息をついた。
「『Let It Be』…なんて、このギターで弾くもんじゃないね」
「え?」
彼は椅子から立ち上がり、それまで抱えていたギターを再びケースへと戻した。

まるで棺に遺体を納めるみたいだな、と思いながら友雅は苦笑いをする。
このまま埋葬してしまえば、もう手に触れる機会はなくなるだろうか。
いや、どのみち一生離れられないんだろう。
"これ"も、そして…もうひとつの"あれ"も。
その証拠に、何十年も触れていないのに、指先が弦の感触を覚えている。
思い出さなくても、刻まれた記憶は消えない。

「ちょっと頭を冷やしてくるよ。どっちみち、まだ全員集合までは時間が掛かるみたいだし、構わないだろう?」
「あ、まあ…いいけど」
脱いだジャケットをそのままに、缶コーヒーも飲みかけのまま。
たいして目を通してもいない封筒も置き去りに、友雅はスタジオから出て行った。
"頭を冷やす”って、どういうことだろ?
別に気になることなんて、何もなかったと思うのだが…何故、そんなことを彼はつぶやいたんだろう。
友雅の手によって、再びケースに納められたギターは、演奏者を失ったまま黙ってそこに佇んでいる。




スーツケースの中は、すべて用意が整えられた。
パスポート、ワシントン行きの往復航空券。そしてノートパソコンと諸々の書類。
明日はターミナルのホテルに泊まり、次の日の朝一番で今年4度目になる渡米だ。

大規模な企業ではないが、こうした一対一の親密な交流を怠らないことで、今では一大メーカーにもひけをとらない工房となった。
社長の座を任される由来はないけれど、引き受けた責任を常に感じていなくては、と思い続けている。
何よりも、創業者と共に工房を作り上げた祖父と、父から聞かされてきたこの工房への思い入れを無視する事は出来ない。
本当は自分なんかより、ここを引き継ぐに相応しい者がいるけれど……せめて、その彼がうなづいてくれる時が来るまでは、社長代理のつもりで取り掛かろう。
そんな日が、果たしてやって来るかは…分からないが。

デスクの上にある携帯電話が、事務的なデジタル音と共に小刻みに震え出した。
発信者の名前はなく、公衆電話から掛かって来ているらしい。
頼久は、通話ボタンを押して耳を澄ます。

『連絡するという約束は、これで守った事になるよね?』
今しがたまで考えていた彼の声が、電話の向こうから聞こえて来た。



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Megumi,Ka

suga