Let it be

 第2話
「今になってスランプかよ?」
「違うよ…ホントはずっと前から、色々悩んでたの。」
だったらスランプなのに、どうしてこんなに成績が上がるんだ?と天真は不思議そうに尋ねる。
多分あの時、彼に出会っていなかったら………抜け出せずにいたに違いない。
でも、地の底から這い上がってきても、今度は根本的な疑問が立ちはだかる。
「そりゃ成績が上がって、上を目指すことも出来るって言われたのは嬉しいよ。でもね、そこまでして受験する意味って、何だろうなって思っちゃうの。その大学に行きたい理由とか、その大学で勉強して何かになりたいとかって…ないの」
「うーん…まあ、でもみんなそういうもんじゃねえ?肩書きが欲しいっていうか、学歴とか目当てとかさ」
良い大学を卒業すれば、箔がつく。それだけで高評価を得られる。
就職にも有利になるかもしれない。
でも、それだけのために4年間と受験生活を全て注ぎ込む必要はあるのか?

大学なんか行かなくても…生き生きと人生を楽しんでいる人達はたくさんいる。
夢を持った人たちは、みんな輝いている。
もちろん、夢を叶える為に大学進学が必要ならば、頑張る価値はあるかもしれないけれど…
……私には、それがないんだ。
あかねは、気付いてしまった。

イノリたちのバンド「Red Butterfly」。
彼らだって、自分と殆ど同じ世代なのに、夢と音楽を抱えているだけであんなに華やかに見える。
好きなことを追いかけて行くことが、どれほど人を輝かせてくれるか。
彼らのステージと、彼らの音を聞いて知った。
あんな風に輝ける彼らが羨ましい。
自分も、あんな風に生きて行けたら良い……真剣に思った。
でも、それに大切な目標や夢が見つけられずにいる。

「ほら、何か興味ある事とかさ、気になることとか。そーいう方向の事を目指すってのはどうよ?」
「興味があること……?」
「何事も、興味とか好奇心とかが、やる気につながるって言うじゃん。だからさ、そういう道を目指すとかさ」
天真の言葉が、胸の中に刻まれて行く。
興味がある事は何だろう?
今、一番興味があることは…気になることは…重かった足取りを軽くしてくれた、あの人のこと。
彼と過ごすようになってから、授業では教えてもらえなかった、音楽の持つ力をたくさん知った。
ただ耳で聞くだけの音楽が、どんな風に作られて行くのか。
ひとつの旋律の力が、どれほど大きな力を持っているのか。
それを教えてくれたのは…すべて彼だ。

ひとつのギターと、その指先だけで生まれる音。つまびく糸の響きが、そのまま心に共鳴する。
好きな歌とか好きな曲とか、そんなものじゃない。
身体と心に通じ合える音の存在を、気付かせてくれたのは……。

もっと、あの音を聞きたい。そう、いつも思っている。
何度も繰り返し、同じ事を考える。

「強いて言えば……音楽、かな…」
何気なく、あかねはそう口にした。

+++++

カレンダーの数字は、今日から9月に変わったはずだ。
その証拠に、昼間の街中で若者の姿を見かけるのがぐっと減った。
とは言え、例外もあったりする。相変わらずスタジオの周辺には、十代の少女たちが集まっている。

「あ、あの…イノリくんたちのバンドの、スタッフの方なんですか!?」
少し離れた駐車場から友雅の姿が見えると、その中の数人が駆け寄って来た。
常に出待ちをしているグループの少女だ。毎日のように顔を見ていれば顔も覚えて来るし、それに、必ず話しかけて来る子は限定されている。
「悪いけれど、私は関係者どころか無関係者というくらいの人間でね。君たちのお目当ての彼とは、全くパイプもないよ。」
おそらくスタッフの一人に近付けば、運良くメンバーとお近づきになれるかも、という無邪気な魂胆だろう、と友雅は思っていた。

しかし、これまた中には例外がいるもので。
「あのお……これ!」
急に横から差し出されたのは、ピンク色の封筒一通。
振り向くと、そこには恥ずかしそうにうつむく少女がいる。
「仕方ないな…分かったよ。今回だけは特別に、ちゃんとスタッフに言ってメンバーに渡してもらうよ。」
そう言って友雅は、封筒を受け取ってジャケットの内ポケットに差し込んだ。

賑やかな少女たちの声を背に、友雅はスタジオへと消えて行く。
その姿をカメラにおさめようと、携帯を構えている彼女たちの仕草には全く気付いていなかった。



スタジオに入ると、ソファに身体を投げ出して居眠りしているイノリがいた。
テーブルの上には食べかけのパン、サラダ、そしてコーラのペットボトル。
友雅は氷で濡れたグラスを手に取り、それらをイノリの頬にそっと近付ける。
……ぽとん、と雫が顔に落ちた。
「うひゃあっ!!」
思わず飛び起きたイノリが見たものは、悪びれた様子も見せずに微笑む友雅の姿だった。
「あまり昼間から睡眠を取ってると、夜に寝られなくなるよ」
「う、うるせーっ!びっくりさせんなよ!!雨でも降って来たかと思ったじゃんか!」
「雨漏りするようなスタジオじゃ、仕事にならないだろうに。」
我が家みたいな古い家ならともかく、と笑いながら彼は隣に腰を下ろした。
そして、自前の(多分スタジオの外にある自販機のもの)缶コーヒーを開けると、それで喉を少し潤した。

「この間のライヴは、随分と良い出来だったみたいだね」
ソファの横に落ちていたものを拾い上げ、その記事を見ながら友雅は話す。
一見はチラシのように見えるが、それはライヴハウス専門のフリーペーパーである。市内にある各ライヴハウスのスケジュールや、ライヴレポートなどが載っているもので、スタジオ近くの店には必ずと言って良いほど置いてある。
そして今回の一面トップは、一昨日行われたイノリたちのライヴ記事だった。
「『メジャーデビューに向けて、良い意味での変化を見せつけた』…か。オーディエンスにも業界人にも、満足してもらえるライヴで良かったじゃないか。」
「…まあ、な。」
頭を掻きながら友雅の言葉を聞くイノリは、まんざら悪い気もしないといった表情でコーラを啜る。
これまでとは違う意味合いのライヴであったから、始まるまでは柄にもなく緊張して胃が痛んだりもしたけれど、結果的には自分達も観客も、満足行くステージだったと思う。
やっと第一段階を突破した、という気分だ。
もちろん、正式なデビューには、まだまだ道のりは長い。

「ああ、そういえば…そのライヴを彼女が見に行ったらしいけれど。」
名前も知らないバンドの記事を、適当に目で追いながら友雅が口を開く。
その瞬間、イノリの中にあかねの泣き顔が浮かんで、どきっと心臓が震えた。
…もしかして、あの子が泣いたことがバレて、俺が泣かしたんじゃないかとか思われてるんじゃ…。
びくびくしながら、その先の言葉を待つ。
「すごく良かったと言っていたよ。打ち上げの席でも色々世話になったみたいで、私からも礼を言うよ。」
友雅はこちらを振り向かず、記事に視線を落としているけれど、その横顔は穏やかな表情だ。
イノリの緊張は、どうやら思い過ごしだったらしく、ホッと肩の力を抜いた。

「彼女も、君たちのバンドを気に入ったみたいだから、せいぜいその期待を裏切らないように頼むよ?」
「わ、分かってらあ。俺らよりも、プロデューサーのアンタの方こそ、手を抜いたりすんじゃねえぞっ!」
友雅はソファから立ち上がり、光が差し込む窓ガラスをブラインドで塞いだ。
すき間から見える階下には、まださっきの少女達の姿がある。
威勢のいいイノリの牽制を、振り向いた彼は笑いながら交わす。
「そりゃ勿論。彼女が聞く曲なら、手抜きなんて一切しないさ。例えそれが、他人の作品をプロデュースする作業であってもね。」
その音の向こうに、彼女が耳を澄ましているのであれば。
一番良い音を創り出せるまで、妥協なんか絶対にするものか。
自分が生み出す音を、涙で感じ取ってくれた彼女の事を考えていれば、音は必ず輝きを増して来る。

「その代わり、満足行く仕上がりになるまで、何度でもリテイクは辞さないよ。それでも着いて来られるかい?」
表面上は柔らかな表情でも、中身は意外と職人気質。
その手厳しさは、この数ヶ月の共同作業で十分に分かった。
でも、それでも逃げたくない。
負けるような気がしてムカつくし、どれだけ手間がかかっても、仕上がった作品は完璧なものになることが結果として現れている。
悔しいけれど、信頼せざるを得ない力が友雅にはある。

「……望むところだッ!アンタが文句も言えないくらいのモノを、見せつけてやるから覚悟しろよ!」
「ふふ、良い返事だ。期待しているよ。」
少年らしい素直な態度と台詞に、友雅はふと笑みがこぼれた。


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Megumi,Ka

suga