Let it be

 第1話
まだまだ外は真夏日に近い日差しなのに、カレンダーはもう秋の気配を先走りしている。
今日から9月。二学期のはじまりだ。
受験生にとっては、いよいよ正念場突入。わずかな油断さえも命取りになる、そんな時期がついにやってきてしまった。

「おはよー天真くん。」
学校に続く遊歩道を歩いていると、見慣れた背中が目の前にあって、思わずあかねは彼の背中を叩いた。
「おう。はじまっちまったなあ、二学期。あー、かったりーなあー…」
休みボケで身体がすっきりしないと言いながら、彼は足取りを少し緩めてあかねと歩幅を合わせる。
制服姿の学生たちが、緑の街路樹の下を歩く。自転車で道路の隅を、すうっと走り抜けて行く者もいる。
暑さは遠のいてくれないが、朝の空気は活気に満ちていて爽快だ。

「きゃー!じゃあ、結局彼氏と清里でお泊まりしちゃったのー!?」
賑やかな女生徒の声が、背後から聞こえてきた。
歩きながら後ろを振り向くと、二人の生徒が真っ赤な顔をした一人を挟みながら、きゃあきゃあとはしゃいでいる。
「…夏休みって長いから…いろいろあるよね…」
少し気恥ずかしそうに笑うあかねを、天真がひじで軽く突く。
「そーいうおまえも他人事じゃねーだろ。"ひと夏の経験"って?」
「なっ…そ、そういうわけじゃないって言ってるじゃない!」
「あ、悪い。別にお泊まりは初めてじゃなかったよなあ…確か。じゃあ、そんとき既に…」
「いやーっ!!変な詮索しないでーっ!な、な、何でもないんだってばっ!!」
彼の部屋に泊まった、と言えば…そういう風に疑われても仕方のない事かもしれないけれど。
でも、本当に何もなかったのだから、それ以上は答えようがない。

「おはようあかねちゃん!天真先輩!」
後ろから駆け足で追いついた詩紋が、二人の横に並んだ。
「あれ?どうしたの…?あかねちゃん顔が真っ赤だけど」
「いやさぁ、あかねのヤツ、受験生だってのにお泊……うごご!」
慌ててあかねが、天真の口を背後から押さえ込んだ。これ以上の事を口外されたら、とんでもないことになってしまいそうだ。
「はあ…おまえな!俺の息を止めるつもりかよ!!」
「天真くんがペラペラと言うからでしょ!!」
朝から落ち着きのない二人の様子を、詩紋はぽかんと首をかしげて眺めていた。

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放課後、あかねは担任に呼び出された。理由はもちろん、受験と進路についての話である。
彼女の担任は進路指導を受け持っているが故に、何かと普段から声をかけて来るが、今回はこれまでよりも真剣な話し合いだ。
「そういうわけで、元宮さんの受験についてのことだけれども」
昼下がりの視聴覚室。机の上には、あかねのこれまでの成績推移表や、模擬試験等の答案用紙が閉じられたファイル。
それらを開きながら、担任は口を開いた。
「5〜6月頃から、本当にびっくりするほど成績が安定して来たね。」
その言葉を聞いて、あかねはそれまでの緊張がすうっと解けて行くのを感じて、ホッと息を着いた。

見せられた成績推移のグラフは、5月末から綺麗な曲線で伸び上がっている。
そして現在。十分なレベルに達してからは、わずかな波を描く程度で降下するところは一切ない。
特定な科目に限ったことではなく、全教科に渡って安定した成績が継続していた。
「模擬試験の成績も、予備校の成績も参考に見せてもらったけど…うん、申し分ない仕上がりだ。以前は波があって不安定だったから心配もあったけれど、数ヶ月に渡ってこの安定した状態なら、志望校は十分合格ラインだ。」
「あ、ありがとうございます……」
ぺこりと頭を下げて、あかねはこれまでの事を思い出した。
そう、春先は目の前がぼんやりと不透明で、先に何があるのか分からなかった。
自分がいる場所さえも、ハッキリせずに。
その突破口が見つかったのは………彼と出会ってから。
彼の音が、あかねの心を揺らしてくれた時から、何かが変わった。

「それで、今回元宮さんに話をしたかったのはね、志望校のことなんだけれど、A大に引き上げてみる気はないかと思ってね。」
「えっ…A大?」
急に担任が切り出した話に、一瞬あかねは戸惑いを隠せなかった。
担任が口にしたその学校の名前は、現在の志望校であるB大と同じ国公立大学の中でも、トップクラスの学校だった。
これまで自分には縁のないところだと思って、進学なんて一度も考えたこともなかった大学だ。
まさかそれを、担任の方から薦められることになるとは……。
「今の元宮さんなら…正直勿体ないんだよね。志望している学部だってA大にも同じところはあるし。」
「で、でも私なんかじゃ…何とか頑張ってB大へ、と思ってて…」
そのB大でさえも、一時はダメかもしれないと落ち込んでいたのに、それを飛び越えてA大を志望するなんて実感がない。
自分が来年の春、A大生になっているビジョンも浮かばない。

しかし、担任はどうにも諦めきれない様子で、あかねの顔をもう一度見る。
「願書提出まではもう少し時間があるから、考えてみてはどうかな。どうしてもB大に行きたいっていう、理由があるなら仕方がないけれども。」
ファイルが閉じられ、机の上に戻される。
担任の視線に含まれる問いかけに、答える言葉があかねには見つからない。

A大なんか無理だ。だからその下のB大で十分。
……それだけ?
じゃあ、そのB大に進学したい理由は、何?A大も大丈夫と言われているのに、挑戦しない理由はなんだ?
……何だろう。何もない。ただ、漠然と選んだ志望校だ。
国公立B大と、その他に私立のD女子大。
では、その私立にこだわる理由は何だ?……それもまた、思い当たらない。
そもそも、どうして決めたのかが分からなかった。
そんな、先の事も考えないで苦労して大学に行って…そのあとは何を目指して勉強すればいいんだろう。

「ギリギリまで待つから、ゆっくり考えてみると良いよ。君の将来のことなんだからね。」
担任は最後に、そう言って締めくくった。
その将来が見えないから……答えが出て来ないのに。



担任と話を終えたあと、帰りを待っていてくれた天真と校門前で落ち合った。
下校の寄り道コースは大概、ファーストフードかコンビニに寄ってから公園でのんびりがお決まり。
今日は天気が良いから、ペットボトルとスナックを手にベンチに腰を下ろす。
「何だって?いつからおまえ、そんなに秀才になったんだよ!?」
あかねから話を聞いた天真は、飲みかけのコーラを落としそうになった。
これまでは至って普通の、中の中くらいという平均的成績だと思っていたあかねが、A大進学を教師から薦められるなんて信じられなかった。
「……私だってびっくりだよ…。ただ、調子は良いなって感じはしてたけど、成績が上がった感じは実感なかったし」
「でもよ、実際成績が上がってんだろ?」
改めて見れば、そうだった、という感覚なのだ。
まったく普通に無理なく毎日が過ぎて、気付いたらこんなことになっていて。

「しかしA大かあ……。すっげえな、おまえ。頑張ったんだな。」
驚きながらも天真は、あかねの事を感心しながら頭を撫でてくれる。
「でもね……どうなんだろ。私、A大なんて志望しても良いのかな…」
ぽつりと本音をつぶやいたあかねは、汗のかいたレモンソーダのペットボトルを、半分も飲まずにぼんやりと足元を見る。
「何で。上の大学に行けるって担任が言うんだから、自信もってやれば良いじゃんかよ。そのために頑張って来たんだろ?」
「そうなんだけど。でもその頑張りって、何のためなんだろうなあって思って。」
急に何を言い出すんだろうかと、おそらく天真は疑問を感じただろう。
だが、思えばこれは、もう何回も考えていることだった。

何故自分は大学に行きたいのか。
それが分からずに、八方ふさがりになっていた。
春先の頃、身体も頭も重く感じて、勉強に身が入らなかったスランプの時期。
その理由は、自分が大学に行くために努力している事が、その先の自分にとって必要なことなのか、ということ。
答えが見つからずに、迷っていたのだ。



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Megumi,Ka

suga