夜に隠れて

 第4話
「その言葉、そっくりそのまま私も君に返すよ。」
友雅は、弦から指先を離した。
「私も今の今まで、昔のことなんてろくな想い出がないから、って知らぬ振りをしていた。でも、さっき君が言った言葉がなかったら、私は祖父がこのギターに込めた意味も分からずにいたよ。」
「で、でもそれは私の…素人の言う事だから、信用出来るものじゃないって…」
身を乗り出したあかねの手を、彼の手が握りしめた。
「君がそう言っても、私は信じてる。君の言葉以外は、信じるつもりはない。」
強く握られた手の力。それと同じくらいの力で、胸の奥が締め付けられて、きゅんと音を立てる。
彼の指先の温度は、あかねの体温へと溶けて行く。同調して行く。
少しだけ熱いと感じるのは、胸の鼓動が早まっているから。

……あ。
彼の瞳に見つめられるのが照れくさくて、あかねはわざと視線を逸らしてみた。
そこに見えたのは、彼が抱えているギターのボディにある、小さな傷。
「ギター、傷が付いちゃってるんですね…。古いものならしょうがないのかな…」
片方の指先で、そっと傷の表面をなぞってみた。それほど深い傷ではなくて、ほんの擦り傷、かすり傷程度のようだ。
元々古いギターらしいし、これまでずっと愛用してきたのだろう。そう思えば、仕方のないことなのかもしれない。

「ほら、やっぱりそうだ。」
そう言って、友雅は笑った。
「見過ごすような小さい傷を、どうして君は見つけてしまうんだろうね。」
「え…だって、こんなに近くで見ていれば、誰だって分かるんじゃ…。」
「そんなことはないよ。初めてだ、その傷に気付いた人は。」
仕事柄、演奏しているところを見られるのは日常茶飯事だ。
それに、先日のイノリのように、他人にこのギターを弾かせてやる機会も、たまにある。
だが、それでもこの傷に気付いた者は一人もいない。見過ごすほどの小さな、ささいな傷なのだ。
「それを、君は見つけてしまうんだからねえ…」
あかねがそうしたように、友雅もまたその傷をなぞった。
胸の中にある、忘れかけた傷に触れるように、そっと静かに。

傷を隠したせいで、大切なことまで忘れかけていた。本当に綺麗な音を奏でるためには、何が必要であるかを。
幼い頃に、祖父は教えてくれたはずだったのに、それが見えなくては意味がない。
ただ、表面上の整った音では、本当に綺麗だとは言えない。
分かっていたのに。
でも、手がかりを見つけることが出来なかった。彼女と出会うまでは。
「気付いてくれたのが、君で良かった。」
誰でもない。彼女でなくてはならない。

---------友達でも良い。親や兄弟でも良い。もちろん、好きな人でも良い。
その大切な人のために、その人が喜ぶ顔を想い描きながら、音を奏でること。少しくらい技術が拙くても、その想いは音を美しくさせるもの。

「以前にも言ったけれど…これからは、君に気に入ってもらえるような音を、作って行かなくちゃいけないな」
「そんな…今でも十分ですよ…。今のままでも、友雅さんの音が大好きですよ…」
「いや、もっと頑張らないとね。もっと…今よりも、好きになってもらえないと困るし。現状維持では、いつか飽きられてしまうから。」

「そんなことないですってば!私、絶対に飽きたりなんかしないです!」
真剣な顔をして、あかねは懸命に瞳を輝かせる。
「何度も何度も『Inclusion』聞いても、全然飽きなかったし!聞くたびにもっと好きになったし!あの曲じゃなくても、友雅さんが弾いてくれる音だって、何回聞いても飽きたりしてないし!」
流行のヒット曲みたいに、時期が過ぎれば忘れる様な音じゃない。
いつまでも、その弦の響きは胸に残る。彼のギターに残された、小さな傷みたいに刻まれて。
そこから染み込む音が、やがてあかね自身となっていく。
「君がそう言ってくれるのが、一番嬉しいよ。」
友雅は滑らかに微笑んで、彼女の言葉に礼を言った。

「社交辞令や諂いとかで、讃美を貰うことには慣れているから、本気にしたことなんてないけれど…君の言うことは信じたくなるね」
「ち、違いますよ!私、お世辞とかそういう意味で言ってるんじゃ……」
そんなことが出来るほど、器用じゃない。あんなにムキになって言ったのは、本心が黙っていられなかったからだ。
彼の音を聞いたことで、どれだけ暖かな気持ちになれたか。
どれほど…穏やかな気持ちにさせられたか。
音楽というものや、ギターの音というものに対しての、価値観が一瞬で変わった。
それくらいあかねにとっては、大切な出会いだったのだ。
だから、そう簡単に飽きるなんてあり得ない。
……そう、強く確信出来る。
不思議な程、それは断言出来る自信があった。

「分かってるよ。君は、取り繕いなどしないだろうし、そんなつもりで私と向き合ったりしないはずだ。そんな君が言うのなら、それが君の心の言葉そのものなんだろう。」
友雅の手が、あかねの頬を包む。
「だから…君の言葉には、素直に嬉しいと感じるんだ。」

彼女の頬に触れたまま、友雅はそっとギターを床に滑り落とした。
そして、もう片方の手を延ばして、ゆっくりとあかねを抱き寄せる。
声もなく、その胸の中に倒れ込んで来た彼女を、ただしっかりと抱きしめて目を閉じた。

心音と、シャツを挟んで伝わって来るぬくもりと、ライムの香りで体温が少しだけ上がる。
でも、離れたくなくて、彼の鼓動に耳を傾けながら、あかねもまた目を閉じる。

次第に、お互いの心音はリズムを近付けていき、そして、同調する。
それはきっと、二人が同じ心を持った者同士だからなんだろう。

+++++

他愛のない雑談と、時折彼が弾いてくれるギターを聞きながら、時間はゆっくりと流れて行った。
何度目かの、柱時計の音がした。1つ、2つ、3つ……数えていくと、合計10つの鐘。あっという間に、夜は深まっている。

「ね、友雅さん。せっかくだから明日、携帯選びに行ってみませんか?」
貸してくれたパジャマに再び着替えたあかねは、クローゼット代わりにしている空き部屋にいる友雅に声を掛けた
「携帯買うって、さっき言ってたでしょう?」
「そうだね。じゃあ、君に選んでもらおうかな。そういう事には全く疎いものだから、君みたいに詳しい同行者がいてくれると有り難いよ。」
友雅はそう言って、おろしたてのフェザーケットを手にしたまま、リビングの方へ戻って来た。

「さて、私はソファで寝るけれど…君はどうする?寝室にある、私のベッドを使っても良いよ?」
「そんな…いつも悪いですよ。勝手にここに来ちゃったのは、こっちですから。」
「とは言っても、引き止めたのは私だし。」
それに、会いたかったと思ったのはこちらも同じだから、どちらが優先ということはないだろう、と友雅は言った。
「でも…やっぱり、こないだ私がベッド使っちゃったんで、今回は友雅さんが使って下さいよ。」
あかねはそう言うと、ソファの上に置かれていたフェザーケットを手にして、フローリングの上にはらりと広げた。
あとは、クッションを二つくらい借りて、ごろりと横になってくるまったまま眠れば平気だと思う。まだ、夏は終わっていないし、肌寒くはない。

「じゃあ、私もそうしようかな」
「えっ?」
再び友雅はリビングから出て行くと、寝室のベッドからケットと枕を二つ剥がして戻って来た。
ふわっとあかねの上に、舞い落ちる柔らかなケット。彼の残り香のライムが、少し香る。
「せっかく一緒にいられるんだから、眠るときも一緒にいよう。」
手首を引っ張られて、彼の横に転がるように倒れる。ふかふかの枕を挟んで、寄り添うように横たわって。

「離れたくないんだよ」
指先を絡めて、解けないように彼女の手を握る。
「悪さはしない約束は守るから。だから、朝になって目覚めたときも…そばにいて欲しいんだ。」

……そばにいて欲しいのは、私の方。離れたくないって思ってるのも、私。
同じように、彼と一緒にいたい。-------あかねは、友雅の手を握り返した。


「おやすみ。また明日、ね。」

カーテンを開けたままの窓ガラスから、夜空に浮かんで輝く月が見える。
穏やかな月明かりだけの部屋で、友雅は一言あかねにそう告げると、軽く一度だけキスをして眠りについた。




-----THE END-----




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Megumi,Ka

suga