夜に隠れて

 第3話
友雅は、宛てもなく弦を指で弾いた。
思い付くままに、指先が生み出すメロディー。
深く響いていく音が、静かな夜の空気に溶ける。

「でも…友雅さんのお祖父さんが言っていた、言葉の意味って…何となく分かる気がしますよ、私。」
彼は指を止めて、顔を上げる。
目の前には、彼女が優しい微笑みで、そこにいる。
「私、ギターはもちろんですけど、楽器なんてひとつも出来なくて。音楽だって平均点くらいの成績だったし、そういう私が言うことなんて、意味ないかもしれないけれど…友雅さんの音って、他の音と少し違う気がして。」
膝を抱え、頬杖をついて、友雅の指が弦と重なり合うのを、あかねは幸せそうに眺めている。

「普通の綺麗な音より、もっと何か……優しい音だなあって。何か、友雅さんの考えていることを、ギターが理解しているみたいな感じ。だから、違和感みたいなノイズが全然なくて。綺麗だけど…あったかくて。」
初めて彼の音を聞いたときから、そう感じてた。
体温や心音のリズムと同じ音。
そんな音があるなんて、と思った。でも、夢じゃなかった。

「『分身』って、そういう意味で言ったんじゃないですか?たくさんあるギターの中で、これが一番友雅さんに近いって思って、選んでくれたのかも。」
「……そういうものだろうかね?」
かすかに微笑んで、友雅は自分のギターをそっと撫でる。
光沢のあるメーブルボディに、わずかながら目に見える古い傷。
いつの頃からついていたのか分からないけれど、その傷は………もしかしたら。
「だって、友雅さんのこと可愛がってくれたお祖父さんだもの。きっと、そういう事が分かる人だったんじゃないですか?」
もしかしたら。
彼女が言うように、祖父がそれを理解していたのなら、この古い傷は幼い頃の心の傷かもしれない。
無意識のうちにつけられた、子供の頃の振り返りたくない過去。
ずっと胸の中にしまい込んで、知らぬふりをしていた…友雅自身の傷。

「すいません…何だか、また調子に乗って偉そうなこと言っちゃった……」
「いや…何ていうか…」
思わず、苦笑いが浮かんできた。
気付きたくないから、わざと見ないようにしてきたのに。それを彼女は、簡単に気付かせる。
でも、不思議と嫌な気分はしなくて、むしろ…こんな答えがあったのかと…新しい答えを見つけたりもする。
「君が口にする言葉
は、どうしていつも私の胸の奥に、自然に染み込んで来るんだろうね…」
嫌味なく、それでいていとも簡単に、風が吹き抜けるように入り込んで来て。
その暖かさが、心の中で小さな蕾を膨らませる。
蕾はゆっくりとほころび始めて---------花咲くまで、あと一歩。

「そうか…。だから、祖父はこれを選んで私に手渡したのか。君の言ったことで、気にかけていたことがやっとすっきりしたよ。」
「あ!今のは例え話ですよ!?私の空想みたいなものですよ!そんな、あっさり信じるほどの事じゃ…!」
慌ててあかねは弁解をしたが、友雅はそれを笑顔で受け流した。
「例え話でも空想でも、君の言うことなら、私は信じるよ。」
友雅はそう答えて、再び指先を弦に近付けた。
彼女のために、と想いながら指先で弦をつま弾く。

----------Inclusion。
二人をつないだ、あのメロディー。
夢を見るように目を閉じて、彼女はソファに頭を傾ける。
友雅の奏でる音にすべてを委ねるようにして、無邪気な笑顔をほのかに浮かべて。
ボーカルも何もない、6本の弦が生み出す音。
そのひとつひとつが、彼女の心を響かせられれば良いと想いながら、メロディーを辿って行く。

「気のせいかなぁ……」
ふと彼女に目をやると、瞳を伏せたままだ。
「何かちょっとだけ、いつもと音が…」
「お気に召さない?」
「ううん…そうじゃなくて…。そうじゃなくて、逆にいつもよりちょっとだけ…」
変わったところがあるわけじゃない。アレンジも音も、さっき聞いたものと寸分違わない。
耳に馴染んだものなのだけれど…でも、ちょっとだけ音が優しい気がする。
例えば、母の胎内にいたときの心音とか。または、五月の新緑から差し込む、少し汗ばむくらいの暖かい日差しとか。
寒い夜に、染みこんでくるようなミルクココアの柔らかい甘さとか。
肌触りの良い毛布に包まれているみたい。いつもよりもずっと……優しく響く。

「君のことを考えながら、弾いていたんだよ。」
あかねは目を開けて、友雅を見た。
「君の心の中に響くといいなあ、なんて…考えながら弾いていたんだ。」
彼女の存在を自分の意識の中に刻み込んで、弦に触れる指先の神経にまでも、その感覚を抱きながらつま弾いた。
包むように、抱きしめるように。そんな風に、優しく受け取れるような音を想い描いて。
幼い頃に、祖父が教えてくれたようなイメージで。
「気に入ってくれたなら、光栄だ」
友雅がそう言うと、あかねはもう一度目を閉じた。
そして、同じようにソファにうなだれて、夢心地の笑顔を作る。

隣に彼女がいることで、音に対する感覚が変わっていく。その響きは、限りない穏やかな波へと変化する。
すると、あかねが小さな笑い声を上げた。
「どうかしたのかい?」
「…何だか、ちょっとおかしくって」
くすくすと笑いながら、うつろげな瞳を開けて友雅を見る。
「初めて友雅さんと逢ったときも…同じようなこと言ってたの。私のイメージの音を弾くんだよって、そう言って弾いてくれたの。」
宛てもなく通り過ぎようとした、路地裏での出会いの夜。
あの時、彼の弾いた響きが…運命の鐘。
「今になって白状しちゃうと…あの時、はじめて友雅さんの音を聞いたときに、あっ!って思ったんですよ。何だか、神経が震えるような気がして。」
もっと聞いてみたかった。聞いていたかったんだ。
彼の音に、触れていたかったんだ。その震えが何なのかを、知りたくて。

「初対面なのに、私の心の音を演奏するんだ、とか言って…」
「おかしな男だな、と思った?」
あかねは子どもみたいに笑って、友雅の問いかけを否定はしなかった。だが、悪い気はしない。
「でも、本当にあの時弾いてくれた音が、ぴったりあの時の私の心境そのもので…びっくりしちゃって…」
自分でもどうしていいか分からないくらい、戸惑って身動き出来なかったのに。
その日初めて会った彼が弾いた音のイメージは、まさにあかね自身を表現していた、彼女そのものの音だった。
それで、ようやく気付いた。自分がスランプであることに。
「煮詰まってたんだなあーって、改めて分かって。そうしたら、とたんに気持ちが軽くなっちゃった…」
「なるほどね。だから、それからの君の音は、どんどん透明感のある綺麗なものになって行ったんだね。」

少し重苦しさがあった彼女の音は、会うたびに浄化されていくようで、きらきらした輝きを醸し出す。
その変化に惹き付けられて、いつのまにか毎週一日だけ会う約束をするようになって…今はもう少し、自由に会える機会が欲しいと思うようになった。
彼女と会うと、不思議な爽快感を胸に残してくれる。
だから今は、以前のように後を引く倦怠感がない。
一週間のリセットリセットボタンが、彼女と過ごす日曜日だ。

「私も君のおかげで、随分と気持ちを軽くしてもらえたよ。御礼しないとね。」
「……?私、何もしてませんよ?」
特別な事など、必要ない。ただ、7日間の1日だけでも、一緒に過ごせるだけで、それで良い。
言葉もいらない。敢えて言うなら…音だけがあれば。
「君は、ちゃんと自分で答えを見つけて、綺麗な音を奏でられるようになった。その音に、私は随分と癒されたんだろうと思うよ。」
「そんな…。それだったら、私だって同じこと友雅さんに思ってます。」
あかねは起き上がって姿勢を正すと、彼を横から眺めるようにソファの上に腰を下ろした。

「私だって、友雅さんの音のおかげで、自分が煮詰まってたの自覚できたんですよ?御礼を言いたいのは、私の方です。」
出会ったあの時、彼が奏でてくれた音が本心を気付かせてくれなかったら…今でも自分は右往左往して動けないでいただろう。
思うように行かないからと思って、自分自身と向き合う事からも逃げて。
そのおかげで、どんどん蓄積する不安に前が見えなくなって。

そんな時、彼の音がリアルな自分を教えてくれたから……突破口が見つかった。
だから、今はこうして足取りが軽くなって歩けるようになったのだ。



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Megumi,Ka

suga