夜に隠れて

 第2話
「裏工作は上手く整ったかい?」
背後からの声に振り返ると、友雅は縁側に腰を下ろして、静かに微笑んでいる。
「は…はあ、まあ何とか…多分大丈夫じゃないかな…と。」
うなづくことも、肯定する返事もしなかったけれど、いつのまにか彼の誘いを承諾していた。
それが、当然のことであるかのように、何の違和感もなく。

「それなら安心だ。じゃ、ちょっと出掛けようか。」
「え、これから…ですか?」
6時も既に過ぎてしばらく経っているし、これから街に出掛けても7〜8時になってしまっては、あまりゆっくり出来そうにないが。
「長い夜のために、少し食料を蓄えに行かないと。」
車で15分くらいのところに、スーパーマーケットがあるから、そこに行ってみようと友雅は言った。

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田舎町の店だから、そんな洒落た食材など揃ってはいない。けれど、必要最低限の食料は、すべて揃っている。
素朴な雰囲気で陳列されているものを、適当にあれこれとカートの中に詰め込んで、二人は家に戻って来た。

先週の日曜日みたいに、あれこれ話しながらキッチンに立つ。
あかねが簡単な調理をしている側で、友雅はグラスにライムソーダを注いでいる。
「友雅さんて、ライム好きなんですか?」
小さな炭酸の泡と同時に、ふわりと沸き上がる爽やかな香りを感じて、あかねが言った。
「こないだクルージングの時も、そういうカクテル飲んでませんでした?」
「そうだったかな?あまり意識したことはないけれど」
それだけじゃない。
「コロンもライムの香りだし」
バスルームに置いてあった、クラシックなボトル。
指先にほんの少し付けてみたら、ライムそのままの香りがした。

「私の香りを、覚えていてくれたの?」
きゃ、とあかねが声を上げた。
背後から抱きしめられて、ライムの香りが身体に密着する。
「だ、だって…普通のコロンって、もっと甘い…っていうか」
シトラス系でこういう香りはあるけれど、調合されているというよりも、絞りたてみたいな自然な香り。
そういうのは、ちょっと珍しいと思ったから。
「これは、祖父が使っていたコロンだったんだよ。」
あかねの身体を解いて、友雅はそう答えた。

「昔、祖父は海外のギタリストとも交流を持っていて、何度か向こうにも行き来するほど親しかったみたいでね。その国で売っていたライムのコロンが、気に入っていつも使っていたんだよ。だから、私の香りというよりは…祖父の香りというイメージの方が強いかな。」
固執しているわけではないのだけれど、昔から近くに漂っていた香りだったせいだろう。巷で市販されている、数多い香水などの香りよりも落ち着く。
もしかしたらそのせいで、彼女の言うようにライムベースのカクテルを、選んでいたのかも知れない。
言われる今の今まで、まったく意識はしていなかったことだが。

「お祖父さんと、仲が良かったんですね。」
そうあかねが言うと、友雅はそのまま黙った。
……仲が良かった、には違いないけれど、それよりももっと近くにいた人だった。
自分を生んだ母や父よりも、彼といる時の方がずっとリラックス出来たし、自由でいられた。
先の将来を事細かく見込んで、頑丈なレールを敷こうとしていた両親に比べて、彼は本来持っている何かを引き出してくれる人だったから、無理なことは何も言わなかった。
ギターを教えてくれたときも、そんな気分だった。
だから、弾くことが純粋に楽しいと思えたのだ。

「あの…すいません。変なこと聞いちゃいましたか…」
ライムソーダのグラスを手に、ぼんやりと昔の記憶を甦らせていると、あかねの小さな声がした。
目をやると、少しうつむきかけた表情で、視線を足下に逸らしている彼女の姿があった。
「いや、そういうわけじゃないよ。悪かったね…何だか、いつも君に変な気を使わせてしまうね、私は。」
あかねの言葉は、忘れていたことを自然に思い出させる、そんなきっかけを与えてくれることがある。
そのたびに、昔の想い出に意識を傾けてしまうから、自分だけの世界を作って彼女を孤立させてしまう。

「あの……聞いて欲しくないことだったら…無視しちゃっていいですから。私、そういうところ鈍感だから、つい口が滑っちゃうことがあるかもしれないし…」
遠慮する必要などないのに、申し訳なさそうに密やかな声で言う。
そんな彼女が、友雅は愛おしくてたまらなかった。
何でも聞き出そうとしないで、こちらの様子を考えながら問いかけてくる。
ささやかなことだけれど、その気遣いが居心地良い。
「大丈夫だよ。君なら、聞いて欲しくないようなことは、言わないだろうから。」
彼女だけは、無条件にそう信じられる。



スティック状の野菜と、カットしたフルーツ。ライ麦パンにチーズと生ハム、アプリコットジャムとハチミツを添える。
冷えた缶ビールに、氷を浮かべたグラスの中のライムソーダ。
ディナーというには、寂しすぎるくらい質素なテーブルの上。
でも、会話しながら時間を過ごすには、しっかりした食事よりも、軽くつまめるくらいが邪魔じゃない。
「じゃ、お祖父さんがギターを教えてくれたんですか」
「そう。自分で楽器の会社を作ってしまったくらいの音楽好きでね。ギターがとにかく好きだった。プロではないけれど、趣味としてはなかなかレベルが高かったらしいよ。」
それほど長く一緒に過ごせなかったことも理由だが、祖父は自分で弾いて聞かせることは、あまりしなかったように思う。
友雅に教えてくれたときも、アドバイスを言葉で指示することが殆どだった。

基本的な弾き方を教え込まれて、それからは一曲弾いて覚える毎に、その曲の持つ雰囲気などに合わせての表現方法とか、少し小難しいことを物語を聞かせるように話してくれた。
「例えば、この曲のサビは水が流れて行くような音をイメージして、軽くて細やかな音が流れるような感じで…とか。花畑で妖精がダンスをしているような、ふわっと跳ねるようなイメージとか。」
「何か、そういう風に言うと楽しい感じですね。」
「子供だったから、そんな話を聞くのも楽しみだったんだろうね。気付いたら、両親と過ごしている記憶よりもずっと、祖父のそばでギターを弾いていた記憶の方が、強く残っているよ。」
古い調度品に囲まれた、広い庭に大きな窓の洋館。あの屋敷で暮らした数年間。
そこにあるのは、祖父と過ごした穏やかな時間ばかりだ。
「ほんの少しの時間しかなかったけれどね」

「あの、良いですよ…?そのあとのことは話さなくても…」
後に続く、彼の日常のことは既に知っている。
両親が別れて、彼は母とともに向こうの実家へ引っ越してしまったこと。
それ以来、あの洋館には戻る事がなかったこと。祖父と過ごした日々は、もうやって来なかったことを、あの日彼は話してくれた。
「話したいことしか話すつもりはないから、あまり気を使わないで良いよ。その後のことは、もう君も知っていることだしね。」
友雅は、何でもないことのように笑って言うけれど、あかねはやっぱり少し気が引けた。
小さい頃の思い出は、内容によってはトラウマになってしまうこともある。
そんなところへ、他人の自分が踏み込んでいいものだろうか、と。

だが、構わずに友雅は話を続ける。
「きっかけは、まあ…よくある親子の対立とか、会社経営方針の違いとかで、そこから溝が出来て崩れてしまったんだろう。」
後に、事実上会社の経営を祖父から受け継いだ父だったが、祖父との方針が正反対だったせいで諍いが始まった。
それは次第に、親子としての不協和音に繋がって行く。
そんな光景を間近で見ていた母は、さぞかし心労が酷かったのだろう。
強引にも自分の方針を勝ち取った父は、祖父を納得させようと躍起になって家に殆ど戻らなくなって…。そこで今度は、両親の不協和音だ。
「何もかも、リズムとバランスが完全に狂ってしまって。結局は崩壊してしまった…っていう、どこにでもありそうな話だよ。私は幼かったから、記憶はそれほどはっきりしないけれどね。」
完全に手作業での楽器製作を目指した、職人気質の祖父。それとは対照的に、大量生産で販売数と収入業績を上昇させようとした父。
父が押し進めた合理的経営は、ある程度の結果を残している。知名度も、衰える事はなく現状に至る。
だが、あくまでもそれは祖父が、既に基盤を固めていたからであり、それはいずれ、諸刃の剣となる。

「会社は父の云う通り、上手くは行っていた。でも、昔からのお客さんというのはね、耳が肥えている人が多い。大量生産になったら質が落ちたと言う人が増えて、うちのメーカーから遠ざかるようになった。そういうのを、祖父は諦めきれなかったんだろうね…。父に会社を全て譲ってしまったあと、小さな工房のような会社をひっそり作って、これまでの方針で再び楽器製作を始めたんだ。そうしたら、離れたお客さんは自然と、彼の方に戻って来てね。晩年まで、良い仕事に携わっていられたみたいだ。」
譲ってしまったブランドネームはもうなくて、新しく生まれ変わってしまったが、昔からの音を好んでいた人達にとっては、祖父の会社が作るギターの音を皆求めていた。
おかげで、最期まで随分と忙しい日々を送っていたようだが、彼には楽しい日々だったんだろう。

「ギターとか音楽とか…ホントに好きな人だったんですね」
「そうだね。純粋に、音を受け入れて感じるのが好きだったんだろう。羨ましいくらいに。」
友雅はゆっくり立ち上がると、ソファの後ろに立てかけてあった、MartinD-45を手に取った。
それは、いつも彼が傍らに置いている、アコースティックギターだ。
初めて逢ったときも、彼はそれを抱いている。
「このギターは、祖父がくれたものなんだよ。あの家を出るときに、彼が一本選んでくれたものでね、結構良い代物らしい。古いものだから少し傷みはあるけれど、一番このギターがしっくり来る。」
以前彼の部屋に泊まった時、その他にも数本ギターが置いてあるのを見た。
だから、音楽関係の仕事をしているのだろうか、と思ったものだが。
でも、このギター以外を手にしている友雅を、あかねは一度も見ていない。

「お祖父さんからの贈り物だから、やっぱり特別なんですか?」
「というよりも、彼が私に一番合うものを選んだらしいね。私の『分身』だから、って言って、そう手渡してくれたけど。本当はどういう意味で言ったのか、聞いてみたかったよ。」
二十年も前に他界した彼には、結局尋ねることは出来なかったが。



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Megumi,Ka

suga