雨を纏って

 第3話
「気が合うね。私も、そんなことを考えていたんだよ。」
窓の向こうの景色を曇らせる、天からの強い雨音は絶え間なく続いているけれど、彼の声だけはしっかりと聞き取れた。
「理由は特にないんだけど、何となく君の顔が見たいな、と思ってね。」
「あ、あたしも、別に用件とかはなかったんですけどっ…」
つられてあかねも、本音を口にした。
横顔を見ていたはずが、気付くと向かい合って相手の瞳を見ていた。
普段なら、まだ日の高い時間だが、雲の厚い空が明かりを遮る。互いの顔に、影が出来る。

「用件も、理由も、そんなの必要ないよ。」
延ばした手が、あかねの手を取る。友雅の手が重なると、彼女は携帯を膝の上に落とした。
自然に指先が相手を求めて、絡み合いながら結ばれて行く。
「逢いたいという理由だけで十分だ。だから、こうして逢えた時が嬉しく感じるものなんだろう。」
それが突然…"偶然"といういたずらと共にやって来るから、感情を抑える事が出来なくなる。
逢いたかったその人に出会った瞬間、それが現実なのか確かめたくて触れてみたくなる。冷たい雨に打たれることさえ、忘れるほどに。

「なんて…少し、ロマンチックすぎる台詞だね。」
静かに笑う友雅の声がする。つなぎあう指の先で。
夢見がちな例え話でも、作り事のような台詞でも、それを現実として受け入れたい気持ちがある。
絆の糸が、二人を繋いでいくのを感じる。"以心伝心"という言葉が、お互いの胸の中に同時に浮かんだ。
激しい雨の音も、ハープの音色のように聞こえる。
響いているのは-----心の鐘。


……じゃなくて、古びた時計の音だ。
引っ越して来る前から、この家に置き去りにされていた柱時計。ゼンマイ式のアナログな時計だが、ねじを巻けば動くから、そのまま使い続けている。
鐘の音が、5つ。午後5時の時報を告げる。

「そろそろ送っていこうか。車なら、雨も気にしないで済むし。」
乾燥機にかけた彼女の服も、すでに乾いているだろう。
明日になれば、またいつもの約束の日曜日が来る。それまで…ほんの半日と少し離れることになるけれど。
ソファから彼が立ち上がると同時に、つないでいた指先が解ける。
とたんに、身体に寒さが込み上げてくるような気がした。
「バスルームで着替えると良いよ。中から鍵が掛かるから、覗かれる心配はないからね。」
「覗かれる…って、そんな…」
「覗いても良いのなら、ここで遠慮なく着替えてもらっても良いんだけど?」
「な、何言ってんですかっ!」
真っ赤な顔をしているあかねに、エスコートするように手をかざして"どうぞ、ごゆっくり"と、穏やかに一言。
足早に部屋を出て行く彼女の動きを、友雅は眺めながら静かに微笑んだ。



雨に濡れていたとは思えないほど、乾燥機の中に放り込んだあかねの服は、カラカラに乾ききっていた。
脱ごうとボタンを外したパジャマには、身体のぬくもりが移っている。
彼の服に、自分のぬくもり。それを感じると、どことなくドキドキする。
ライムの香りに、彼のコロンを思い出すような気持ち。
このまま着ていたい気がするけれど、いくらなんでもそんなの無理。
仕方なく、一番下のボタンをひとつ外してみた。

ふと、顔を上げて耳を澄ましてみる。
雨の音よりも、澄んだ音が聞こえて来た。
雫が奏でる音よりも透明で、なのに体温のように暖かい…彼の指先が創り出す音。
そのメロディーは、聞いたこともないものだった。
即興で弾いているのか、それともあかね自身が知らないだけの曲なのか。
だけど、どこか懐かしい。
それは、メロディ−のせいじゃなくて、この音のせいだろうか。


「まだ乾いていなかったのかい?」
着替えが済むまで時間つぶしに、立てかけておいたギターを手にしていた友雅は、部屋の入口に立っていた彼女の気配に気付いて、指先を弦から離した。
友雅が貸したパジャマをまだ脱がず、さっきの格好でそこに立っている。
「あの……お願いがあって」
長い袖からピンク色の爪だけを覗かせて、あかねが言った。
「お願い?私に出来ることならば良いけれど。」
「友雅さんじゃないと……ダメなことだから…」
自分にしか出来ないことなんて、思い当たる節はないけれど。
急にそんなことを言い出した、彼女の理由が少し不透明ではあるが、それを拒むつもりはない。
「構わないよ。言ってごらん」
そう答えて、友雅は手にしていたギターを、再びソファの裏に立てかけようと振り返った時、その背中に彼女の声が投げかけられた。
「こないだの……弾いて欲しいんです。」

手放そうとしたギターを、彼は自分の方へ戻す。
そして、少し朧げな表情のあかねに視線を移す。
「こないだ…最後に弾いてくれた、あの…私の好きな曲…」
「ああ、真似事で弾いた、あの曲かい?」
「そうです…。いくらでも弾いてくれるって、言ってくれましたよね…?」
試聴盤作成の時に弾いたきりの、正規ルートに乗らない、それっきりの演奏。
それに気付いた彼女が、友雅の名前など知らずに、純粋に"好きだ"と言ってくれたのが嬉しくて、悪戯半分で奏でてみただけだった。
「もう一度、聞いてみたくて…。だから…ここまで押し掛けて来ちゃって…」
「明日まで待てないくらい?」
あかねは、黙って静かにうなづいた。

「良いよ。それくらいのお願いなら、いくらでもきいてあげられるよ。」
友雅はフレットに左手を伸ばし、ボディを膝で固定した。
彼の指先を眺める。長い人差し指が細い弦に触れて、あの音が響き出す。



軒下から滴る雨は止む事なく、静かな音を立てて降り続いているというのに、この部屋はまるで無音状態のレコーディングスタジオのようだ。
邪魔な雑音は、ひとつもない。というより、それさえも消し去る音が、部屋全体に響いているから。
ゆっくりと丁寧に流れて行く音。
細い弦が織りなすメロディーは、空気の中に溶け込んでゆき、いつしか身体を包み込む。
肌から内面へ浸透し、奥深くまで届き、やがれそれが自分の一部になる。

……どうして気付かなかったんだろう。改めてこうして聞いてみれば、何もかもが同じことばかりじゃないか。
心を震わせる音も、身体に馴染むトーンの優しさも、いつも彼が弾いてくれたギターを聞いた時、感じていたことばかり。

全く同じだったのに。こんなに惹かれているのに。
知らず知らずのうちに、引き寄せられてしまうほどに好きだったのに、それを何故彼だと思わなかったんだろう。
手に届く距離にいたのに。


急に、それまで紡がれていた音が、ぷつりと途絶えた。
とたんに、外からの雨音が耳に入って来る。
「申し訳ないけれど、これ以上は弾けないな。」
弦から手を離した友雅が、その場に座り込んでいるあかねを見た。
「泣いている君をそのまま無視して、ギターなんか悠長に演奏なんてしていられないよ。いくら、君のお願いでもね。」
友雅はギターをソファの上に置き、立ち上がってゆっくりと彼女へ歩み寄った。
部屋の入り口で小さくなって、崩れるようにうずくまっているあかねの肩に、友雅は手を触れてみる。
「どうして…言ってくれなかったんですか…?」
うつむいたまま、涙声の言葉が聞こえて来た。
「どうして…自分が弾いてるんだって、教えてくれなかったんですか…?」
彼女の細い肩に触れていた手が、自然と離れた。

気付いた?
先週まで、疑う様子もなかったのに。
自分が弾いている音に、素直に驚いているだけだったのに…一体どこで、その真実に辿り着いたんだろう。

試聴盤にはクレジットを入れなかったはず。
そろそろ出回ってきているであろう、彼らのPR記事についても、一切プロデューサーには触れない約束だ。
それは今に始まった事ではない。
音楽業界で生きて行くことを選んでから、ずっと通して来た掟でもある。
理由については、この業界にいる者なら知らないはずはない。
橘友雅という男と、商業音楽という世界のつながりの中にある、触れてはいけない一種のタブー。
それを知っても依頼をしたいと申し出る相手には、自分の名前を一切表に出さないことを契約条件にしてきた。
もしもそれを、漏らしてしまったときは……すべてが白紙になる。ならざるを得ない、というのが正しい。

そこまで徹底した厳しい契約を結んだのだ。
これでこれまでのことがクリアになってしまうとしたら、それなりの損害がかぶって来ることは間違いない。
ビジネスとして音楽を営む彼らが
、いくらなんでも、自ら首を絞める様なことはしないだろう。

ならば、どこで彼女は真実を知ったのだ?



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Megumi,Ka

suga