雨を纏って

 第2話
ライヴのあと、『Inclusion』 の事を知ってから、無性に友雅に逢いたくなった。
逢いたくて…我慢出来なくて。
明日まで待てなくて、衝動的に、バスを乗り継いでやって来てしまった。
連絡も出来ず、彼が留守かもしれないのに、無鉄砲極まりない。

案の定、やって来てみたら留守で。
玄関は鍵が掛かっていたが、車が置いたままだったから、近くに出掛けているだけなのかと待っていたが、気付いたら数時間も過ぎていた。
雨が降り始めて、もう帰った方がいいだろうかと思った。
その雨の中に、彼の姿を見つけた。

逢えないかもしれない、と思い始めたときに限って、どうしてこんな偶然が舞い込んで来るんだろう。
以前だって、彼にもう一度逢いたくて出掛けても、彼は移動してしまったあとで。それっきりだと諦めたら…バス停の近くで彼を見つけた。
逢うはずのない場所で、偶然に出会ってしまうことも、しばしばで。
偶然……のくりかえし。何度も何度も。
気付くと、彼の姿が目に映る。手の触れられる、場所にいる。

”偶然じゃなくて、運命"……。
ベートーヴェンのメロディーのように、少しだけ重苦しい感じのするその言葉が、ずっと頭から離れない。

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脱衣所に用意してくれていたパジャマに着替えて、居間に行くと友雅が熱い紅茶を入れてくれた。
ようやく新しい服に着替えたようだが、それでも身体が冷えているはず。
平気だと彼は笑って言うけれど、まだ乾いていない髪が冷たそうで気にかかる。
せめてシャワーだけでも、と懇願するようにあかねが頼むと、ようやく彼は重い腰を上げた。


ミルクの入った紅茶が、口に優しい。あかねは少しずつそれを喉に通してみる。
一口体内に流れて行くと同時に、じわりと内面が暖かくなって、ほうっと落ち着く溜息がこぼれた。
見上げた天井は、古びた色合いをしている。
レトロな照明が、丁度良い明るさで部屋を照らしている。
そして、ソファの横には…彼が音を奏でるギター。
安らぐ空気が、ここにある。

あかねは、そっとギターの弦に触れてみた。ぴんと張った6本の弦は、細いけれど少し冷たい。
軽く弾いてみるけれど、全然音らしい音にはならなかった。
でも、彼なら軽く指先を動かすだけで、あんな優しく響く音が出せてしまう。
冷たい糸なのに、あんなに暖かい色に変えてしまうなんて。
楽器を弾けないあかねにとっては、それが不思議で仕方がない。

「寒くない?」
急に背後から声がして、あかねはびくっとして姿勢を正した。
「夏とはいえ、濡れたままでは冷えてしまうからね。少し暑いかもしれないけど、毛布は纏っていた方が良いと思うよ」
長い髪を無造作にタオルで拭きながら、友雅はソファに腰を下ろした。
ふわりと漂うライムの香り。
確かバスルームに、クラシカルなガラスのボトルがあった。
あれが彼のコロンなのか、と、こっそり手にとって眺めてみたけれど、見たこと聞いたこともない銘柄だった。
「平気かい?もう少し厚手の服を探して来ようか?」
「あ、だ、大丈夫です。お風呂で暖まったし、毛布もあるし…」
隣で顔を覗き込む彼の顔が、何故か真っ直ぐに見られない。


いつもなら、どちらからともなく、他愛もない話から会話が始まるのに、お互いに切り出す言葉が見つからなかった。
しばらくの沈黙の中、降り続く雨の音だけが聞こえている。
カップの中のミルクティも、残り少なくなった。

「もう一杯入れてあげようか。飲み終えてしまっただろう。」
友雅が手を差し出して、あかねのカップを取り上げようとした。
「あ、じゃあ…あたしが今度は自分で入れます」
「いや、客人をもてなすのは、家主の役目だからね。カフェみたいな本格的な紅茶ではないけれど。」
そっとあかねからカップを受け取り、友雅はキッチンに向かった。

ボーンチャイナのシンプルなティーポットに、ダークグリーンのシックなティーバッグを入れる。
もらいもので悪いけれど、と言いながらも、英国の有名なブランドネームの入った紅茶だ。普段あかねが家で飲んでいるような、安いものとは違う。
薫り高い湯気を立てながら、ルビー色に染まった熱い紅茶をカップに注がれてくのを、ぼんやり眺めていた。
「それで…何か急用でもあったのかい?」
角砂糖を二つと、ミルクを少し多めに。店で彼女がミルクティを頼む時のレシピ。いつも見ているうちに、覚えてしまった分量通りに入れてみる。
「明日の約束を待たずに、ここまでやって来るということは、何か急ぎの用事でもあったんじゃないかと思ったんだけれど。」
急に問いかけられて、あかねは返答に困った。

……何て答えようか。
答えはちゃんとあるけれど、あまりにそれが殺風景で、ストレートすぎて。
意味を求められても、その先の答えがない。
ただ、本当に…ただ会いたくて仕方なかっただけのこと。
一日も待っていられないほど。
それだけのことなのだけれど。

「まあ、理由なんかなくても、君ならいつでも歓迎するけどね。」
「すいません…急に、勝手に押しかけちゃったりして…」
「良いんだよ。ただ、今日みたいに出掛けていたりすると、せっかく来てくれても会えなくては、お互いに残念なことになってしまうから…」
友雅は、二杯目のミルクティを彼女に渡し、隣にもう一度腰を下ろした。
そして、テーブルの上に置いてある、あかねの携帯を手に取ってみる。
「だから、そろそろ携帯でも持ってみようかと思ってね」
えっ、とあかねは少し驚いたような声を出した。
特に必要がないから、携帯は持たないんだと聞いたことがあったけれど。
「やっぱり、お仕事とか…に必要不可欠だからですか?」
「少なからずそういう理由もあるけれど、まず…今日みたいな時に連絡が取れないと困るっていうのが、一番の理由かな。」
携帯を、彼女の手のひらに戻す。
ハート型のシルバーチャームが付いた、淡いブルーのストラップが揺れる。
「たまに、ふっと変則的な休みが舞い込む時もあってね。そういう日を無駄にしたくはないから、出来れば誘いたいんだけれど…連絡が付かないとどうにもならないものね」
そう言って隣で微笑んだ友雅は、いつもの彼と何ら変わりはなかった。

「でも、受験生にはそういう急な誘いは、勉強の邪魔かな?」
「そ、そんなことないです!私も、土曜日とか学校休みになる時もあるし…。」
「じゃあ、連絡するときは、出来るだけ空気を読むように気を付けるよ。」
あかねは手帳の中から、携帯番号とアドレスの入った名刺を友雅に渡した。
ベージュの紙にピンクの文字と、小さなイラストが入っている。
堅苦しいビジネス用の名刺とは違って、喉かな雰囲気が彼女らしい。
「まだ契約はしていないから、私の方から教えてあげられるものはないけれど、決まったら真っ先に連絡すると約束するよ。」
「うん、分かりました。そしたら、アドレス帳にちゃんと登録しておきますね。」
彼女は嬉しそうに答えると、手の中にある二つ折りの携帯を開き、慣れた手つきでボタンをあれこれと操作し始めた。

「着信音は、どうしようかなぁ。流行りの曲なんかじゃつまんないし、クラシックとか洋楽とかが良いかなあ…」
電話に出なくても相手が分かるように、特定の相手にはそれぞれ違った着信音を設定しているのだそうだ。
随分と細かいことを…と思うが、そのこだわりが彼女達の世代の通説なのだろう。
「楽しそうだねえ。」
「だって、これからいつでも連絡出来ると思ったら、何か嬉しくって。そしたら、今日みたいに突然会いたくなった時も……」
事前に電話で連絡が出来る----------と、そう続くはずだった。
が、言葉がそこで止まった。

今日みたいに、突然会いたくなった時………。
突然。それは本当に突然、無性に会いたくなったから。
ふとした拍子に、こぼれた本心。それと同時に、高鳴り始める鼓動と心拍数。

何て思われただろう。ただ会いたくなったから、家まで訪ねてきたんだ、なんて。
降り続ける雨の音が、言葉をごまかしてくれたら良かったけれど、ひとつのソファの隣にいる距離では、聞き取れないなんてことあり得ない。
本当のことなのに、知られたくないような。
隠しておきたいような…でも、知って欲しいような。

恋を自覚し始めたあかねにとっては、そんな複雑な想いに心が乱れる。


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Megumi,Ka

suga