雨を纏って

 第1話
薄暗く曇った空から、滴り落ちる雨。
地面は時間を追う毎に、泥濘が広がって行く。
強く降り注ぐ雨の音が聞こえる…はずなのに、聞こえて来るのは心音。
でも、自分のものじゃない。

転げ落ちた傘が、足下に佇んだまま。
身体中が雨を吸って、冷たくなっている…はずなのに、寒さを感じない。
包み込まれる手のひらと、抱きすくめられる暖かさとが、心を落ち着かせる。
雨の音さえ、まるで音楽のよう。

一瞬、手の中にある身体がかすかに震えて、友雅は目を開けた。
前髪から、雫が滴る。
辺りに視線を向けると、昼間なのにぼやけた薄暗い世界。
天空から、叩き付けられる雨。
腕の中の柔らかな存在と…ぬくもりに気付く。
「……すまない…」
慌てて彼は、足下に転がっている彼女の傘を手に取った。

あかねの上にかざしてみるが、もう既に手遅れ。自分と同じように、十分に雨を吸った彼女の髪は、頬に張り付いてる。
「とにかく、早く家に入ろう。」
友雅は傘を彼女に預けて、もう一方のあかねの手を引いて足早に走り出す。
「そ、そんなんじゃ、友雅さんが濡れちゃいますよ!」
慌てて彼に傘を差し出そうとしたが、振り向かずに友雅は前を急ぐ。
「これ以上濡れたところで、何も変わることなどないよ。…お互い様だけどね。」

さっきまで、全身で感じられたぬくもりが、今はつないだ手から伝わって来る。
玄関に辿り着くまでの、たった数メートル。
その暖かさが、濡れた身体から肌寒さを消し去ってくれた。

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「ちょっとそこで、待っていてくれるかい?」
あかねを玄関で待つように言い残し、友雅は家の中に上がって行った。
使っても意味のなかった傘を閉じ、あかねは玄関に彼が脱ぎ捨てたジャケットを手に取る。
雨を吸って、色も変わっているそれを、折り畳んでいると彼が戻って来た。
「バスタオルでは、役不足だろう。濡れようが汚れようが気にしなくて良いから、それをかぶっていると良いよ。」
身体に掛けられた薄手の毛布は、夏でも少し暑苦しいけれど、雨で冷えた身体には、その肌触りがふんわりと優しくて暖かい。

「そうしたら…早く中に上がっておいで。バスタブの用意をしたから、それまで毛布にくるまって…。あと、何か暖かいものを用意してあげるから。」
「友雅さんっ!!」
寝室から玄関、そしてキッチンと居間を分けるガラス戸を開け、慌ただしくケトルをコンロに掛けようとしていた友雅に、あかねが駆け寄って腕を掴んだ。
「友雅さんも着替えて下さい!そのままじゃ…風邪引きます!」
彼女の声で、それまで急いでいた気持ちが、やっと止まることに気付いた。
掻き上げた髪が、濡れたままだ。雨の中に立ち尽くしていたにも関わらず、今の今まで自分の事など考えていなかった。
とにかく、彼女をどうにかしないと…と、それだけで頭がいっぱいで。

「そうだね。自分のことを忘れていたよ…」
我に返って、これまで少し混乱気味だった自分に気付くと、それと同時にバスルームから電子音が鳴り響いた。
「用意が出来たらしい。早く、暖まっておいで。」
「でも、友雅さんの方が…」
掴んだシャツの袖からも分かるくらい、彼の方が濡れているのは一目瞭然。
傘のない雨の中でも、彼が抱きしめて包んでくれていたから、あかねの方は服もそれほど酷くは濡れてはいないのだ。
それに、こうして毛布にくるまって暖を取っている自分とは違って、彼はまだ着替えてもいないのに。
「私は後で良いよ。君が暖まっている間に着替えを探さないとね。その間に私も着替えるから。」
湿ったあかねの髪にそっと触れて、友雅はそう言った。


彼女にバスルームを明け渡し、友雅は寝室へ向かった。
シャツを脱ぐと、思っていた以上に濡れていることに気付いた。これじゃ、彼女が慌てるのも当然だな、と思った。
濡れた服を適当に部屋の隅に置き、新しいシャツに袖を通す。それと同時に、クローゼットからバスタオルとクリーム色のパジャマを出した。
彼女には、以前泊まった時のように、自分のパジャマを貸してやれば良いだろう。

外の雨は、まだ止まない。単なる、夏の通り雨程度かと思ったのに、意外に強い雨足は、未だに峠を越える気配が見えない。
ベッドの上に腰掛けて、窓ガラスを流れる雨を見る。
…あの時も、雨が降っている夜だったな。
まだ、出会って間もない頃だ。毎週会う約束など、交わしていなかった頃の話。
街角で会って話しただけ。それで、部屋に泊めてしまうなんて…随分と強引な展開だったな、と思い返す。
そのかわり、まとわりつくような女性の残り香は何もなくて。目覚めた時には、朝の日差しが暖かくて。
ゆっくりと穏やかに過ぎた、一晩。そして、優しい朝。
今もあの日と同じように、外は雨だというのに……。

どうかしている。
あんな雨の中、彼女を抱きしめて立ちつくすなんて。
そもそも…何故、傘を振り切ってまで、抱きしめようとしたんだろう。
彼女まで濡れてしまうことなど、分かり切っている事だ。

雨の向こうに彼女の姿が見えて、彼女がこちらに向かってきたと同時に駆けだして、気付いたら抱きしめていて。
何も考えていなかった、と言うのが一番正しい。
何も考えられなかった。無、だった。
本能が、そのまま行動として現れた…のだろうか。
その本能とは、一体何だ?
"彼女の顔が見たい"と、思ったことが叶ったからか?
なら、何故、彼女に会いたい…と思ったのか。そして、どうしてそれが現実に叶ってしまうのか。

「……やっぱり、そうなのかな」
雨雲よりも高い空の上にいる、彼に向かって独り言をつぶやく。
彼が残した、あの手紙のフレーズが浮かんでは、あかねの姿と重なる。
「事実は小説より奇なり。お伽話も夢物語も、現実にあり得ることなのかな…。」

……ねえ?貴方は、こんな私を予測していたのかい?
それとも、貴方がこんな出会いを、導いたのかい?
…………私はそれを、本気で信じようと思い始めているみたいだ。

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システムは今風に整備されているようだが、内装はこの家屋に相応しく、レトロな雰囲気のバスルームだった。
ブルーと白のタイルが敷き詰められ、少しひんやりするが、夏には気持ちが良い。
湯気が沸き上がり、庭に面している小窓を曇らせる。
外は、まだ雨が降っている。

マンションのバスタブよりも深めで広くて、湯の中に身体がすっぽりと埋まる。
初めて彼の部屋に泊まった時も、こんな雨の日で…帰れなくなって、そのまま引き止められて。
こんな風にバスルームを借りて…彼のギターの音を聞きながら眠った。

"仕事なんだ"と言って、ギターをつま弾いていた。リビングで、一人で。
"君の音だ"と言って、目の前で奏でてくれた音。心に重なる、澄んだ音。
彼の奏でる音のすべてが自分の血に変わって、命の一部になる。自分自身になる。

だからこんなに、引き寄せられていたんだ……運命でつながれた糸みたいに。


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Megumi,Ka

suga