One Night Strings

 第1話
夏期講習の成績は、予想以上に良い結果が出た。
志望校への合格率は、既にクリアしている。更にあと一押しさえすれば、国立大も手に届くだろうとのコメント付きだ。
これを見れば、そりゃあ親としては大喜びではあるのだ…が、手放しで喜べない。

あれから2日が過ぎたが、関係はぎくしゃくしたまま、和やかなムードに戻る気配は見えていない。
あかねと母の様子を見かねて、時折父が愚痴るように口を挟んだりするけれど、どうしてもこれだけは簡単には折れたくなかった。
一言二言、用件のみの簡単な会話だけの日々は、一体いつまで続くのだろうか。


「ちょっとね、お母さんと険悪ムードなの。」
夏休みも残り少なくなったが、講習も終わってしまった今では、結構暇を持て余している。
だからと言って、母と二人きりの家でのんびりなんて…出来るわけがない。
そういうわけで逃げて来たのは、詩紋のバイトしているカフェだ。
毎週日曜日、友雅と待ち合わせを約束している場所。
いつもなら日曜に、二人の姿を見るのが当たり前だったので、急にふらりとあかねが一人でやって来た時は、詩紋も少し驚いた。
「何かあったの?もしかして、受験のこと?」
午後2時を過ぎて、客足はひとまず落ち着いたようだ。
少し遅いランチタイムになった詩紋と、店の隅のテーブルで向かい合いながら、あかねは何度もため息をついた。
「ううん…成績の方はね、全然安泰なんだけど。」
「ホント?じゃあ別に喧嘩する理由なんか、ないじゃない」
日差しに透ける観葉植物の色と、良く似たベビーリーフのサラダ。ガラスの小鉢の影が、テーブルに伸びる。
あかねは、アイスティーのグラスをかき混ぜて、既に溶けて消えかかっている氷を突いてみる。

「ねえ、詩紋くんは…友雅さんのこと、どれくらい知ってる?」
突然そんなことを尋ねられた詩紋は、びっくりして目の前のあかねを見た。
「僕?全然何も知らないよ。よくお店に来る常連さんってことくらいで…。」
この店でバイトをするようになって、もう一年になる。
毎週日曜と、学校が休みの土曜のみの勤務だが、友雅は日曜の朝に、ふらりと一人でやって来る事が多かった。
エスプレッソ2杯と、時々トーストを頼むくらい。新聞や雑誌を読むこともなく、窓越しに見えるハーブガーデンの緑を眺めているだけ。
「カフェの朝って、モーニングを目当てに来る人が多いでしょ。でも、日曜日は会社とかお休みが多いし、あまりお客さんも多くないんだ。だけど、大概そういう時間に来るから…どんな仕事をしてる人なんだろう、とかは思ったりしてたけど。」
店によく来るとは言っても、店員と馴染みになって会話をするわけでもない。

「だから、名前だって知らなかったよ。あかねちゃんが、ここで一緒に話してるのを聞いてて、はじめて知ったんだから。」
「そうだったんだ…」
小皿に置かれたモザイククッキーを、かじりながらあかねはつぶやいた。

彼のことを先に知ってはいても、たまに店に顔を出すくらいの客という立場では、それ以上の詮索は無理か。
これくらいだったら、自分の方がずっと友雅のことを知っている。
どこに住んでいるか(過去に住んでいたところも)。どんな車に乗っているのか。どんなコーヒーの銘柄が好きなのか。そして、コロンの香りまで。
そんな日常的なことから、彼の幼少時代のことや、その思い出のことも、ほんの断片だけに過ぎないけれど…知っている。
今、自分は友雅のことを、何パーセントまで知っているんだろう。
そして、彼の周りにいる人々の中で、自分はどこまで彼の領域に踏み込めているんだろう。

もっと詳しい事を知ることが出来たら、母にも胸を張って紹介することだって出来る(少し年上なのは気がかりではあるけれど)。
でも、今は知らないことの方が多すぎるから…言い返せない関係がもどかしくて、そして悔しい。
…………誰よりも信じられる人なのに。

「僕は、そういうあかねちゃんと友雅さんが、どうしてお付き合いするようになったのか、の方が興味あるけどなー」
急に詩紋が言い出した言葉に、あかねは手にしていたグラスの水をこぼしそうになった。
慌てているこちらの様子とは正反対に、デザートのヨーグルトをスプーンですくいながら、詩紋は砂糖菓子のように微笑んでいる。
「も、もう…最近、どうしてみんな、同じようなことばっかり聞くんだろ」
胸がどきどきしてきて、頬が少し熱くなる。それは、夏の昼下がりの気温のせいじゃない。
「それは、いろいろと複雑だから、説明しづらくて…ゴメンね」
夢物語みたいな、一瞬の出会い。そこから、すべてが始まっている。
なのに、もっと昔から知っていたような、お互いの空気。
その原因は何なのか…まだあかねには分からない。

+++++

スタジオで手渡された、今週のスケジュール表にはOFFが3日。
木曜から土曜までの3日は、彼らのライヴのおかげで友雅も休みとなっている。
「前日にゲネプロなんて、まるでオーケストラ並みだね」
「いっつもやってるわけじゃねえよ、そんなの。ただ、今回はメジャーデビューのお披露目ってのもあるからさ。完璧な音を聞かせてやりたいじゃん。」
ここまで続けてこられたのは、ずっと応援してくれてたファンのおかげだし。
だから、感謝も兼ねて一番良いステージを見せてやりたい。イノリはドーナツをかじりながら、そう言った。

若いわりには、自分の音楽方針と聞き手側のことを、バランス良く考えることの出来る少年だな、と友雅は思った。
自己中心的になりそうな業種であるが、自分たちの音の向こうにある客の様子も、しっかり捕らえている。将来有望じゃないか。
「良いライヴにして、満足させてあげなさい。メジャーになったら、今以上に大変だろうからね。」
「言われなくても、覚悟は出来てら。」
インディーズからメジャーへ方向転換すれば、メディアが拡大するだけにリスナーも増える。これまでと違ったファン層も増大するだろう。
例えば、従来の音を続けて、新しいファン層を納得させるか。
それとも…新しいファン層の趣向を重視して、少しずつでも音を変えて行くか。
どちらにしても、諸刃の剣だ。早急に答えを出してしまうと、どちらかは彼らの元から離れて行く危険性がある。
微妙なファン趣向の相違を、彼らはどうやって処理して行くだろう?

「おっさんは、この3日間のオフはどーすんだ?」
紙コップの中で、弾ける炭酸の泡が舌を刺激する。イノリは、二缶目のダイエットコーラのプルトップを開けた。
「そうだねえ…作曲作業も、ある程度は片がついたし。レコーディングは、あと2曲残っているけれど、ボーカルがいなくては仕事もできないし。」
ぽっかりと空いた3日間の空白。
特に趣味というものもない友雅にとって、突然に与えられるオフほど暇を持て余すものはない。
せめて土日を挟んでのオフなら…と思っていると、隣のイノリが口を開いた。

「カノジョとはデートとか、しねえの?」
タイムリーな質問だ。今、まさにそのことを考えていたところだ。
「デートは毎週日曜に、と決めているからね。」
「でも、別に週一じゃマズイわけじゃねえだろ?そんなん、数が多い方が喜ぶもんじゃん?」
あたかもそれが当然だと言うように、イノリが口にしたその言葉を聞いた友雅は、思わず声を出して笑ってしまった。

「何だよ!俺、別に笑われるようなこと、言ってねえぞ!?」
身に覚えなどないのに、目の前で吹き出すように笑われたイノリは、不機嫌をはっきりとリアクションで表す。
「いや…やっぱり若いなあと思ってね。気持ち良いくらい、恋愛観が真っすぐなものだから…」
「わ、笑うところじゃねーだろっ!」
すっかりご機嫌斜めといったところだが、本当はそんな彼のストレートさが羨ましいのだ。
誰かに心を奪われ、その気持ちを包み隠さずに表現出来る彼の素直さが。

人それぞれに、表現方法は違うのだろうが、彼はやはり、その想いを歌詞の中に紡ぐのだろうか。
あかねが気に入っている、あの『Inclusion』もまた、そんな静かな恋の歌だ。
表面だけじゃなくて、心の奥底にある恋人への想いや、自分の裏側の姿もすべて知ってほしい、受け止めて欲しいという言葉。

……私など、常に背中と壁を合わせながら、裏側を見られないように生きている。
本当の自分を気付かれないように、わざと少し離れた場所で息をひそめて。
無になってしまえば、誰も自分を構わないだろう。そして、自分もまた思い悩むこともなく生きて行ける。
そんな風に生きていければ良い。
ずっと、そんな風に思っていたのだが……。

誰にも踏み込ませるつもりなどなかったのに、気付いたら、たった一人だけが心の至近距離まで近付いていた。
鍵をかけていた扉を、彼女は簡単に外して…そこにいる。
彼女の力なのか、それとも…自分がわざと鍵をかけなかったのか、真実は一体どちらだろう。
だが、長く生きてきた中で、心の奥底で人の気配を感じたのは初めてだ。

「『Inclusion』は、良い曲だね」
つぶやくように言った友雅に、イノリは声もなく目を丸くした。



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Megumi,Ka

suga