Tenderly Melody

 第2話
「じゃあ、打ち上げ花火の音の代わりに…何かBGMを流そうか。」
そう言って友雅は立ち上がると、隣の部屋からいつものD-45を取り出してきた。
目の前で紡ぎ出す彼のギターの音は、どれだけノイズを取り去ったクリアな音源よりも、ずっとあかねの胸の中に響く。
適当にチューニングをしながら、烏龍茶を啜る彼女に友雅が尋ねる。
「特別に、リクエストに応えてあげるよ。何が良い?」
「えっ、ホントですか?何でも良いんですか?」
「大抵のものならね。ただ、最近の若い子の曲は…ちょっと微妙だけどね。」
弦を軽く弾きながら、彼は笑った。

こうして友雅と日曜を過ごすようになって、もう随分経った様な気がするけれど、リクエストを頼まれることなんて、初めてじゃないだろうか。
何度も彼の演奏は聞いて来たけれど、それらは殆ど彼が思い付いた音を奏でてくれるだけで。
もちろんその音は、いつだってあかねにとっては不思議なくらい、しっくり馴染む音に違いなかったけど…。
……あの夜、出会ったときだって。

「じゃあ、あの…こないだ言ってた『ムーンライトセレナーデ』…とか」
「それなら大丈夫。実を言うと、ここのところ思い付いたように何度も弾いていたんでね。練習しておいて、丁度良かった。」
あかねのリクエスト曲に満足したようで、友雅はチューニングを終えたガットを軽く指先で靡かせ、最初の音をつま弾いた。

自然の音しか存在しない、そんな場所の静かな夜の中に響くのは、彼が口笛で奏でてくれた、あの曲。
縁側が明るいのは、空が澄み切っているからだ。
降り注ぐ月の明かりを、遮るものがここにはない。
優しいメロディーの波長が、身体の一部となって溶け込んで来る。
昔から、そこにあったかのように。何の違和感もなく。

「元はスタンダードだからね。ギターなんかよりは、サックスやピアノの方が似合う曲なんだろうけれど。」
指先を弦から離さずに友雅が言うと、あかねはゆっくり目を開いて顔を上げた。
「そんなことないですよ。友雅さんの音なら、どんな曲でもちゃんと似合って聞こえます。」
「お世辞でも、はっきりそう言われると悪い気はしないな」
そう答えて笑ってから、再び彼は指先に神経を集中させた。

…お世辞なんて、一度も言ったことなんかないですよ。いつだって、本心だもの。
何もかも自分の呼吸に重なる音なんて、今まで聞いたことなかったもの。
音楽で、こんな気持ちになるなんて…思ってもみなかった。

彼の奏でるメロディーが終わるまで、あかねはずっと友雅を眺めながら、そんなことを考えていた。


たった一曲では、演奏時間などたかが知れている。ほんの数分、アレンジしても10分足らず。
他にもリクエストがないか、と尋ねられたけれど、なかなかピンとくる曲名が出てこなくて、他愛のない雑談だけで時間が過ぎていく。
でも、そんなとりとめのない時間の流れも、それなりに楽しい。

しかし、時間には限度というものが存在している。
シルバーチェーンの腕時計は、午後8時半近くまで針を伸ばしていた。
未成年の女子高生がデートで夜遅くまでなんて…比較的寛大だと思う母でも、あまり良い顔はしないだろう。
「残念だけれど、そろそろ送ってあげなければいけない時間だね。」
時計の文字盤を眺めたあかねを見て、友雅もタイムリミットに気付いたようだ。

これまでみたいに、町中で過ごしている時ならば良いが、ここは中心地から車で30分ほどかかる場所だ。
普通よりも、日常生活のサイクルを早めに考えていかなくては、と考え始めていた。彼女を送り届ける時間も、その日常の中に入る。
その分、一緒にいられる時間が短くなってしまうことは、少々残念ではあるが仕方がない。

グラスの烏龍茶も飲み干して、彼女が作ったオードブルも皿から消えて、BGMの演奏時間も…終了。
ブローチを、あかねは丁寧にハンカチに包んで、巾着の中に仕舞い込んだ。
何かのはずみで転げ落ちないように、底の一番奥に押し込むようにして、そしてきっちりと口を紐で閉じる。
その様子を見ていた友雅は、ひとつ思い付いたことがあった。

「最後に、一曲だけ弾いてあげようか。」
そんなつもりはなかったのだが、その時何故だか急に、この音を聞かせてやりたいという、不思議な衝動にかられた。
レコーディングに関わった者だけが、真実を知るあの曲。
「何の曲ですか?もしかして、またイメージの…?」
「いや、そうじゃなくてね。最近覚えたばかりの、新しい曲なのだけど………」
友雅の人差し指が、一本の弦を軽くはじいた。

ひとつめの音。たった一つの、その音が響いた瞬間……あかねの中に浮かんだメロディーがあった。
そして、そのあとに続く音は…彼女の中に刻まれた、あの曲と同じ音が生み出されて行く。
「……それ、この間の試聴ブースで……!」
気付いたあかねを見て、友雅は軽く微笑んだが、そのまま曲を紡ぎ続けた。

何度も何度も、天真の店に通っては聞いた…あの曲だ。
Red Butterflyの「Inclusion」。
ボーカルはないけれど、メロディーは完璧に再現されている。
しかも、驚くくらいに…そのギターの音がオリジナルと大差ない。
響き方や、なめらかで優しいトーン。弦のきしみ具合まで、まるでボーカルを消したカラオケみたいだ。

それほどに……目の前で演奏する彼のギターの音は、あの曲と同じくらいにあかねを惹き付ける。

「随分とお気に入りだったようだから、それにあやかろうと思って覚えてみたんだけれど、どうかな?」
そんなことは、もちろん嘘だ。
元々、あの演奏は自分がしていたのだから、覚えていて当然のこと。
演奏者の名前は非公開、というのが、契約上の最低条件として友雅が挙げたものだったが、彼女なら問題はないだろう。
それに、まっさらな意識の中でも、彼女はこの音に気付いてくれるだろうと、そう確信出来るからこそ。
「………」
曲が終わっても、あかねは呆然としていて、身動きさえも忘れてしまったように座り込んでいる。
「お気に召さなかったかな。何度も聞いている君にとっては、私の腕では満足出来ないかも知れないね」
D-45をそっとソファの上に置いて、ゆっくり友雅が立ち上がる。
とたんにあかねが、慌てたように立ち上がった。
「ち、違います!その逆です!びっくりしたんです……まさか、あの曲を友雅さんが覚えてるなんて、思ってなかったから…」
「仕事柄、耳にはちょっと自信があるんでね。何回か聞けば、ある程度は覚えられるものなんだよ。」
確かに、それくらいの事なら可能だが。

「だけど、細かい所までは気が回らなかったから…。もう少し、ちゃんと真面目にやらないとダメだな」
「……ううん…そうじゃなくて…」
彼女が首を横に振る。
「あまりにそっくりで、だからびっくりしちゃったんです…」

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ヘッドライトを光らせても、反射するようなものは何もない。
街灯も、人家の明かりもわずかな田舎道を、夜空と同じような紺色のアウディが街に向かって走っていた。

「だから、ホントにさっきはびっくりしちゃって…。だって、私は何回も聞いてるけど、友雅さんは少ししか聞いていないんでしょう?」
助手席に座っているあかねは、友雅が弾いた『Inclusion』の話を、とめどなく続けている。
ほんの気まぐれの事だったのに、予想以上に驚かせてしまったようだ。
だが、彼女が気に入っているあの曲の演奏者と、友雅とが同一人物であることまでは、まだまだ気付きそうにない。
気付いてもらいたくないような、でも気付いてもらいたいような…おかしな気持ちが渦巻いている。
でも、きっと自然に…運命がいつか、何かしらのきっかけを与えてくれるだろう。
今はこのまま、素知らぬ振りをしているのが、一番無理がないのかもしれない。

「私の演奏なんかで良ければ、いくらでも弾いてあげるよ。」
「ホントですか?あの曲、まだ発売前だから試聴しか出来なくって…」
彼女の嬉しそうな顔が、ミラー越しに映る。
「本物とは比べものにならないよ。それで君が良いのなら構わないけれど。」
「全然…良いですよ。だって、ホントにそっくりだったし…」

………それに、誰が弾いているか分からない音よりも、友雅さんが弾いてくれている方がずっと……良い。

さすがにそれは恥ずかしくて、照れくさくて、言葉には出来なかった。


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Megumi,Ka

suga