Tenderly Melody

 第1話
薄めに入れたコーヒーには、氷の代わりにミルク。
外から聞こえてくる、蝉の声。眩しい夏草の緑。手の中のカップからのぼる湯気は、まだ少し季節外れという感じが拭えない。
「冷たい方が良いかもしれないけれど、暖かい方が身体に染み込みやすくて落ち着きやすい。ゆっくりね、少しずつ時間をかけて飲むと良いよ。」
思い切り泣いて、少し喉もカラカラになっていた。
ソファに腰を下ろしていたあかねに、友雅はコーヒーを入れてくれた。

まだまだ夏の日差しが強いのに、身体に染み込んで来る暖かさが、彼の言う通り心地良く広がって行く。
ほんの少し…かすかに甘い。それでいて、ほろ苦い。だけど、ミルクの味がとても優しい、
「ゆっくり飲んで、ゆっくり落ち着かせて…焦らなくてもいいから。」
友雅はそう一言添えてから、奥の部屋に消えて行った。


一人になって、あかねはひとつ大きな深呼吸をした。
今も目が少しぼんやりしていて、視界がすっきりしていない。息もやや踊り気味で、平常心に戻るにはもう少し時間がかかりそうだ。
だけど、静かに口に運ぶミルクコーヒーが、徐々に神経を緩やかにする。
丁度良い円やかさ、懐かしい味を感じながら、何度も息を整えて、時々目を閉じて………帯に留められた、銀色の木の葉に手を伸ばす。

もうなくさないように、と言って、彼が浴衣の帯に留めてくれた。
二度と戻ることはないだろうと諦めていたものは、昔からそこにあったような顔で、あかねの手が触れられる場所に存在している。
ブローチをそっと帯から外して、両手で包みこんで握りしめる。
銀の感触が冷たいけれど、目を閉じて頬に寄せる。
大切な宝物が、この手の中にある。
…大切なもの。絶対なくせない、大切なもの。
それは多分、彼がくれたから…という意味での………。
くれたのも彼。拾ってくれたのも、彼。だから……宝物。
残っているはずのない、彼の手のぬくもりを想い描いて、小さなブローチを抱きしめる。
絶対に今度こそ、手放したりしない。
何よりも、これ以上大切なものなんてないのだから。

……あれ?でも、友雅さんがくれたってことが重要なら、あのパシュミナだって同じくらい大切なものだよね…。
あっちの方が、先にもらったものだったし。目の前で見ていたから、とんでもない値段のものだったし。
このブローチは、それほど高くはないって言っていたけど……。
でも、友雅さんの価値観だもんね…。あんなブランドのパシュミナ、思いつきで買っちゃうくらいだもん…。
こないだだって、その場でナイトクルーズに連れて行っちゃうくらいだもん…。
このブローチだって、高くないっていっても私から見たら、とんでもないものだったりして…。

…あ、でもそうなったら、天真くんとこの伯父さんにも、そんな高価なものをもらっちゃったってことになるかも。
そうなったら…何か申し訳ないなあ……。


「良かった。随分と落ち着いたみたいだね。」
気付くと、友雅が部屋の柱にもたれて、こちらを眺めていた。
「ちょっと前から様子を眺めていたけど、いつもみたいに表情が豊かになってる。君らしさが戻ってきたみたいだ。少しホッとしたよ。」
テーブルの上にある二つのグラスは、すっかりぬるくなり氷が溶けてしまって、中のジュースが薄まっている。
友雅はそれらを片付けて、さっきあかねのために入れておいたコーヒーの残りを、今度は自分のカップに注ぎ入れた。勿論ブラックで。

少し冷めたコーヒーのカップを手に、再び彼はあかねの隣に腰を下ろす。
ふと、そのシャツの色に彼女の目が止まった。
「…シャツ…着替えたんですか?」
さっきは生成り色のはずだったのに、今は深い紺色。
夏だから、汗をかきやすいのは分かるけれど、風通しの良いこんな環境では、エアコンを使わなくてもそんなに蒸し暑く感じないのに。
「んー…ま、ちょっと使い物にならなくなったんでね」
そう言ってコーヒーを口にした友雅の言い方は、苦笑いを含んでいた。

「もしかして、私っ…!さっき私が…」
彼が着替えたその理由に、はっとして気付いたあかねが友雅の腕を掴んだ。
すると彼は、笑いながらあかねの唇を指先で止める。
「はい、それ以上は気にしないこと。シャツなんて、いくらでも替えがあるんだから。変に考えすぎないようにね。」
唇から離した彼の指先は、ほんの少しだけピンク色が移し取られている。

多分、彼にしがみついて大泣きしてしまったから…。
涙だけじゃなくて、そのせいで崩れたファンデーションと、剥がれた薄いピンクのルージュとが、彼のシャツにこびりついて汚れてしまったのだろう。
もう少し、遠慮すれば良かったのに、と思っても遅い。
それに、あの時は、一気に流れ出した気持ちが止められなくて…。

改めて思い出してみれば、恥ずかしいったら。
18にもなって、人前であんなにわんわん大泣きして…これじゃ、子供扱いされたところで、文句の一つも言えない。
落とし物が戻って来たくらいで。そこまで泣かなくても。
でも、それほどに泣きわめくくらい…大切なものだったから嬉しくて。
「さっきから、恥ずかしがったり、困った様な顔したり…忙しいねえ。」
ぽん、と背中を軽く叩かれて、うつむいた顔を上げたそこには、彼の優しい笑顔が待っていた。



「でも、ホント…すいません、シャツ…ダメにしちゃって。」
「それもまた、考えようによっては不幸中の幸いってことでね。」
台所と呼んだ方が似合いそうなキッチンで、買い込んできたバゲットをスライスしながら、横にいるあかねに友雅が言った。
「外出先で泣かれてたら、着替えもなかっただろうし。いくら外は暑くても、人前を歩くのはちょっとねえ…?」
確かに、替えのシャツがなかったとしたら…羽織るジャケットはあったとしても、中がなければ脱ぐしかないし。
夏だから寒くはないけれど…でも、ちょっとやっぱりそれは……。
「また、頬が赤くなってるね。どんな想像してたのかな?」
「え?な、何もしてませんっ!何にも考えてませんよっ!」
スプーンの中に映るあかねの慌てた顔を覗いて、友雅は声もなく笑いが浮かんだ。

「さて、と。スライスは終わったけれど、この後はどうするんだい?」
二人分として、バゲットを4枚スライスした。それをあかねは、プレートごと受け取る。
「あ、えーと…ですね、ブラックペッパーとバジルを混ぜたバターを塗って……」
古びたダイニングテーブルに、買ってきたばかりのスパイスボトルを並べた。
浴衣の袖をまくり上げ、意外に手際よく調理をするあかねの姿を、冷えたジンジャエールを口にしながら友雅は眺めた。
ひとつひとつのスパイスを確認し、きょろきょろしながら手を動かしている彼女が、とても楽しそうに見える。
料理人のような、厳しい表情なんかかけらもなく、子供がおもちゃで遊んでいるような無邪気さが感じられて、見ているこちらもまた微笑ましく思えてきた。

「これにチーズをふりかけて、あとはオーブントースターで5分くらいかなあ」
あかねの手によって、いつのまにかバゲットはカラフルに仕立て上げられていた。

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夜になると、一層静けさが深まってきた。
雑踏が聞こえないせいだ。細く流れる川の音だけが聞こえてくる。
「そういえば、ここからでは花火は見られないね。今頃、海上では花火大会だったんだろう?」
テーブルに並べた簡単なオードブルと、程良く冷えた烏龍茶のグラスに氷を浮かべて、ベッコウ飴を溶かしたような明かりを灯す。
「うん、そうですね。確か7時半からだったから…。」
他の花火大会とはちょっと違って、この祭りの花火は最初に打ち上げられるものが目玉なのだ、とあかねは言った。

「見せてあげられなくて、悪かったね。」
「ううん、良いですよ。花火は毎年見られるし、夏祭りだけじゃないし。」
彼の手にあるグラスの中で、氷が鈴のように涼やかな音を奏でる。
……花火はいつだって見られる。でも、彼と過ごせるのは週に一度だけだから。
両方を天秤に掛ける必要もないくらいに、比重がどちらにあるかなんて明らかだ。


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Megumi,Ka

suga