終わりゆく夏の音

 第4話
確かに、緩やかな流れの小さな川には、メダカのような魚の姿が見てとれた。
涼しげなせせらぎの中、透明な水は河原の砂利も映し出す。
「風情があるというのは、こういう景色のことを言うのかもしれないね」
友雅は、そうつぶやいた。
けれど……あかねとしては、そんな光景も頭に入らない。
こんな、彼の腕に抱きかかえられた姿勢では、他のことに気が回るはずがない。

「あ、あのっ…重いでしょうっ!?も、もう大丈夫ですから、家の中に戻りませんかっ?」
「最近の女の子は、神経質すぎるねえ…。君くらいの体重なんて、軽すぎるくらいなんだから気にしなくて良いよ。」
「っていうかっ…そ、そういうわけじゃなくって…」
体重も気になるけれども、一番気になるのは、顔と顔の距離。
近付きすぎて、顔が熱くなる。
こんなに涼しい場所にいるのに、自分だけが熱帯夜にいるみたい。

「お姫様抱っこなんて、滅多に機会がないけれど…なかなか良いものだね」
そう言って笑う彼の顔は、もう目と鼻の先。ふいに触れてしまいそうなほど、距離なんてあるかないか分からないほど。
何をされても、この格好では身動きも取れないし…。
って、何をされるわけでもないのだけれど…。今更、そんなこと…初めてじゃないけれど…。

--------きゃーっ!!!
声にならないあかねの絶叫が、友雅には気付いたかどうか。

「これじゃ、何も出来ないけどねえ」
耳元で、笑う声がする。彼の首にしっかりとしがみついた、あかねの耳元で。
肩に顔を押しつけて…これでは、いくら友雅でも手が出ない。
一度は唇でも奪ってみようかと思ったのだが…残念ながら今日は無理のようだ。
「ごめんごめん、お客様に失礼なことをしてはいけなかったね。」
そう言いながら、友雅はあかねをもう一度抱き直し、そして、子供をあやすような優しい手つきで、彼女の髪を撫でようとした。

その時、再び聞こえた金属が触れる音。
ぎゅっと締め付けていた髪の毛が、とたんにふわりと自由になる感覚。
「…ああ、また解けてしまったか…」
友雅は、抱いていたあかねを縁側へ下ろしてやると、庭先に落とした彼女のかんざしを拾い上げて、もう一度あかねに手渡した。

「浴衣姿にはよく似合って可愛いのだけれど、髪がさらさらしていて軽いのかな。だから、結い上げても滑って解けてしまうのかもしれないね。」
手元に戻ってきたかんざしを、眺めながらあかねは思った。
ちゃんとさっき確認したはずなのに、どうして取れてしまうんだろう…。
「髪の色と似たようなヘアピンとかで、固定しておけば外れないかもしれないよ」
…そうか。そういう補強をしていれば良かったのかも。
いざというときのために、予防策を立てておけば良かったのだ。
あの時だって……デート以外で使わないようにしていたら、落としたりもしなかったかも…。
あかねの中で、常になくしたブローチのことが忘れられない。

「夏まつりに似合う浴衣も良いけれど、いつものような感じも可愛いし。今度はもっと気楽な格好でおいで。もうすぐ、プレゼントしたパシュミナにも良い時期だろうしね。」
彼がくれた、レモン色のパシュミナ。
暑い夏の日も、冷房避けにと手放せなかったそれを、スナップ代わりに留めていたあのブローチは、もう手元にない。
パシュミナもブローチも、どちらも欠けていてはいけなかった。ふたつでひとつだったのだ。
友雅がくれた…たったひとつの理由で。

「どうかしたのかい?急に黙ってしまって。」
うつむいたあかねは、手の中にあるかんざしを見つめたまま、何も答えない。
友雅が問いかけていることも、気付いていないのだろうか。
「何か気になることでも?」
「…ううん、別に…何でもないですけど…」
言えない。彼がくれた、あのブローチをなくしたなんて…とても言えない。
大切にしていたのに、それなのに…どうしてそれがなくなってしまうんだろう。


「ああ、そうだ。ちょっとそこで待っていてくれるかい?」
ふと、何かを思い出したかのように、友雅は家の中に上がると、廊下続きの奥にある部屋へと姿を消した。
そして、彼が戻ってきたのはわずか1〜2分後のこと。
うなだれていたあかねの肩を、後ろから軽く叩いた。
「はい。シンデレラの忘れ物。」
振り向きざまに手渡されたのは、クラフトペーパーの小さな包み。
中身は、見えない。
でも……この手に感じる重さ、どこかで何となく記憶があるのは……何故だろう。
開けてみるように、と友雅に言われて、あかねはそっと紙を開いた。
その中から出てきたのは…………。

「管理人さんが拾ってくれていてね。丁度その後に私が立ち寄った時、心当たりがないかって言われたものだから、預かってきたんだよ。」
手の中に輝く、青い雫をちりばめた銀色の木の葉。
それは、間違いなくあかねが、ずっと肌身離さずにいた、あのブローチだ。
友雅がくれた、銀のブローチ。天真の父が土産でくれたものではない。
彼が…あかねにくれた、なくしたはずのブローチが今この手の中にある。

戻ってくるなんて思わなかったのに、その重みは確かにここにある。
頭から離れなかった、あのブローチが…友雅の手から、もう一度あかねの手の中に帰ってきた。
「……大丈夫かい?どうした?」
震えだした、彼女の肩に手を掛けた。あかねは、顔を上げようとしない。
両手でブローチを握りしめたまま、うつむいた瞳から通り雨のような雫がぽたぽたとこぼれ落ちる。
「そんなに落としたのが、哀しかったのかい?」
うなづくことも、首を振ることもせずに、彼女は涙だけをこぼし続けている。
両手で顔を覆ったまま。

突然に手の中からすり抜けた、彼とのささやかな繋がりが、再び補修されていく。
これで途切れたかと思っていたものが、もう一度元に戻っていく。

「もう、戻って来ないって…思って…た…」
顔を上げずに、涙を交えたあかねの声が聞こえてくる。
崩れそうなその肩を、友雅はそっと手を宛がった。
「何もそんなに思い込むような、たいそうな物でもないよ。プレゼントしておいて、こんな事を言うのも何だけど、高価というわけでもないし。」
純金やプラチナなら値も張るだろうが、スターリングシルバーならば、それほどでもない。ちりばめたブルートパーズも、手軽な値段のものだろう。

だが、あかねにとっては、一般大衆が計る価値など関係なかった。
「ちが…う…そういうの…そういう意味じゃ…なくて…」
そんなことよりも、ずっと大切な意味がある。
「せっかく…せっかく友雅さんが…くれたものだったのに……」
こだわり続けていたのは、すべて彼のせいだ。
彼がくれたものじゃなかったら、きっとこんなに思い悩む事はなかった。
友雅が贈ってくれたものだったから…大切な宝物だったから。
「大切にしてたのに……って…それなのに…なくしたりして…」
手元に戻ってきたことの嬉しさと、そこまで大切だった物を安易に落としてしまった自己嫌悪感と、それらが混ざり合って涙が止まらない。
気持ちがすべて溢れだしてきて、すべてが涙の雫に変わる

「ごめんなさい…っ…」
震えながら、あかねの声がかすれるように聞こえた。


「ね、抱いても良いかな?」
……びくっとしたあかねが、やっと顔を上げた。真っ赤に腫らした瞳は、まだじわじわと潤んだままだ。
「しばらく、抱きしめていても構わない?」
「え…ど、どうして……」
「いや、理由は特にないんだけど。ただ、何か…そういう気分になったから。」
優しく微笑む友雅は、ゆっくりとあかねの手を引き寄せる。
そして、倒れ込むようにして傾いたあかねの身体を、その腕の中に閉じ込めて静かに抱え込んだ。

「あのね…手元に戻ってきたんだから、もうそれで良いじゃないか。それ以外のことを、あれこれ悩む必要なんかないんだよ。」
その声は、あかねの心の乱れを静かに水面を撫でるかのように、穏やかな感触で落ち着かせていくかのようだ。
暖かい手が背中を包み、その腕で守ってくれているみたいな安心感。
「でも…そこまで大切に思ってくれているのは、嬉しいけれどね。」
彼の笑い声が、耳の奥から胸に染みこんでくる。

「そんなに大切にしてたくせに…簡単になくしちゃったりして…って、思ってないですか…?」
「思ってないよ。そういう運命だったんだろう、きっと。だけど、こうして戻ってきたのも、またそういう運命だよ」
そんな容易いものならば、もっと昔に壊れていたはずだ。
それでも、予想しない偶然は二人をつなぎ止める。どんな時でも、繰り返される偶然の中で絆は深くなる。
「すべて元通り。何もなかったって思えば良いんだ。だから、もう泣かなくて良いんだよ。」
友雅はそう言ってくれた…けど、やっぱり流れ始めた涙は止まらなかった。
これまでとは違う意味で。

彼の胸にしがみついて、あかねは堰を切って泣き出した。
だが、友雅は何も言わなかった。黙って、ただ抱きしめてくれるから、もう我慢することなく思い切り、あかねは彼の腕の中で泣いた。




-----THE END-----


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Megumi,Ka

suga