終わりゆく夏の音

 第2話
あかねは、今友雅が言った言葉を理解しようとした。
夏まつりに、一緒に行ってくれるって…今、そう言った?
「良いんですか?そういうところ苦手なんじゃ…」
手のひらに乗ってしまいそうな、エスプレッソのカップを傾けながら、あかねの顔を友雅の笑顔が見つめる。
「たまには良いよ。それに、こんなに綺麗に着こなしている浴衣姿なんだから、それが似合う場所に行かないと勿体ないだろうしね。」
彼が思ったとおり、あかねの表情がふわりと明るくなった。

言葉ではこちらを気遣っていながら、本音はやはり逆だろうと思っていたので、敢えてそういう提案をしたのだが正解だったようだ。
正直な所、あかねの言うとおり得意な雰囲気ではないけれど、昼間の少しくらいなら良いだろう。
それに、柔らかい彼女の表情を見ていたら、逆にそんな選択をして良かったと、そんなことも感じてしまう。
「私より、ああいうところは君の方が詳しいだろうから、案内役は任せても良いかいかな?」
「あ、はい…勿論。」
素足を忍ばせた下駄の鼻緒が、つま先を彩るペディキュアと同じ、鮮やかな赤い色で染まっていた。

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子供から大人まで、あらゆる世代の人間のるつぼだ。
潮風が吹いているのに、行き交う人々の熱気と、屋台のモーターの熱で、祭りの会場は少し蒸し暑い。
はぐれないように、友雅はあかねに腕を貸した。
最初は少し照れくさそうだった彼女も、そうしている方が歩きやすいことに気付いて、今では自然に腕を絡ませている。
「これまでも、こういうお祭りには来ていたの?」
「そりゃもう毎年!焼きそばとかかき氷とか、あとは金魚すくいとかヨーヨー釣りとか…。夜は花火を見たりして、遅くまで遊んでましたよ。」
氷水に浸されたミネラルウォーターのボトルは、しっかりと中身まで冷えている。
友雅はそれを一本、あかねは隣の屋台で雪だるまのように山盛りになったかき氷に、ボトルと同じような色のブルーハワイのシロップをかけてもらった。

それらを手に、二人は臨海公園近くの芝生へと移動した。
どこに言っても混雑しているのは変わりないが、その辺りはまだ腰を下ろす場所が残っている。
「成る程ねえ…私は全然こういうのには縁がなかったな。家の近くで、そういうのをやっていなかったしね。それに、何度か引っ越したりもして落ち着かなかったからねえ…」
ボトルを時々傾けながら、友雅は目の前を走り去る子ども達を見た。それを、あかねは同じように視線で追いかけてみる。
……そういえば、友雅さんは小さい頃…。
確か、以前そんな話を聞いた。幼い頃に、母親の所へ引き取られたのだと。
どんな子供時代を過ごしていたのか、あかねには全く見当も付かない事であるが、突然に家族がバラバラとなった環境では、こんなところで無邪気にはしゃぐ機会なんてなかったのかもしれない。

「そういえば、この間は悪かったね。」
少し溶けかかったかき氷を、スプーンで手持ち無沙汰にかき回していると、隣に腰を下ろしている友雅が口を開いた。
「マンションを訪ねてきてくれただろう?管理人が言っていたよ、女の子が訪ねてきたって。」
あかねは、先週のことを思い出した。友雅の部屋を訪ねた時のこと。
辿り着くまでにどきどきして、着いたと思ったらいろいろな事が起こって……。
「せっかく来てくれたのに、"引っ越した"とか言われて、驚いただろう」
「はあ…ちょっとだけ…」
びっくりはしたけれど、それよりもたくさんのことがあって。
あの時会った女性のことや、彼女と友雅がどんな関係なのか、とか。突然引っ越した理由も、それをあの人に知らせないように、と口止めしている理由も。
でも、そんなことはどうでも良いくらい、あかねには気になることが今でも胸に残っている。

「それで、何か用事だったの?わざわざ訪ねてくるくらいなんだから、急な用事があったんじゃないかい?」
彼に尋ねられたとたん、あかねははっとして我に返った。
「あ、ああっ!ど、どうしよう……私、忘れちゃった……!!」
落としたブローチのことで頭がいっぱいで、あの日友雅の部屋を訪れる原因となった、例のものをあかねはすっかり忘れていた。
先週、彼に渡し忘れたワインクーラーと、半分ずつ分けようと約束したバタースコッチ。
あれを渡すために彼のところへ行ったのに、よりにもよってそれを持ってきていないなんて…一体何をやっているのか。自己嫌悪だ。
そんなあかねから話を聞いた友雅は、思わず声を上げて笑ってしまった。
「なんだ、そんなこと…気にしなくても良かったのに。」
「だってあれは友雅さんが買ったものだし…それに、バタースコッチだって…」
真剣な目をして、彼女は力説する。

未成年の彼女には飲めないワインクーラーは別として、バタースコッチなんて500円でもおつりがくる程度のものだ。
そんなものを半分したところで、些細な物に過ぎないのに。
「良いよ、元々君が気に入っているってことで買ったんだし、全部あげるよ。」
「ダメですよ、半分ずつって約束だったんですから!」
真っ直ぐな目をして話す彼女の瞳が、眩しいくらいに輝いている。
ちっぽけなものさえ、ないがしろにしない。彼女の中では、小石さえも宝石と同類項として扱われる。
気付かずに通り過ぎてしまいそうなものも、その瞳には必ず目に映るだろう。そして、彼女は通り過ぎずに立ち止まる。
それは、どこまでも純粋じゃなければ得られない感情だ。

「来週は絶対!絶対に持ってきますから!今度は絶対に忘れませんから!」
「はいはい、分かったよ。じゃあ、来週を楽しみにしているよ、そのバタースコッチもね。」
彼女の隣で自然に沸き上がる笑いが、無性に優しくて心地良い。


「ああ、そうだ…。もし良かったら、新しい住まいに招待しようか?」
「え?友雅さんの…引っ越し先ですか?」
氷が溶けてしまったシロップを、あかねはそのまま飲み干した。
「そう。遊びにおいでと言ったのは、もともと私の方なんだし。誘っておいて引っ越してしまっては、意味がないものね。」
友雅はそう言うけれど……あかねの中ではやはり引っかかるものがあった。
あの日、ロビーで会った金髪の女性。
管理人の男性は、『あの人には引っ越したことを伝えるな』と言われていたと。
何故、そこまで彼女に消息を隠すのかは分からないが……そんな場所に自分を連れて行っても良いんだろうか。

「良いんですか?私なんか連れていっても…」
ためらうように尋ねると、友雅は何一つ迷わずに平然と答えた。
「構わないよ。君は例外だからね。」
少し残っていたミネラルウォーターを、友雅は一気に飲み干す。
「今更、君に隠す必要なんかないし。知られたところで、困ることもないしね。遊びに来るにしても、場所が分からないとどうしようもないものね。」
彼は微笑みながら、あかねに告げた。

……あの人には隠しても、自分には隠さなくて良いの?
開け放ってくれている、その扉の向こう。鍵を付けずに…あるいは、鍵を渡してくれているのかも。
踏み込んでも良いエリアが、少しずつ広がっていくのが分かる。それを知るたびに、どきどきする。
「来るかい?ちょっと遠いんだけれどね…だから、今日は車なんだよ。」
「…はい。お邪魔しても構わなければ。」
「勿論。誘っておいて、邪魔になんかしないよ。」
友雅は大きな手を翳して、あかねの前髪を軽く掻き上げて笑った。

ゆっくりと立ち上がった彼は、身体を少し伸ばして深呼吸をする。そして、あかねの手を取って彼女を立ち上がらせた。
「さて、招待するのは構わないんだが…何せまだ引っ越したばかりで、客人をもてなすものが殆どないんだよ。それで、ちょっと色々と買い足したいものがあるんだけれど、付き合ってもらえるかな?」
「良いですよ!私、そういうの大好きなんで、お店とかなら結構詳しいんです!」
「じゃあ、色々と任せようかな」
友雅は、彼女に腕を差し出した。その腕に、あかねはそっと手を絡める。
そして二人は、祭り会場とは逆の方向へ歩き出した。



「ちょっとー?何やってんの?蘭ってばー!」
綿飴の屋台に並んでいた友達が、大きな声で呼んでいるのも耳に入らない。
蘭の視線は、人混みの向こうに見えた姿に釘付けだったからだ。
横顔を見たから、人間違いではないはず。だとしたら、あかねの隣にいたのは…おそらく。
『ええっ!もしかして、あかねちゃんの彼氏!?』
ここで会ったが百年目と言わんばかりに、蘭は友達を差し置いて駆け出した。

"腕を組んで歩くなんて、絶対彼氏に間違いないもの!"。
せめてひとめでも、相手をこの目で確認したい。出来れば、決定的瞬間をキャッチしたいものだが……。
しかし、さすがに祭りの会場では、自由に身動きが取れない。
人並みをかき分けながら進んでも、あっという間に二人の姿は視界から消えてしまい、ついには見失ってしまった。

それにしても、相手はどんな人だったのだろう。
顔は見えなかったけれど、背が高くて……もしや、社会人だろうか。
『うわーっ…もしかして年上の彼氏〜っ!?』
追いかけるのはもう無理だけれど、次に会った時には絶対にあかねに問い質してみよう。
そう決意して、蘭は友達の待つ場所へと戻っていった。



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Megumi,Ka

suga