終わりゆく夏の音

 第1話
日曜日が近付くたびに、ワクワクして、少しどきどきして…そんな気持ちがずっと続いていた。
早く日曜日が来ないだろうか、と。日曜日が終われば、早く一週間が過ぎてくれないかな、と。
待ち遠しかったはずの日曜日なのに、今は近付くその日が憂鬱で仕方がない。
会いたいけれど、少し怖い。尋ねられたら、どう答えようかと、そればかり考えている。
正直に、なくしてしまったと言ってしまおうか。
…多分友雅は、怒るなんてことはしないと思うけれど、でも…。

「ねえ、あかね、ちょっと…」
リビングでぼんやりとしているあかねに、母が声を掛ける。
「あんた、これ着てみない?」
顔を上げて母を見ると、その手には浴衣が広げられていた。藍色の地に描かれた椿模様が、少し古風かも。
「どうしたの、それ」
「これね、あんたのお祖母さんが若い頃に着てた浴衣なのよ。昔のものにしては、結構今でもいい感じの柄でしょ。」
昭和初期や大正時代などのアンティーク着物が、最近は流行っていると聞く。
これも、そのひとつと言えるだろう。
浴衣は夏のファッションとして定着し、毎年有名ブランドなどが新作を展開する。
手軽に購入できる価格のものも増えている。
でも、これはまた違った感じだ。古い感じを作り出すような雰囲気ではなくて、時代を積み重ねてきた印象が、本格的なアンティークさを醸し出している。

「物は良いのよ。あまり傷んでないし。せっかく夏なんだし、週末はおまつりじゃないの。だから、着てご覧なさいよ。」
そう言って、母は半ば強引にあかねに浴衣の袖を通させた。
「うん、良いんじゃないの。丁度サイズぴったりだわ。これだったら、仕立て直す必要もないわね。」
昔の人にしては背が高かったらしい祖母の着物は、現代では平均身長に過ぎないあかねの背丈に、あつらえたように似合った。
藍色に、山吹色の帯。ちょっと大人っぽくて地味過ぎるかな、と思ったけれど、鏡に映してみるとそうでもない。
「着付けはお母さんがやってあげるから、今度の日曜はこれ着て出掛けたら?」
鏡の中の自分の背後にいる母が、あかねの肩をぽんと叩いた。

母には、それとなく気付かれている。
休日出勤も多い父は、あかねが毎週日曜日に出掛けていることは知らない。
だが、専業主婦の母は、そうはいかない。
洋服やら靴やら、前の日からあれこれ悩んでいる姿を見れば、娘に彼氏が出来た…と嫌でも感づくだろう。
しかし、同じ女性である立場のせいか、意外にあかねの母は恋愛に対して寛容みたいだ。あまりとやかく、うるさい事は言わない。
受験生であるあかねの心配もしているけれど、ここのところ成績が上昇しているところを見れば、文句も言ったりしない。逆に、こうしてデートの服装を提案してくれたりもする。
ただ、相手がどんな人なのかは……何一つ教えていないけれど。

「夏まつりデートも、たまにはいいんじゃないの」
母が言った言葉に、鏡の中にいる浴衣姿の自分を見る。
浴衣だったら、ブローチがなくても…違和感を覚えないかもしれない。かんざしとか、髪を飾るものなら別だが、浴衣にブローチなんて必要ないだろうし。
夏まつりだから、というわけじゃなくて、逃げるための理由。
ごまかすための工作。気付かれないで済ませたい。
それでも、日曜日は会いたくて仕方ないから。

+++++

古い家屋は風通しが良くて、エアコンもそれほど必要ではなかった。
周辺に民家が密集していないせいだろう。自然の風は、肌に馴染んで心地良い。古びた床板や、柱の香りも意外に落ち着く。
だが、不便なことが一つあるとしたら、車が必需品だということだ。
日用品を手に入れるにしても、仕事先であるスタジオへ行くにしても、車を足にしなくては行動出来ない。
運転は面倒くさいけれど、そのおかげで彼らの眼中から外れることが出来るのならば、まあ仕方がないと諦めるしかないだろう。
考え方を変えれば、行動範囲が広がるとも言えるし、移動中に他人の目に晒されることもない。マイナスだけではなくて、プラスの面も多いものだ。

「さて…これから少し早めに、出掛ける習慣をつけないと」
友雅は麻のジャケットを羽織り、車のキーを手にした。
そして、もう一つ。ポケットの中に、クラフトペーパーに包んだ銀色の木の葉。
落としもののガラスの靴を手に、シンデレラを探した王子の気持ちが少しだけ分かる気がする。



「そっか。今日って駅前周辺で夏まつりだったんだよね。」
待ち合わせの喫茶店で、詩紋は浴衣姿のあかねを見て、思い出したようにそう言った。
8月の第3週末は、毎年夏まつりがある。駅の周辺から臨海公園エリアまで、いつもよりも賑やかな雰囲気に包まれる。
昔懐かしい屋台から、現代風の無国籍屋台まで、老若男女問わずに人がごったがえす。夜には、海上に花火が打ち上がる。まさに夏の風物詩のオンパレード。
「じゃあ、今日はあかねちゃんたちも、おまつりデートなんだね。浴衣着ちゃったりして。」
アイスカフェオレに添えられたクッキーは、そんな浴衣姿に似合う抹茶味だった。

もうすぐ、友雅がやって来る時間だ。
いつもとは違うこんな格好に、驚くかも。でも、それでブローチのことに気付いてくれなければ良い。
どうか気に留めないで、と祈りながらあかねはストローでグラスの氷をくるりと回してみた。
こんな理由でのドキドキなんて、欲しくない。

約束の10時を15分ほど過ぎた頃だった。
グラスの氷が溶け出して、中身が二層に薄まり始めていた。チャイムが揺れて、ドアが開く音がする。
どきっとして、それと同時に掌が汗をかく。いつもの場所で、彼が席に着くのを待ちながら、それでも視線を向けられない。
聞こえて来る足音。こちらに近付いて来るリズムよりも早く、胸の奥の鼓動が動きを早める。
「驚いた。日本人形は、自分で歩いてここに来ることが出来るんだね。」
声がすると、そのまま顔を逸らしてもいられない。共布で作った巾着の紐をぎゅっと握りしめ、思い切って顔を上げる。
「でも、よく似合ってる。何となく艶やかで、そういうスタイルも新鮮で素敵だと思うよ。」
そう言って、いつものように笑いかけてくれるから…単純な心はさっきの戸惑いを少し吹き消してしまう。
もちろん全部は消せないけれど…びっくりするくらい軽くなる。

「お祖母さんのお下がりなんです。お母さんが…せっかくお祭りなんだから、着てみたらって言うんで…」
「ああ、それで…。ここに来るまで、今日は何だか浴衣の女の子達が多いなあ、と思っていたんだけれど、その理由が分かったよ。」
友雅は決まっているかのように、あかねの前の席に腰を下ろすと、オーダーを取りに来た詩紋にエスプレッソを注文した。


「夏まつり、か。どこでやっているんだったかな」
「駅前から海の方まで、ずーっとです。夜になると、今日は花火大会があるんです。だから混んでるのかも。」
打ち上げ始まるのは7時頃だけれど、昼間から場所取りは始まっているのだ、とあかねが言うと、"その気合いに敬服する"と、笑いながら友雅は答えた。
「だけど、それじゃあ街は一日中大混雑だね。」
「そうですね…っていうか、遅くなればなるほど、どんどん人が増えて来ると思いますよ。」
生憎と、今日は車持ちだ。中心街にいては、いずれ渋滞に巻き込まれて行き来も容易ではなくなるだろう。
車を使っても、外を歩いていても、人混みをかき分けて歩かなければいけないことは、必須だ。

ふと、目の前にいる浴衣姿のあかねを見る。少し古風な柄の浴衣に、きらりと揺れるかんざしの色が鮮やかだ。
着付も面倒だったろうに、そこまでしてやって来るくらいなのだから、祭りを見て歩きたい気持ちがあるのだろうな、と思う。
おそらく昼間でも、かなり混雑していそうだが……。
「ところで、今日の提案なのだけれど…夏祭り、行ってみたい?」
レモンシフォンを口に運んでいた、あかねの手が一旦止まる。
「そういう賑やかすぎるところって…友雅さん、あまり好きじゃないんじゃないですか…?」
普段の街なら気にならないけれども、祭りとなると雰囲気はがらっと変わる。
それを『賑やかだ』と肯定するか、それとも『騒がしい』と否定するか。それは個人の感性で異なる。
そして、友雅は何となく…後者のような気がする。

---------もしかして、浴衣なんか着てきちゃって…、問答無用にお祭りに行こうって誘ってるように見えたかな…。
あかねは自分の格好を思い出して、少し考えてしまった。
別に、夏まつりに行きたいから、というわけじゃない。
ただ…あのブローチがなくても違和感がない格好と言ったら、こういうものしか思い付かなくて。
それが丁度、祭りの当日にぶつかってしまったので…と、タイミングが合い過ぎてしまっただけ。
でも、それでも友雅にとっては、強引に祭りに連れて行ってくれ、みたいに取られてしまったか?。だとしたら、結構迷惑だったんじゃ…。

そんなあかねの心境とは違って、彼はいつもと変わらない表情でこちらを見た。
「それじゃ、昼間は夏まつりを見て回ろう。で、夜は多分混雑して動けなくなりそうだから、場所を変えて静かなところで過ごすのは、どうかな?」


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Megumi,Ka

suga