From Cinderella

 第3話
古びた感じの佇まいは、基本的に肌に慣れている。生まれ育ったあの屋敷も、洋館とは言え随分と古い建物だった。
床や窓枠は、まさにこれくらい年期が入っていたように思う。そう思うと、昔の建築物は長持ちするものなのだな、と友雅は思った。

どうせ寝るくらいしか、必要ない場所。あとは、彼らの目から逃げられれば良い。
テーブルと、ソファとベッド。部屋数は以前よりも多いから、洋服やら面倒な雑貨物は一部屋を倉庫代わりにすれば、クローゼットも必要ないし。
必要最低限の家電と……数本のギター。耳を澄ませば、喧噪や車のクラクションではなくて、虫の声。

きしむガラス戸を開けると、丸い月が輝いて見えた。
「……やっと、のんびり月を眺められるようになった、か。」
D-45を手にして、庭を照らす月光を眺めながら、友雅はまた同じ曲をつま弾く。
このところ、ずっとこればかり弾いている。
昨日は曇りで、月なんか見えなかったのに、それでも毎日のように繰り返し、同じ曲を奏でる。
深く響く弦の音は、静かな月夜にはよく似合う。
新しい塒で過ごす一人の夜は、まさに「ムーンライトセレナーデ」がふさわしい夜だった。

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「あー、足腰痛えなあ…まったく、良いようにこきつかいやがって」
「若い子の言う言葉じゃないねえ。あれくらいで身体が痛むようじゃ、ライブで飛び跳ねたあとはどうなるんだい?」
「ライブは別。一緒にすんなよ、あんな肉体労働を。」
昼下がりのテラスに、燦々と光が差し込む。
まだ外の空気は暑さを引きずって入るが、スタジオの中はひんやりと適正温度のエアコンが効いている。
イノリ達は、少し遅いランチタイムを取っていた。

「そんな、身体にガタが来ている君に言うのは心苦しいんだが…夕方1時間ほど、ドライバーとして車を出してもらえないかな?」
「はあ?」
チーズのこぼれそうなピザトーストをかじるイノリが、友雅の声に顔を上げた。
何を言い出すかと思ったら、更に雑用を押し付けるつもりか…?と怪訝な表情を浮かべると、隣にいた彼のマネージャーが口を挟んだ。
「橘さん、よければ私が運転を致しますが?」
すると彼は、意外にもそれを押し返した。
「いやね、何かと彼の方が都合が良いんだ。君みたいなしっかりした青年だと、ちょっと堅苦しく思われてしまうかもしれないからね。」
「俺なら適当に扱えるから、ってのかよ」
不服そうに言うイノリの感情表現は、いつもストレートで気持ちが良い。こう見えて、結構素直な性格をした少年なのだろうと思う。
今時にしては、廃れていない貴重な存在だ。

「それ相応のお礼はするよ。昨日の労働分もプラスしてね。」
……昨日は、幻とも言われるD-45を直に弾かせてもらったが、それ以上の礼とは一体何なんだろう。
もしかしたら、あれ以上のお宝ギターなんかがあったりして?
得体の知れない素性を持つ友雅だから、もしかするともしかするかも。そう思うと、少し興味が出て来た。
「まだレコーディング作業は残ってんだ。あまり時間は使えねえよ。ホントに1時間くらいで終わるんだろうな?」
「大丈夫。そんな面倒なことではないから。」
取り敢えず、タイムリミットは1時間ということで、友雅はイノリの約束を取り付けた。


イノリには丁度良いくらいのワゴンRも、長身の友雅には少し狭いかもしれない。
どうせなら、彼のアウディで出掛ければ良いと持ちかけたが、それが出来ないからイノリにドライバーと頼んだ、と言われた。
一体何を考えているのやら。後部シートから案内されるがままに、イノリはハンドルを回した。
辿り着いたのは、見覚えのないマンションの前だった。

「それじゃ、すぐに戻るよ」
ドアを開けて、彼は急ぎ足で階段を上がって行く。その向こうには、広々とした玄関ロビーがあるようだ。
ホテルのような佇まい。10階建ての随分と立派そうなマンションだが…もしかして、前に住んでいた部屋がここか?
だとしたら、どうしてまたあんな辺鄙な場所に引っ越そうと思ったのか。
ますます彼の頭の中は読み取れない。



管理人室の前を無視して、友雅はエレベーターで最上階まで上がる。
もう2週間ほど訪れていない、元の自分の部屋ではあるが、どのみち日常的なものなど何もないから、突然留守にしても問題はない。冷蔵庫の中身も、缶ビールが3つほど冷えたままという状態だ。

だが、入ったとたんに感じた違和感は、すぐに察知できた。
部屋の隅にあるダストボックスに、突っ込んだままにしていた書類の山。それらが、きちんとしわを伸ばされてテーブルの上に積まれている。
寸分違わず、ソファの目の前に。座ったら、嫌でも目に映る位置を計算しているかのように。
「面倒くさいな…。そこまでして、こんなものを読めというのかね…無意味だと言うのに。」
友雅は見なかった振りをして通り過ぎると、ベッドルームにあるクローゼットからコートを数枚出した。
新しい住処は古い家なので、結構風通しが良い。これからの季節は、少し厳しいかもしれない。などと、色々考えながら、その奥にあるいくつかのギターケースのうち、一本を持ち出した。
「ま、あとは処分してもらえば良いか。」
これで、引っ越し作業は終了だ。
どうせ日々が過ぎれば、少しずつでも新しいものが増えて来るのだ。全部持ち帰っても荷物が増えるだけだし。
そして友雅は、玄関のドアを閉じた。
もう、ここに来ることは二度とないだろう。


「お久しぶりです。いろいろと長い間世話になりまして。」
最後に管理人室の窓を叩くと、部屋の中にいた男性が気付いて、すぐに戸を開けて出てきた。
「ああ、橘さん。もう引っ越し作業は済んだんですか?」
「まあ取り敢えず。あとは全部、処理してもらって構わないので、頼みますよ。」
数年間ここに暮らしたが、この管理人は人当たりが良い割には口が固い。
住人の意志が第一で、部外に余計な口を出さないところが信頼出来た。

「それにしても、タイミングが良かったですよ。二時間ほど前…例のお客さんが来ましたよ。」
彼女のことか。予想はしていたことだ。
おそらくそろそろ、また探りにやって来るだろうと。そして、いなければいないで、自分の居場所を問いつめただろう。
「最後に面倒かけて、すいませんね」
「いや、まあその人は別に構わないんですがね…ただ、同じ頃にもう一人、女の子が訪ねて来ましたよ。」
…女の子?友雅の薄い人脈の中で、そういう形容詞を持つのは、たった一人しか思い付かない。
彼女がここにやって来た?一体どんな理由があって?
「その子は…何か言っていたかい?」
「あー…いやあ、すぐに帰ってしまったんで分からなくて。ただ、橘さん私に、あの金髪の女性には引っ越しの話を言うな、と言ってたでしょう。だから、その子には引っ越した事を教えちゃったんですよね。」
但し、引っ越し先はまだ聞いていないので、移転先は知らないと言っておいたが。

「…言っちゃ悪かったですかね?」
「いや、良いよ。彼女には、隠す必要はないから。」
でも、あかねがここに来た理由は分からないにしても、急に行方を暗ませたと思って不安に思わなかっただろうか?
次の日曜にも逢えるのだけれど…それを待たずにやって来たと言う事は、友雅に用があったのは間違いないのだ。
「可哀想なことしたかな…早いうちに、彼女には伝えておけば良かった。」
せめて引っ越すことくらいは、言っておけば良かったと友雅は悔やんだ。

「そうそう、橘さん、これ…見覚えあります?」
カウンターの上に、金属音が当たる音がした。
ごつごつした男性の手が、すっと差し出したそれは…銀色の木の葉のブローチ。
「丁度そこのフロアの突き当たりに、落ちてたんですよ。おそらく、あの金髪美人か、その女の子のものだと思うんですが、分かります?」
友雅はそれを手に取る。分からないはずがない。自分が…彼女のために買って来てもらった、あのブローチだ。

「まるで、シンデレラのガラスの靴みたいだな」
ふと、それを握りしめて友雅は笑った。
「心当たりがあるようでしたら、お渡ししてもらえませんかね?」
「ああ、勿論。きちんと返しておくよ。拾っておいてもらって、感謝するよ。」
ポケットの中に、そっとブローチを忍ばせて、友雅は彼に最後の礼を言ってマンションを出た。

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きっかり1時間以内に、イノリ達はスタジオに帰還する事が出来た。
荷物とは言えないほどの物たちを、駐車場で友雅の車に移し替えた。その中には、ギターケースも一つあった。
「また、それもプレミアもんのギター?」
今更彼がどんなギターを所有していても、それ自体には驚いたりはしないけれど、イノリがそこで驚いた理由は、友雅がそれを自分に突きつけたからだった。

「お礼だよ。君が使いなさい。」
「…はぁ!?…まさか、これが手伝いの礼っての!?」
「そう。アコギメインの私には、あまり縁のないものだからね。君なら、エレキの方が頻繁に使いやすいだろう。宝の持ち腐れになるよりは良いと思うしね。だから、君にプレゼントするよ。」
ケースには「Gibson」の文字。もしかして中身は…。
「ちょ、ちょっとここで開けて構わねえ!?」
友雅は笑顔で承諾した。

イノリは逸る気持ちで、ギターケースを開けてみると、そこに横たわっていたのは間違いなく…「Gibson」のレスポールモデルだった。
「74年の20周年記念モデルとか、メモには書いてあったかな。私のD-45よりも少し若いね。」
と言えば…結構なプレミアモデルじゃないか。それを、簡単に人に譲るなんて、どういう神経をしているんだ?
それよりも、このレスポールにしろ、彼の愛用しているD-45にしろ、何故こんなにまでマニア垂涎のヴィンテージギターを、彼が何本も所有しているのかが不思議でならない。
「あんたって…ギター収集マニアとか…?」
いや、それだったら簡単に、こんなギターをぽんとプレゼントなんてあり得ない筈。何者なのだ…彼は。

「私は違うけれど、知り合いにコレクターがいてね。それを譲り受けたものだから、いろいろ手元にあるんだよ。」
彼はそう言って、『メジャーデビューのお祝いも兼ねて』と付け足したが、それでもこんな価値のあるものが、目の前に転がって来るなんて。

これだったら、あの家のリフォームも手伝ってやるか、とまで思ってしまう。
イノリにとっては、あまりにも眩しい贈り物だった。



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Megumi,Ka

suga